血の法典

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血の法典(ちの ほうてん)は西暦1400年から1750年までのイングランドにおける法制と刑罰体系とを後年において参照する言葉。当時は血の法典とは呼ばれていなかったが数多くの刑が死罪であったため後世にこの名がついた。

当時の法制が斯様に厳しいものであったのは多くの理由がある。第一にこの法は金持ちが作ったため彼らの利益が保護されるようになっている。例えば金、財産に対するいかなる行動も死罪になるようになっている。第二に多くの犯罪で死罪になるので犯罪が少なくなると考えられ抑止力となるよう厳しくなっている。

1660年以降死罪になる罪名は50から1750年には160、1815年には288と増加した。このとき死罪になる犯罪は、5シリング以上の価値のあるものの窃盗若しくは馬又は羊の窃盗若しくは放火反逆又は殺人の脅迫状が含まれた。死罪となる犯罪が増えたが18世紀には絞首刑の数は減ったと推定される。

1808年に「スリ」が死罪から外された。その後1820年代から30年代に多くのものが外された。判事陪審員は刑があまりにも重いと看做し有罪判決を減らし判事も多くの場合に盗品の価値を低く見積もり死罪にならないようにした。立法者は抑止力を期待していたので刑は厳しくなくなり流刑が多くなった。既に米国は独立を勝ち取っていたので殆どの受刑者は豪州へ流された。1788年から1867までには受刑者の約三分の一が豪州とヴァンディメンの地(今のタスマニア)へ流された。陸軍に入隊することで流刑を逃れる犯罪者もいた。


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