葵館

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1913年開館後、関東大震災前の葵館。
1924年、震災後に復興した葵館。

葵館(あおいかん)は、かつて存在した日本の映画館である[1]。日活の設立2年目に建てられた直営劇場であり[1]サイレント映画の時代の洋画専門館として知られ、また徳川夢声が同館のスター弁士であったこと、関東大震災後に再建した同館の建築等に吉川清作村山知義が携わったこと知られる[2]。所在地は赤坂溜池[3]

データ[編集]

略歴[編集]

  • 1913年7月 - 開館[1]
  • 1924年10月 - 再建・再開[2]
  • 1935年 - 閉館[7]

概要[編集]

1913年(大正2年)7月、東京府東京市赤坂区溜池30番地(現在の東京都港区赤坂1-1-17)に開館した[1][3]。同地番の区画には、大倉喜七郎日本自動車キネマ旬報編集部(1919年創刊)、フロリダダンスホール(1929年創業)があった。

1915年(大正4年)、もともとは撮影技師であったが秋田の凱旋座に特派員として務めていた西川源一郎[8]、同劇場の支配人に抜擢され、同年9月、同じく秋田にいた活動弁士の福原霊川(徳川夢声)を入社させ、説明部の主任とする[4][9]。福原は、入社時に説明部に所属した社員たちの反発を受け、改名を余儀なくされたことにより、「徳川家」の「」の紋章から、徳川夢声と改名した[4][9]。1920年(大正9年)、従来女形を用いる新派の劇映画を製作していた日活向島撮影所が第三部を創設し、女優の出演するサイレント映画『朝日さす前』(監督田中栄三)を製作、同年12月31日、洋画専門であった同劇場をフラッグシップに公開した[10]。同作は、1921年(大正10年)の正月映画として公開され、同年1月14日には『白百合のかほり』(監督田中栄三)、4月1日には『流れ行く女』(監督田中栄三)と『噫川島巡査の死』(監督坂田重則)、4月26日には『西廂記』(監督田中栄三)が同館で公開されたが、以降は同撮影所の製作物を上映することはなかった[11]

同年10月、銀座の金春館ブルーバード映画の時代を過ぎて斜陽期を迎え、挽回を期して、同劇場から支配人鹿野千代夫とともに、人気弁士の徳川夢声をヘッドハンティングする[9][12]

1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災に被災、同館の建物は崩壊したが、翌1924年(大正13年)、日活は吉川清作村山知義らに設計を発注、村山は喫茶室や緞帳をデザインし、荻島安治が劇場正面のレリーフを制作、同年10月、新装再開業した[2]。これを機に同館が発行していた『週刊アフヒ』は『Aoi Weekly』にリニューアルされ、以降3年間、村山がデザインを行った。同年、新宿武蔵野館で見習い期間を終えた須田貞明黒澤明の実兄)が、同劇場の活動弁士に着任している。

やがてトーキーの時代が到来し、1930年(昭和5年)には同劇場から活動弁士や楽士が去ることになる[13]。1935年(昭和10年)に閉館[7]、翌年1936年(昭和11年)には細川清がこれを買い取り、同所に「東京自動車市場」を開業した[9][14]。現在、首相官邸を背に特許庁の並びとなった同地には細川ビルが存在する。

葵館と文学[編集]

多くの文学者や著名人が同館で映画を観たことを日記に書き残し随筆に書き、小説に同館を登場させている。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 大浜・吉原[2002], p.186.
  2. ^ a b c 三国[1979], p.135.
  3. ^ a b c 葵館[1920], p.5.
  4. ^ a b c 徳川[1962], p.123.
  5. ^ 徳川[1962], p.172.
  6. ^ 田中[1980], p.334.
  7. ^ a b 牛原[1968], p.195.
  8. ^ 西川源一郎 - 日本映画データベース、2013年3月20日閲覧。
  9. ^ a b c d 細川[2007], p.234.
  10. ^ 朝日さす前、日本映画データベース、2013年3月20日閲覧。
  11. ^ 1920年 公開作品一覧 264作品、日本映画データベース、2013年3月20日閲覧。
  12. ^ 徳川[1962], p.104.
  13. ^ 児玉・吉田[1982], p.39.
  14. ^ 細川[2007], p.3.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]