裁かるるジャンヌ
| 裁かるるジャンヌ | |
|---|---|
| La Passion de Jeanne d'Arc | |
| 監督 | カール・Th・ドライヤー |
| 脚本 | カール・Th・ドライヤー |
| 出演者 | ルネ・ファルコネッティ |
| 撮影 | ルドルフ・マテ |
| 編集 | カール・Th・ドライヤー |
| 製作会社 | ソシエテ・ジェネラール・ドゥ・フィルム |
| 公開 | |
| 上映時間 | 96分(20fps) |
| 製作国 | |
| 言語 | サイレント映画 デンマーク語インタータイトル フランス語インタータイトル(フランス公開版) |
『裁かるるジャンヌ』または『裁かるゝジャンヌ』(仏: La Passion de Jeanne d'Arc、ジャンヌダルクの受難)は、フランスで制作された白黒サイレント映画(無声映画)で、1927年に制作され、翌28年に公開された。ジャンヌ・ダルクの異端審問裁判の様子とその後の火刑までを描いた映画である。実際の裁判記録をもとに脚本が書かれ、ジャンヌを英雄視せず、あくまで尋問調書から読み取ることができる一人の人間として描いている。監督はデンマークのカール・Th・ドライヤー。主演はルネ・ファルコネッティ。ドライヤーの代表作の一つである。
目次 |
物語 [編集]
鎖でつながれたジャンヌが兵士に伴われて姿を現す。異端審問官たちの前に連れてこられたジャンヌに次々と質問が投げかけられる。ジャンヌはそれにひとつずつ答えていく。審問官たちは巧みに彼女の答えを誘導する。彼らはジャンヌに神と取引をしたと言わせ、それは神への冒涜だと返す。フランス王シャルル7世からジャンヌへの親書だと偽りの手紙をあたえることにより審問官の一人を彼女に信用させる。それを利用し誘導尋問を進め、ジャンヌから教会の存在意義を否定する言葉を引き出そうとする。
拷問室へ連れてこられたジャンヌは、さらに強迫をうける。ジャンヌが見たのは神ではなく悪魔であること。自らが悪魔の手先であること。それらを認めたうえで悪魔の教えを捨て去ること。その証明として、異端放棄の宣誓書に署名をするよう迫られる。ジャンヌは気絶する。治療のため医師がジャンヌに瀉血を行なう。それにより、さらに体力を失ったジャンヌは死への恐怖におののく。コーションはジャンヌが求めていたミサの準備をする。しかし、聖体拝領の段に至り、彼らはそれを遮ってジャンヌに異端放棄の署名をするよう迫る。コーションは、逡巡するジャンヌにミサの中止と死刑の準備を告げる。ジャンヌは処刑場に引き出される。心身ともに衰弱したジャンヌは死への恐怖からついに審問官たちに屈する。火刑を許され、終身刑を宣告される。牢獄に戻され髪を剃られたジャンヌは処刑場でのことを後悔する。審問官を呼び、署名の撤回を求める。死を免れるために嘘をついたと告白する。火刑の準備が始まる。
マシューはミサを手配し、ジャンヌの告解を聞く。火刑を聞きつけた群衆が城に押し寄せる。ジャンヌは生きたまま火で焼かれる。ジャンヌの死刑を批難する群衆が暴動を起こすが、兵士たちがそれを鎮圧する。
スタッフ [編集]
- 監督・脚本・編集: カール・Th・ドライヤー(Carl Th. Dreyer)
- 撮影: ルドルフ・マテ(Rudolph Maté)
- 美術: ヘアマン・ヴァルム(Hermann Warm)、ジャン・ユーゴー(Jean Hugo)
- 衣装: ヴァレンティヌ・ユーゴー(Valentine Hugo)
キャスト[1] [編集]
| 出演者 | 役名 |
|---|---|
| ルネ・ファルコネッティ(Renée Falconetti) | ジャンヌ(Jeanne) |
| ウジェーヌ・シルヴァン(Eugene Sylvain) | ピエール・コーション(Pierre Cauchon) |
| モーリス・シュッツ(Maurice Schutz) | ニコラ・ロワズルール(Nicolas Loyseleur) |
| アントナン・アルトー(Antonin Artaud) | ジャン・マシュー(Jean Massieu) |
| ジルベール・ダリュー(Gilbert Dalleu) | ジャン・ルメートル(Jean Lemaitre) |
