菊池淡水 (肥後人吉藩士)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

菊池 淡水(きくち たんすい、天保14年(1843年)12月 - 明治45年(1912年6月11日)は、幕末明治期の人吉藩士、球磨郡会議長。西南戦争では人吉隊二番隊小隊長として約50名を引き連れて各地を転戦した。本名は万之助は淡水。

経歴[編集]

肥後国人吉藩の家老菊池衛士の息子として生まれる。

藩主の相良頼基(遠江守)に江戸留学命ぜられ、明治2年(1869年)4月に後期新銭座の慶應義塾に入学する。在学中に同じ肥後国出身の加賀慎三郎日野熊蔵(義六郎)、西道庵山北寛之助米良益三内田政次郎らと親交を深めて尊王攘夷思想に開眼する。更に慶應義塾で中津藩増田宋太郎を知る。

明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると帰郷する。植木の戦いで初陣を迎えるが、人吉一番隊長・神瀬鹿三が即日戦死した。すぐさま菊池が人吉二番隊を編成し、更に小隊長とする人吉三番隊(半隊長・加賀慎三郎、分隊長・赤坂孫六)を結成した。吉次峠ではさらに延岡隊(1000名)、高鍋隊熊本隊実学党は加担しなかった)、竜田隊薩摩軍が到着して参戦、一進一退の膠着状態に陥り、両軍ともに死傷者が続出した。

薩摩軍の本部が人吉まで後退し、永国寺に本部を移し、西郷隆盛が指揮を担当した。しかし、人吉城が陥落すると菊池は単独で球磨郡大瀬[要曖昧さ回避]五木平瀬[要曖昧さ回避]折立[要曖昧さ回避]等の各地を転戦、その勇奮は官軍に知れ渡った。更に、菊池は薩摩軍の本隊に帰順して別働隊に編入した。しかし、官軍側にあった新宮簡は、人吉隊に帰順を促し、6月4日に人吉隊は木上村の官軍選抜本営に至って、ことごとく降伏した。菊池は宮崎地方で捕えられ、岩手監獄で服役した。

明治12年(1879年)に出獄し、球磨郡書記、郡会議員を経て議長となる。のち熊本県会副議長、球磨郡教育会長となった。更に子爵相良家の家令に任ぜられた。

参考文献[編集]