蕗谷虹児

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

蕗谷 虹児(ふきや こうじ 蕗谷虹兒、1898年明治31年)12月2日 - 1979年昭和54年)5月6日)は画家詩人

人物[編集]

1898年(明治31年)新潟県新発田町(現新発田市)に生まれる。本名は一男。母親は新発田町の湯屋の看板娘で京風の美人と伝えられる。新聞記者と駆け落ちし蕗谷虹児を産むが、貧困の末、虹児が12歳の時に27歳で死去。母への追慕の情が、後の作風に影響を与えたと言われる。

母親の死により家族は離散。新潟市の印刷会社に丁稚奉公、絵の勉強をしながら夜学に通う。1912年大正元年)貧しいながらも恵まれた絵の才能が新潟市長の目にとまり、日本画家の尾竹竹坡(おたけちくは)の弟子になるよう勧められ、14歳で上京(この尾竹竹坡の姪が『青鞜』の尾竹紅吉である)。内弟子として竹坡のもとで日本画を約5年学ぶが、父親の仕事の関係で樺太へ渡る事になり、それを機に放浪画家の生活を送る。

1919年(大正8年)竹坡門下の兄弟子の戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行をする。1920年(大正9年)竹久夢二を訪ねる。彼に雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、「蕗谷紅児」の筆名により同誌へ挿絵掲載のデビューを果たす(翌1921年に虹児に改名)。これをきっかけに、翌年朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判となるや時代の寵児となり、竹久夢二と並び称されるようになった。

1924年(大正13年)2月、『令女界』に発表した詩画「花嫁人形」は、後に杉山長谷夫の作曲で童謡にもなり、蕗谷虹児の代表作となった。他にも9冊の詩画集を出版した。挿絵に感傷的な余韻を残し、見る者に描き手の想いを伝える絵を手掛けたいと、自らの絵を「抒情画」と名付けるようになった。

1925年(大正14年)挿絵画家としての生活に飽き足らず、渡仏しパリへ留学。苦学の末、「サロン・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール」、「サロン・ドートンヌ」等への連続入選を果たし、またフランス画壇で活躍する日本人画家の藤田嗣治東郷青児等と親交を深める。ようやく画家としての地歩を固めつつあったが、1929年(昭和4年)東京の留守宅の経済的破綻により急遽帰国。借金返済のため、心ならずも挿絵画家の生活に戻るが、パリ風のモダンな画風は一世を風靡した。彼を世に送り出した夢二の柔らかい画風とは対照的に、このころの彼の挿絵はシャープかつ洗練された線で描かれ、都会的な香りに満ちていた。

1935年(昭和10年)詩画集『花嫁人形』出版。しかし、やがて戦争に突入し戦時色が強くなると蕗谷虹児の絵は時勢に合わず、制作を休止。

終戦後は、復興された各誌に執筆を再開。1953年(昭和28年)の小学館の絵本や、1956年(昭和31年)の講談社の絵本など、20冊を越える絵本の挿絵で子供に親しまれた。また、1954年(昭和29年)には「東映動画スタジオ」の設立に参加し、アニメーション映画『夢見童子』の原画・構成を担当した。

1968年(昭和43年)三島由紀夫の若き日の小説作品『岬にての物語』(牧羊社、署名入り豪華限定本)に、彩色画が挿絵装丁に用いられ、三島も蕗谷へのオマージュを記した。1979年(昭和54年)に中伊豆温泉病院で急性心不全により没した。

蕗谷虹児記念館」が彼の故郷である新発田市に建てられている。また、彼の「花嫁人形」を歌い継ごうと、1998年から毎年同市にて、「全国『花嫁人形』合唱コンクール」が行われている。

主な作品[編集]

関連項目[編集]

関連書籍[編集]

外部リンク[編集]