| アンドレ・ベルレイ(André Berley) | ジャン・デスティヴェ(Jean d'Estivet) |
| ルイ・ラヴェ(Louis Ravet) | ジャン・ボーペール(Jean Beaupère) |
| ジャン・ディドゥ(Jean d'Yd) | |
| ミシェル・シモン(Michel Simon) |
制作 [編集]
監督第1作『裁判長』以来、主に家族の物語を描いてきたドライヤーは、フランスを舞台に歴史劇に取り組むことになる。『あるじ』(1925年制作)の世界的な成功を受け、ドライヤーのもとにフランスの映画会社ソシエテ・ジェネラール・ドゥ・フィルムから映画製作の依頼が舞い込んだ。当初、マリー・アントワネット、カトリーヌ・ド・メディシス、ジャンヌ・ダルクの3つの企画案があった。ドライヤーとソシエテ・ジェネラールとの間で幾度かの会談がもたれたが決定を見なかったために、最終的に籤引きによりジャンヌ・ダルクを扱うことが決められた[2]。ソシエテ・ジェネラールは、ジャンヌ・ダルクの小説を書いて注目を集めていたジョゼフ・デルテイユ[3]と契約、デルテイユは映画脚本を仕上げるがドライヤーはその脚本を使用しなかった。彼がこの映画で描こうとしたのは、聖なるジャンヌとしての神話化された英雄物語ではなく、実際の裁判記録に基づいた裁判の再現であった。歴史学者ピエール・シャンピオンの助力を得て、裁判記録を詳細に研究したドライヤーは、古文書が明らかにする異端審問官たちの裁判テクニックに注目した。それは、審問官による簡潔な質問と、短く明快なジャンヌの答えであった。簡単な問答を繰り返しつつ、徐々に審問官たちの有利な方へと答えを誘導しようとする。その一言一言がジャンヌをいたぶり苦痛となって彼女を苦しめる。その裁判テクニックを映画の中に移し入れようとしたのだ。その両者の問答を映像で表現する手段としてクロース・アップが用いられた。極端なアップと仰角撮影(地面に穴を掘ってその中にカメラマンが入り込んだ)によって、ジャンヌが受けた言葉による拷問と同じ衝撃を見るものに与えようとしたのだった。結局、脚本はドライヤーが自身の手で完成させた。映画の中で語られる台詞はすべて実際の裁判調書からとられた。そして、実際は数ヶ月かかった裁判を一日の出来事としてまとめあげた。使われなかったデルテイユの脚本が、1928年に「裁かるるジャンヌ」の脚本として出版された[4]。ドライヤーによるオリジナル脚本は、1964年に「吸血鬼(ヴァンパイア)」「怒りの日」「奇跡」の脚本とまとめて出版されている。
撮影ではすべての俳優がノーメイクで演じた。一つ一つのシーンを納得がいくまで繰り返し作り込み、膨大な量のフィルムと時間を費やして撮影された。ショットの多くは奇抜なアングルで撮影され、(遺作『ゲアトルーズ』のように)登場人物たちの視線もなかなか交わろうとはしない。しかし、画面構成はとても端正であり美しい。繰り返し現れる顔のクロース・アップは、時空間を歪める。背景が基本的に白い壁であることからエスタブリッシュショット(その場所・状況を把握させるためのショット)がその意味をなさないこともあり(また極端に少ない)、さらにその効果を強める。その結果ショットの連続性は弱められ、アクションの連鎖による物語の叙述も否定される。それは通常の物語映画が獲得しようとする登場人物への同一化を妨げることでもある。従来の映像表現および物語構成の定石を否定し解体するのだ。観客はその裁判の傍聴人となり、老獪な異端審問官たちによりサディスティックなまでに痛めつけられるジャンヌを見る。そしてその卑劣で偽善に満ちあふれた法廷で一人苦闘し翻弄される少女の姿を目の当たりにするのだ。
