褐色館

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座標: 北緯48度08分43秒 東経11度34分03秒 / 北緯48.14528度 東経11.56750度 / 48.14528; 11.56750

褐色館(1935年)

褐色館(かっしょくかん、ドイツ語: Braunes Haus)は、かつて存在した国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党本部として使用されていた建物である。バイエルン州ミュンヘンブリエナー大通りドイツ語版45番地(Brienner Straße 45)にあった。

歴史[編集]

党本部の始動を祝うために褐色館に集まったナチ党員。中央は指導者ヒトラー(1930年)
館内に展示されたSA第1(ミュンヘン)、第16(リスト)連隊旗(1933年)
爆撃で破壊された褐色館(1945年)

褐色館はカロリーネン広場ドイツ語版ケーニヒス広場ドイツ語版の間に位置する。1828年、貴族カール・フォン・ロッツベック男爵の注文を受け、フランスの建築家、ジャン・バティスト・メチヴィエドイツ語版新古典主義様式の住宅として建築した。その後、1876年に長年ドイツで暮らしていたイギリス実業家、ウィリー・バーロウ(Willy Barlow)が買い取り、「バーロウ宮殿(Palais Barlow)」や「大邸宅(Adelspalais)」という通称で呼ばれるようになった。

1930年5月26日、ナチ党は80万5,864金マルクを支払ってバーロウの未亡人から買い取り、「褐色館」という新たな名称を与えた。当時、ナチ党はシェリング大通り50番地(Schellingstraße 50)に本部を設置していたが、党の拡大に伴い手狭になってきた為、より大きな建物を探していたのである。購入資金は実業家フリッツ・ティッセンが提供した。

本部として使用するにあたって大規模な改装工事が行われ、ミュンヘン出身の建築家パウル・ルートヴィヒ・トローストドイツ語版によって行われ、またナチ党指導者アドルフ・ヒトラー自身のアイデアもいくらか取り入れられている。1931年までに党本部機能の全てが褐色館へ移動した。

褐色館内のヒトラーの執務室には、彼が尊敬するアメリカの実業家ヘンリー・フォードの肖像画が飾られていたという。また、ナチ党における事実上のレガリアとされていた、ミュンヘン一揆の時に銃撃で死亡した党員の血がついたハーケンクロイツ旗『血染めの党旗英語版』が保管されていた。

褐色館は第二次世界大戦中の1943年10月に行われた連合軍による空襲を受け被災、その後も繰り返された空襲により全壊した。血染めの党旗も1944年10月18日国民突撃隊入隊式で展示されたのを最後に行方不明となったが、褐色館と共に焼失したものと考えられている。なお、この瓦礫の中から、ヒトラーが反ユダヤ主義の思想を記した最古の記録とされる「ゲムリッヒ書簡」が、連合軍の兵士によって発見されている。戦後の1947年には瓦礫なども撤去され、跡地には何も建設されず、更地のまま放置された。

資料センターの設置[編集]

国家社会主義資料センター (2015年2月)

2005年12月6日バイエルン州政府は褐色館跡地にナチス・ドイツ時代の国家社会主義に関する資料センターの設置を決定し、起工式は2008年と予定されていた。しかし、資金調達の失敗から計画は大幅に遅れる事となる。2009年6月にはミュンヘン市当局と州政府により改めて28,200,000ユーロが調達された。2011年にはようやく工事が始まり、2012年3月9日には基礎工事が完了した[1]。資料センターは2015年4月30日に開館式典が行われ、5月1日から一般に公開されている[2]

ギャラリー[編集]


参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ muenchen.de. “Das NS-Dokumentationszentrum in München”. 2015年3月22日閲覧。
  2. ^ NS-Dokumentationszentrum München”. 2015年5月20日閲覧。

外部リンク[編集]