西田無学
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西田 無学(にしだ むがく、本名:利蔵(としぞう)、1850年(嘉永3年) - 1918年(大正7年))は、日本の江戸時代末期から大正時代初期にかけての宗教家・仏教思想家。
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[編集] 人物・来歴
西田は大正初期に神奈川県の横浜に住み、大工の手伝いや灰汁を買いに行くなどという、貧しい生活を送っていた。しかし妻に先立たれ、また2人の身体に障害を抱える子供を養うも、貧苦の中にあって実子共に病気で失ったことを契機に、仏立講(現在の本門佛立宗)に入信した。しかし後にやめて独自に法華行者として辻説法を行うようになった。この頃から供養の行われぬ諸霊を供養して初めて不幸の因縁を断つことができると確信。各地の無縁仏の戒名を書写しては自宅で供養し、在家による法華経の先祖供養の行法を確立した。その数は数万体に及んだといわれる。
[編集] 法華経による先祖供養の行法
西田は、法華経常不軽菩薩品第二十の但行礼拝行[1]を発想の原点とした。そこから、先祖代々の霊を僧侶に供養してもらうことを自らを他人任せにすることに等しいと批判し、先祖代々の霊と共に自らの仏性を護念することにより共に成仏出来るよう修行・祈願することを説いた。その祈願の際の勤行に用いられるのは、法華経の開経である無量義経からの抜粋と同じく結経である仏説観普賢菩薩行法経からの抜粋・若干の祈願唱を編集したもので、礼拝行を以って法華経の読誦に代えるということから妙法華経の要文抜粋は割愛されている[2]。
又西田は、仏法における人々の平等性を強調し、既成仏教において布施の金額によって戒名の格付けまでなされている事に強く反発した。そのため先祖代々の諸霊全てに対し生・院・徳という格の高い文字が含まれた9文字の総戒名を付け直し、それを成仏への祈願の象徴として供養するというシステムを作り出した。
[編集] 西田の影響
西田の活動はあまり活発なものではなく、西田の死後は高弟の増子正学(酉吉)によって活動が続けられていた。その頃、日蓮宗系の霊能者であった若月チセに拠って霊友会[3]を結成していた久保角太郎と戸次貞雄は折に西田の行法に触れる機会があり、西田の死後1919年から増子について学ぶことになった。久保と戸次は、西田の先祖供養の行法と若月の霊能を以って民衆を救済するという考えに至ったが、若月の同意を得ることが出来ず両者は若月の元を去る。その後、久保は義姉の小谷喜美を霊能者として見出し、現在の霊友会を創立。法華経による先祖供養と霊能による救済を教義の軸に据えた。戸次は福島市へ移って活動し、その流れは現在の日本敬神崇祖自修団に至っている。
[編集] 解釈と評価
西田は、日蓮宗など従来の伝統宗派の解釈とは異なり、上記のように法華経と先祖供養を結びつけたが、また法華経に説かれる仏所護念という語義もまた異なる。伝統宗派では、法華経がある所や信じられている所は如来によって護念されている、とされるが、西田は、先祖のいる場所やその仏心のある場所は子孫や大衆によって護念される、という新しい解釈を打ち出した。また既成宗派の戒名のランク付けを徹底的に批判したのも、法華経の平等大慧の見地によるものであった。
西田は、これら既成宗派の僧侶が堕落し在俗の職業的に変わらないことを見限り、在家信徒の先祖供養は僧侶に任せるのではなく、在家信徒自身が行わなければいけないと説いていた。
したがって、西田無学によって提唱された先祖供養は、現在の日本において強い影響を与えている。しかし、彼は余り知られた存在ではなかったため、近代に至るまで既成宗派や仏教学では彼の唱えた「仏所護念・平等大慧」は、ほとんど無視に近い状態であったといわれる。慶應義塾大学の印度哲学客員教授である由木義文は『西田無学・研究ノート』でこれを指摘し、彼の理念やその行動を正当に評価すべきだと述べている。
[編集] 註
- ^ 全ての霊の仏性を信じて決して誰も軽んじず、ひたすらに尊重礼拝=護念すること
- ^ これを総称して青経巻あるいは法華三部経(内部では一部経)と呼称し、霊友会系の教団では根本経典として扱われている
- ^ 現在は日蓮宗法智教会。現在の霊友会とは別組織。