ドライヤーはこの作品をトーキー映画(発声映画)にしたいと考えていた。しかし、そのスタジオ設備を整えるリスクを冒すことを当時のヨーロッパ映画界は避けていたため断念するしかなかった[4]。ドライヤーは撮影において、すべてのシーンで俳優に字幕で書かれているのと同じ台詞を喋らせている。つまりトーキー映画のように撮影された。さらに、脚本の筋の運びの順番通りに撮影された。ドライヤーは、その場に実際の裁判が復活したかのような、本物のジャンヌと審問官たちが蘇生したかのような雰囲気をつくりあげていった。俳優たちは催眠術にでもかかったかのように彼らの役を演じ続けた。撮影が終わった後も、ある者は泡を吹きながらジャンヌに暴言を浴びせ続け、またある者は「実はあいつは魔女だったのだ!」と一人つぶやいていた。恐怖と欺瞞で満ちあふれた法廷の重い空気が常にスタジオに溢れていた。処刑の前、髪を剃るジャンヌのシーンが行なわれた時、撮影スタッフたちは涙を流し、撮影が終わると彼らは花を手にジャンヌ役のファルコネッティのもとへと集まってきた。ファルコネッティもまた涙を流していた。ドライヤーは「ゆっくりヒロインに近づき、彼女の涙のいくつかをその指でぬぐい、それから彼の唇にその指を押しあてた。」[4]。
この映画には、詩人・作家・舞台俳優であり、後年「残酷劇」を提唱し、後の時代の思想・演劇界に影響を与えることになるアントナン・アルトーが出演している。すでに、作家・舞台俳優として名を知られていたアルトーは、映画出演も積極的におこなっていた。「裁かるるジャンヌ」の直前には、アベル・ガンス監督の『ナポレオン』[5]にもマラー役で出演している。その後もアルトーは脚本の執筆や映画製作などに力を入れていたが、いつしか失望へと変わり、映画界から離れるだけでなく、映画を攻撃するまでになった[6]。しかし、アルトーはドライヤーの人間性と俳優たちへの接し方に感銘を受け、彼が偉大な監督であると認めていたようだ。「(アルトーは、ドライヤーと)いっしょに仕事をしたことを忘れ難い思い出としてもちつづけた。(中略)当時、映画俳優たちは、多くの場合、中身がからっぽの操り人形だったが、アルトーはドライヤーが各登場人物の心理にわけ入るために心を使っているのを見て驚いた。」[7]。そしてアルトーは自身にあてがわれた役を次のように理解した。「私が映画について、詩について、人生についてどんな考え方をしていようと、とにかくその時は、私が関わっているのがある美学、主義主張でもなく、一つの作品であり、最も苦悩に満ちた問題の一つを解決しようと努力している一人の男であることがわかった。ドライヤーはジャンヌ・ダルクが最も恐ろしい変形の一つの犠牲であったことを証明しようとした。政府とか教会とかほかのどんな名で呼ばれようと、神の原理が人間たちの脳を通ったために起こる変形の犠牲であることを。」[7]。
撮影カメラマンはポーランド出身のルドルフ・マテが起用された。『ミカエル』(1924年)で初めてドライヤー作品に参加した[8]。マテの仕事ぶりを高く評価したドライヤーは、『裁かるるジャンヌ』、さらに次作の『吸血鬼(ヴァンパイア)』(1930年)でもマテを起用している。『裁かるるジャンヌ』にかぎらず、ドライヤー作品に於いてカメラマンの役割を軽視することはできない。ドライヤーは作品ごとにその映画を成り立たせる表現スタイルを探し求めたが、それはカメラマンとの共同作業の場でもあった。映画批評家ドナルド・リチーは次のように評価している。「彼(マテ)はドライエルとファルコネッティと共に三脚の一本を担う者だった。ドライエルの意図を実現したのは彼であり、異端糾問所において詰問する裁判僧たちのいくつかの顔を、ふいに画面全体を満たすかに思われるすぐれた大写しにとらえたのも彼である。」(ドナルド・リチー「裁かるるジャンヌ」『映画芸術の革命』二〇世紀芸術叢書3/昭森社/1958年)この映画の特異な表現スタイルの実現のためにはカメラマンの技術とさらには柔軟性は欠かせない要素であった。ドライヤーは次のように語っている。「私は幸運なことに、これまでつねに、仕事を愛し、仕事のすべを心得、しかも、ある種の探求に没頭したり協力したりすることをいやがらないカメラマンを見つけることができました。」[2]。
この映画では撮影用フィルムとしてパンクロマティックフィルムが使用されている。当時は新製品であったこのフィルムは、感光域が広く、可視光線全域をとらえることができ、肉眼で見るのに近い明暗を再現できる。これ以前のフィルムでは、赤い光には反応せず、たとえ画面内に赤があったとしてもそれを白黒の濃淡で再現するのは不可能であった。このフィルムの再現性の高さは、超クロース・アップで捉えられた俳優たちのノーメイクの顔をさらに引き立たせ、監督が意図したリアリズムを増幅させた。
