葉荃

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葉荃
プロフィール
出生: 1880年1月31日
光緒6年12月20日)
死去: 1939年民国28年)6月
中華民国の旗 中華民国雲南省雲県
出身地: 雲南省順寧府雲州
職業: 政治家・外交官
各種表記
繁体字 葉荃
簡体字 叶荃
拼音 Yè Quán
ラテン字 Yeh Ch'uan
和名表記: よう せん
発音転記: イェ チュエン
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葉 荃(よう せん)は中華民国の軍人。滇軍(雲南軍、雲南派)の軍人で、後に国民軍でも高級指揮官をつとめた人物である。香石

事跡[編集]

日本に留学し、東京振武学校を経て陸軍士官学校第6期で学んだ。このとき、中国同盟会に加入している。帰国後は安徽講武堂総弁、川軍(四川軍)教練処幇弁、川軍第64標標統を歴任した。

中華民国成立後、葉荃は黔軍(貴州軍)第1師師長兼警衛第4団団長となった。1915年民国4年)12月、護国戦争が勃発すると、護国軍第5軍総司令に任ぜられている。1917年(民国6年)の張勲復辟後に、駐粤(広東)滇軍(雲南軍)第5軍総司令となった。後に雲南に戻り、雲南派指導者・唐継尭から靖国軍第8軍軍長に任ぜられ、四川省方面へ出撃している。

1921年(民国10年)1月、雲南へ引き返してきた葉荃は唐継尭への不満からクーデターを起こす。しかし、唐の側もこの動きは察知しており、葉は敗北して孫文(孫中山)を頼り広東へ逃亡した。なお偶然にも、葉の同僚で靖国軍第1軍軍長の顧品珍が、この好機にやはりクーデターを起こし、唐継尭を一時雲南から追放している。

広東では孫文から将校団団長兼左翼総指揮に任ぜられている。1923年(民国12年)2月3日、葉荃は中国国民党本部軍事委員会委員となった。1925年(民国14年)、馮玉祥率いる国民軍に加入し、国民軍第3軍副軍長兼第2師師長に任ぜられている。

1927年(民国16年)、蔣介石の招聘に応じて、葉荃は国民革命軍総司令顧問官兼滇川黔三省労軍使に任命された。1931年(民国20年)2月、国民政府により監察院監察委員に任ぜられている。1937年(民国26年)に引退・帰郷し、寺院でを学んだ。

1939年(民国28年)6月、死去。享年60(満59歳)。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 雲南辞典編輯委員会編『雲南辞典』雲南人民出版社、1993年。ISBN 7-222-01264-8 
  • 余応彬『黒紅門 滇系軍閥全伝』団結出版社、2002年。ISBN 7-80130-552-3