西館建久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
西館建久
時代 江戸時代
生誕 文政12年(1829年2月1日
死没 明治25年(1892年9月15日
別名 丑太郎、孤清、平馬
墓所 江東区亀戸の長寿寺
幕府 江戸幕府
主君 津軽承昭
弘前藩
氏族 西館氏
美佐子
養子:武雄
テンプレートを表示

西館 建久 / 西舘 孤清(にしだて たてひさ / にしだて こせい)は、江戸時代後期の弘前藩士。弘前藩権大参事は孤清。

生涯[編集]

勘定奉行や在京用人などを務めた。慶応4年/明治元年(1868年)7月1日、神戸港からアメリカの汽船で朝廷令書と近衛家教書及び金5500両を持って出航し、4日三厩に到着した。当日に弘前に帰還し、弘前藩を勤皇方へ導いた。明治2年(1869年)、弘前藩権大参事となり、永世俵150俵を賜った。翌3年(1870年)には西館建哲山中逸郎らと豪農からの田地買上げ及び士族への分与を提案し、実現させた。同5年(1872年)の東奥義塾の設立に関わり、翌6年(1873年)に津軽家家令となった。明治7年(1874年)1月に辞し、7月から15年10月まで津軽家の世話をした。後に東京で死去した。

本多庸一の弟(西館武雄)を養子とした。 

人物[編集]

剣道を極め、歴史や経済に明るく、優れた人物であった。

参考文献[編集]

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社
  • 日本歴史学会『明治維新人名辞典 日本歴史学会編 吉川弘文館