このフィルムの特性は、舞台装置に施された彩色も引き立たせた。中世の写本に収録された細密画(ミニアチュール)をもとに、この物語の舞台となるルーアンの城塞が造られ、壁は薄いピンクに彩色された[9]。それにより白い空の中に、城の壁が存在感を放っている。美術を担当したのはヘアマン・ヴァルムとジャン・ユーゴーである。ヘアマン・ヴァルムは『カリガリ博士』(1920年)の舞台装置を制作した人物である。ヴァルムはルドルフ・マテと同様に『吸血鬼(ヴァンパイア)』にも参加している[10]。ジャン・ユーゴーはフランスの画家・舞台美術家であり、作家ヴィクトル・ユーゴーのひ孫である。ドライヤーはこの映画の舞台装置を用意する上で、既存の中世の建築物を使用したりモデルにすることを避けた。中世に描かれたミニアチュールはルネサンス以前のものであり遠近法が使われていない。それをもとにセットを組み上げたために城や家々は独特なプロポーションを成している。中世を再現するために、現代的なリアリズムにおいて行なわれるのではなく、「中世絵画に見られる造形上の真実ーその時代の画家が世界をこのように見、再現したという真実」[9]によってルーアンの町を再現しようとしたのだ。セメントで造られたこの城は、高い塔を持ち、城門や跳ね橋を備え、城壁の内側には教会や家、広場などが建造された。撮影では使われない部分に至るまで再現された。
流転するフィルム [編集]
『裁かるるジャンヌ』は、1928年4月、まず最初にデンマークで上映された。同年10月、フランスで公開されたが、カトリック教会の思惑で改変された形でしか上映できなかった。教会と異端審問官を告発するかのようなこの作品を受け入れることは彼らには到底出来るはずも無かった[11]。フランスにおいてオリジナル版を観ることができたのは一部の映画評論家や映画関係者のみで、改変が行なわれる以前に観ることができた彼らはこの映画を高く評価している[12]。オリジナル版を観ることができた映画理論家のレオン・ムーシナックは検閲後の一般公開版を次のように評している。「カール・ドライヤーの全く関与していない妥協に続くカットと修正はあまりにひどく、(中略)退屈で動揺した映画を観客はここに認め得るだけであった。」[9]。
そんな中、同年12月、編集済みのオリジナルネガを保管していたドイツのウーファー社の倉庫で火災があった。その火事によってオリジナルネガは消失した。外国にフィルムを売るために、没になった未使用ネガをかき集めドライヤー自身の手により再編集が行なわれた(第二版ネガ)。そこからポジプリントが起こされ、それがデンマーク、フランスを除く諸外国に送られ各地で上映された(日本では翌29年に公開)。さらに悲劇は続く。1929年、パリで保管していた第二版ネガが再び火災により失われたのだ。その後、ソシエテ・ジェネラール・ドゥ・フィルム社が負債を抱えて倒産(その一因は、多額の資金を投入しながらそれを回収できなかった『裁かるるジャンヌ』の興行的失敗にある)、それに伴い、残された未使用ネガが散逸。デンマークで上映されたポジプリントは2本あったらしいが、これも姿を消してしまった。この時点で存在がわかっているのは、世界各地に送られた第二版ポジと、フランスで検閲の末に改変された第一版のフランス語版ポジとなってしまった。その後、ドライヤーの関知しないところで散逸した未使用ネガを使い再編集が行なわれたり、デンマーク映画博物館の主導で世界各地のプリントを使い最良のバージョンを作ることが試みられたりした。さらに、さまざまな版のプリントがさまざまな形で改変、コピーを重ねられ、世界各地に流布していった。特にアメリカにおいて違法コピーが広く流通した。コピープリントからさらにコピーが繰り替えされ、それらは後にビデオテープやレーザーディスクにもなって世界各地へと広がっていった。日本で長い間流通していたビデオソフトも、英語のインタータイトル(中間字幕)が付いていたことを考えるとそのうちの一つだと思われる。ところが1984年に事態は急転する。デンマークで上映されたポジプリント一本が発見されたのだ。それはノルウェーのオスロにある精神病院に保管されていた。デンマーク語字幕がつけられているそのオリジナルプリントはきれいに保存されていた。同年11月に企画されていたイタリアのヴェローナでのドライヤーの国際シンポジウムにおいてそれは公開された[13]。
日本では、1994年に有楽町の朝日ホールでそのオリジナル版が初めて上映され、その後も各地で上映されたが、それはいずれもシネマテーク・フランセーズにより中間字幕をフランス語に書き換えたバージョンである。それと同版が1999年に米クライテリオン社から世界で初めてソフト化されている。2005年、デンマーク語字幕版DVDが日本において紀伊国屋書店から発売された。
日本市場で過去に流通していたビデオ [編集]
2005年に日本でもオリジナル版のDVDが発売されたが、それ以前には海賊版から流用されたビデオが広く出回っていた。2012年現在でもレンタルビデオ店や中古市場でそれらを目にすることが出来る。レンタルビデオ店に置かれ長い間広く視聴されてきたIVC版『裁かるゝジャンヌ』(「映画生誕100年記念」世界クラシック名画100撰集、VHS版)とオリジナル版との最大の違いは、その画面の大きさである。IVC版は周囲(特に画面左端)が大きくカットされ画面構成が大きく崩れている(無声映画を無理矢理音声映画にしようとしてサウンドトラックを焼き付けた場合にこのように画面左側が大きく欠ける画面ができあがる)。周囲がトリミングされているために、多用している顔のクロースアップがさらに強調され、その不自然な画面構成は異様な雰囲気を作り出している。結果的にその異様さは、この作品の本来持っているエキセントリックと言えるまでの特異な表現性を偏った形で増幅させている。
上述したように、この作品は特異なアングルで撮影されたショットでそのシーンの多くが構成されており、例えば画面の隅や下方に被写体が映っているショットが多々ある。大きくトリミングされたIVC版ではそれらのショットでは被写体が消え、結果的に背景しか映っていないようにしか見えない。その2つの版が違う編集をされているように感じるのはそれが大きな原因である。さらに、画質の差も極めて大きく、IVC版はコピーを繰り返してきたことがよくわかる。
映画の冒頭には解説文がつけられているが、両版で大きく違っている。他にも数カ所にインタータイトルの改変は見られる。字幕以外の改変も見られる。すくなくとも2箇所切り落とされているショットがあるが、演出意図を大きく改変しているとは思われない程度だ。ショットのコンテュニティの構成に差はないと言っていい。もちろん特定のシーンが欠落しているなどといったこともない。IVC版には、オリジナルと同一だと思われるショットも多数見られる(ジャンヌの額に止まるハエの動き。顔にかかった審問官の唾。屋根に止まる鳥の位置と動き。割れたガラスの位置と形。炎と煙の形。俳優の表情、仕草にも違いを見いだすことができなかった。)。第二版から丸ごとコピーされたものではなく、第一版のショットが混ざっていることは間違いない。むしろ、オリジナルと差異があるショットを見つけられないと言わざるをえない。だとするならば、このIVC版の原版は第二版ではなく、第一版ではないだろうか。おそらくフランスに送られたプリントが原点だろうと思われる。
評価 [編集]
1984年にオリジナルフィルムが発見されるまでの半世紀、オリジナル版を観ることができたのは極限られた人たちだけであった。それも、1928年のほんの数ヶ月たらずである。また、この映画はきわめて特殊な表現形態を持っていた。それゆえに賛否はわかれた。そもそも複数あるバージョンのうち、どのフィルムを観たのかでも作品の印象が変わってしまうのだから評価する人や年代によっても差異がでてしまうのは当然である。
1929年、日本でも賛辞と戸惑いとを伴って迎えられた(日本で公開されたバージョンは、オリジナル版ではなく、ドライヤー自身の手により再編集された第二版である)。
試写の段階では『ジャンヌ・ダルク』や『ジャン・ダーク』という作品名で紹介されたが、この作品は「新感覚なる演出」が用いられており、「史劇的題名を変更」する必要があるとして、この作品を輸入したヤマニ洋行社により一般公開前に新邦題が付けられた。『裁かるるジャンヌ』『セント・ジョン』『ジャンヌ・ダルクのパシヨン』『ジャンヌ受難篇』『ジャンの最後』という5つの候補名の中から賞金付きで一般公募が為された[14]。ジャンヌ・ダルクを扱っていながら戦闘シーンも英雄も描かれないうえに、特殊な表現形態を持つこの作品をどう紹介・宣伝するのか苦心の跡が垣間見える。批評家や映画誌等では概ね好評[15]であったものの、「人気が呼べるかどうかは疑問」「研究者・好事家にもてはやされるだろう」[16]という指摘もされている。
フランスの映画監督ロベール・ブレッソンはこの映画を否定し続けた一人である。彼が観ることができたバージョンは不明だが、著作で次のように評している。「真実のないとき、観客は虚偽に執着する。ドライヤーの映画の中で、ファルコネッティ嬢がまなざしを天に投げ、観客の涙を強要するあの表現主義的な手法。」[17]。1961年にブレッソン自身もまたジャンヌダルクの映画(「ジャンヌ・ダルク裁判」)を制作したが、やはりブレッソンもまた実際の裁判記録を脚本化するというドライヤーと同じアプローチをなぞることになる。ドライヤーは、1965年のインタビューで、「(ブレッソンの作品を)一本も見ていない。」と答えている[2]。
BFI(British Film Institute 英国映画協会)が発行するSight & Sound 誌で10年に一度行なわれているオールタイム映画ランキングでは、「裁かるるジャンヌ」は三度10位以内に入っている[18]。1952年に7位、1972年に7位、批評家と映画監督との投票に分割された1992年には批評家投票では6位、映画監督投票では10位に入っている。このランキングからサイレント作品が激減する1962年度以降に10位以内にランクされたサイレント作品は、『グリード』(1924年)、『戦艦ポチョムキン』(1925年)、『将軍(キートンの大列車追跡)』(1926年)、『サンライズ』(1927年)そして『裁かるるジャンヌ』の5本である。
「現代映画講座」第3巻シナリオ篇(東京創元社/1954)に「劇的境遇三十六」という章がある。これは劇的なシチュエーションを36通り設定し解説したものだが、31番目に「神と戦う」という項目がある。映画監督大島渚はその項を読んだときそこにドライヤーを重ね合わせた。そして映画監督という職業への恐怖心を抱いた。大島は、映画監督とは神の仕事であると言い、ドライヤーはそれを自覚していただろうと分析する。「彼は人間をふくめて自然がそれぞれのいのちのままに生きかつ死ぬ以外にないことを知っていた。自然の上に降る光と影もまた人間の意志を越えてめぐりゆきめぐりきたるものであることを知っていた。知りながら彼は自然に別のいのちを与え、光と影を与えようとした。神をおそれぬ仕わざである。何のために?おそらく彼は、そのことによって神を見ようとしたのだろう。(中略)ドライヤーはその頃、神を見ようという狂気に身をやいていたのだ。」[19]。
ジャン・ルノワールもまたドライヤーを高く評価していた。ドライヤーが世を去った直後に書かれた次の文章は、この作品の評価だけでなく、まるでこのフィルムの数奇な運命とその結末、そしてそれに振り回された我々ドライヤーの観客たちの混乱ぶりを予期しているかのようだ。「ドライヤーは理論を超越しており、自らの武器を選ばない。われわれ、彼の観客に至り着くまでに彼の霊感がいかなる道のりを辿ったかなど、どうでもいいではないか。重要なのは『裁かるるジャンヌ』だけでなく、他の諸作によっても、彼はわれわれとともにあり続けるだろうということだ。そして卑近な日常をはるかに越えた地点で、会話が成り立ったということである。」[20]。
脚注 [編集]
- ^ 「聖なる映画作家、カール・ドライヤー カタログ」エース・ジャパン/2003、『裁かるるジャンヌ/デンマーク語字幕オリジナル版』DVD付属解説リーフレット/紀伊国屋書店/2005、「フィルムセンター」51デンマーク映画の史的展望/東京国立近代美術館フィルムセンター/1979、以上三つの書籍、さらに、インターネット・ムービー・データベース、CARL TH. DREYER - THE MAN AND HIS WORK、ウィキペディア英語・フランス語版などのインターネットサイトを参考にした。劇中において、ジャンヌを除いて登場人物の名前が一切記されない(スタッフロールもない)のでそれぞれの役名を判断するのは困難である。参照した資料においていくつかの差異が見られる。特に審問官の名前で違いが多い。例えば、ジャン・ディドゥの役名がニコラ・ドゥ・ウップヴィル(Nicolas de Houppeville)とする資料とギョーム・エヴラール(Guillaume Evrard)とする資料にわかれる。当時はまだスターではなかったミシェル・シモンの扱いにも違いが見られる。登場シーンがわずかなためか名前自体を書いていない資料も多い。また、役名をジャン・ルメートルだとする資料もいくつかある。参照したすべての資料で違いのないもの、および有力だと思われるもの、映像を見て確認した人物を表記した。次のサイトも参考にした。http://www.cinema-francais.fr/les_films/films_d/films_dreyer_carl_theodor/la_passion_de_jeanne_d_arc.htm
- ^ a b c 「カール・Th・ドライヤーに聞く」ミシェル・ドラエ (『作家主義』奥村昭夫訳/リブロポート/1985 )
- ^ ジョゼフ・デルテイユはフランスの作家でシュルレアリストの最古参の一人だった。この小説『ジャンヌ・ダルク』(1925年)はフランスの文学賞であるフェミナ賞を受賞している。当時、ヨーロッパではジャンヌ・ダルクに注目が集まっていた。1908年にアナトール・フランスの評伝が出版され、1923年にバーナード・ショウの戯曲『セント・ジョウン』が発表。そして、デルテイユの『ジャンヌ・ダルク』。1920年には教皇により列聖されている。小説『ジャンヌ・ダルク』は、アンドレ・ブルトンにより酷評され、デルテイユはシュルレアリスム運動からは距離を置くようになる。その後もデルテイユは「商業主義」作家であるとしてブルトンらにより弾劾され続ける。1929年の『シュルレアリスム第二宣言』ではアントナン・アルトーらともども名指しで批難され、そこで展開される罵詈雑言は「血祭りの大殺戮」(「『シュルレアリスム運動体』系の成立と理論」田淵晋也/勁草書房/1994)であった。アルトーがシュルレアリストグループから除名されるのは1926年末で、翌27年、つまり「裁かるるジャンヌ」制作時はブルトンとの激しい論争の最中であった。1929年にはメンバーの離脱、グループの分裂が進み、シュルレアリスム運動体は崩壊へと向かっていくことになる。
- ^ a b c 「カール・ドライヤーの展開」ジョルジュ・サドゥール(『世界映画史 12』図書刊行会/2000)
- ^ 『裁かるるジャンヌ』と同じソシエテ・ジェネラール・ドゥ・フィルムの製作。
- ^ 往々にして映画黎明期の演劇関係者は映画に対して否定的な発言をしているが、アルトーは映画にとどまらず多くのものを攻撃した。それは、かつて自身も所属したシュルレアリスムや演劇、あらゆる宗教、そして神さえも捨て去り、その影響下から逃れようとした。「ラシーヌ以来の心理的演劇の害毒は、演劇が持たなければならない直接的で激烈な行動をすっかり馴染みのないものにしてしまった。そして、次には映画がその映像で我々を生殺しにした。機械というフィルターをかけられて感受性に達することもできないのに、十年来、我々を無為な麻痺状態に閉じ込め、我々のあらゆる能力もそのなかに沈んでしまうようだ。」(「残酷と演劇」アントナン・アルトー/1933(『アントナン・アルトー著作集Ⅰ演劇とその分身』白水社/1996))
- ^ a b 「アントナン・アルトー」ジャン=ルイ・ブロー/安堂信也訳(白水社/1976)
- ^ 『ミカエル』の正式カメラマンはカール・フロイントであるが、制作途中に他の作品の撮影にまわされてしまったために、それ以後ルドルフ・マテが撮影を引き継いだ。『ミカエル』はエリッヒ・ポマーのプロデュースのもとドイツで制作された。カール・フロイントはドイツやアメリカで活躍した名カメラマンで、F・W・ムルナウやフリッツ・ラング作品のカメラマンとして知られている
- ^ a b c 「歴史と真実 ー カール・Th・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』のために」小松弘(『シネティック第2号』洋々社/1995)
- ^ 『裁かるるジャンヌ』でロワズルール役を演じたモーリス・シュッツも『吸血鬼』に出演している。
- ^ この映画に対する妨害は制作前から存在した。ドライヤーがジャンヌ・ダルクを映画で扱うことに対して、フランス国内の右翼が反発していたのだ。その理由は、彼が外国人であり、デンマーク人、つまりプロテスタントだからであった。さらにアメリカ人女優のリリアン・ギッシュがジャンヌ役を演じるとの噂が流れるとそれはさらに強まった。ドライヤーに対抗する映画まで作られた。マルコ・ドゥ・ガスティーヌ監督の「ジャンヌ・ダルクの驚くべき生涯」(1929)という映画で、「戦闘場面に力点をおいた大スペクタクル作品」(ジョルジュ・サドゥール「カール・ドライヤーの展開」)といったような内容だった。
- ^ 例えばジャン・コクトーは次のように評した。「『戦艦ポチョムキン』はドキュメンタリー映画を模倣して私たちを驚かせた。『裁かるるジャンヌ』は映画がまだ存在しなかった時代のドキュメントを模倣している」(ジョルジュ・サドゥール「カール・ドライヤーの展開」)
- ^ 「カール・ドライヤー国際シンポジウム/ドライヤー研究の現在」小松弘『月刊イメージフォーラム』6巻3号/1985/3
- ^ 「ジャンヌ・ダルク 新題名・懸賞募集」ヤマニ洋行宣伝部『キネマ旬報』第341号、1929年9月1日号
- ^ 「カアル・ドレイエルの作った、特異なる、そして全く優れたる映画。識者の必ず一見を要すべきもの。この数年間に於ける最良の映画の一つはこれである。」内田岐三雄「各社試写室より」『キネマ旬報』第343号1929年9月21日
- ^ 飯島正「主要外国映画批評/裁かるるジャンヌ」『キネマ旬報』第350号、1929年12月1日号
- ^ ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書ー映画監督のノート』松浦寿輝訳/筑摩書房/1987
- ^ BFI / The Sight & Sound Greatest Films poll ( http://www.bfi.org.uk/sightandsound/polls/topten/ )
- ^ 大島渚「映画『奇跡』の永遠性」/毎日新聞/1979年2月8日
- ^ ジャン・ルノワール「ドライヤーの罪」1968年12月/『ジャン・ルノワール エッセイ集成』野崎 歓 訳/青土社/1999
参考文献 [編集]
- 「カール・Th・ドライヤーに聞く」ミシェル・ドラエ (『作家主義』奥村昭夫訳/リブロポート/1985 )
- 「歴史と真実 ー カール・Th・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』のために」小松弘(『シネティック第2号』洋々社/1995)
- 「カール・ドライヤーの展開」ジョルジュ・サドゥール(『世界映画史 12』図書刊行会/2000)
- 『裁かるるジャンヌ/デンマーク語字幕オリジナル版』DVD付属解説リーフレット(紀伊国屋書店/2005)
- 「フィルムセンター」51デンマーク映画の史的展望/東京国立近代美術館フィルムセンター/1979
- 「裁かるるジャンヌ」ドナルド・リチー『映画芸術の革命』二〇世紀芸術叢書3/昭森社/1958年
- 「1927年5月7日/ファルコネッティとドライヤー、あるいはスターと不信心者」モーリス・ドゥルージ『季刊カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』特別号「映画を作った100日」フィルムアート社1995年12月
- 「アントナン・アルトー」ジャン=ルイ・ブロー/安堂信也訳(白水社/1976)
- 「『シュルレアリスム運動体』系の成立と理論」田淵晋也/勁草書房/1994