菅野順吉

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すがの じゅんきち
菅野 順吉
生年月日 (1931-04-22) 1931年4月22日
没年月日 (2013-05-09) 2013年5月9日(82歳没)
出生地 日本の旗 日本
職業 映像編集
ジャンル テレビ映画
主な作品
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菅野 順吉(すがの じゅんきち、1931年4月22日[1][2] - 2013年5月9日[3][2])は、日本編集技師。福島県出身[1][4][2]

人物・来歴[編集]

子どもの頃より映画界に憧れるものの映画会社に欠員がなく、5年間小学校助教諭として過ごす。1955年に大映に努めていた兄2人を頼って上京し、念願だった大映東京撮影所に入社[1][4][2]、編集部に配属される。編集助手として多くの映画に関わるが、数年で大映を辞し書籍の輸入販売会社で働く。その後、私淑する編集技師の辻井正則[4]からの誘いを受けて、師とともに大映・東宝松竹日活東映等の映画の編集に携わり、編集の技術について学ぶ。辻井正則の作る松原映画に参画する。

1966年、テレビドラマ『有料道路』でフリーの編集技師となる。1970年に[注釈 1]、『仮面ライダー』に参加[2]。以後、2000本を超えるドラマの編集を手がける[1]。主として仮面ライダーシリーズメタルヒーローシリーズなど東映の制作するテレビドラマの編集に携わる[1]太田義則・長田直樹・平澤政吾・深野俊英・田熊純など多くの編集技師の師となる。『燃えろ!!ロボコン』を最後に引退[1][2]。フリーの編集技師グループ「シネ・アルファ」の代表を務めたのち[1][2]、2013年に82歳で死去[5][2]

日本映画編集協会会員。元映画人九条の会会員。

作風・エピソード[編集]

  • 編集にあたっては、フィルムをスクリプトシートに従って順に繋ぐ粗編作業を行わず、各監督の個性に合わせながら自己流でフィルムを繋いでいる[1]。ある監督は、菅野の繋いだフィルムが自身の考えとは違っていたが、ちゃんと繋がっていて納得させられたことから、菅野を「映像の詐欺師」と称したという[1]
  • 仮面ライダー』では、攻撃が当たる瞬間を抜いてスピーディーに見せる手法や、別アングルで撮った同じアクションを繰り返して動く手法など、独特のテンポ感を生み出し定着させていった[1]。菅野は、自身が編み出したのではなく先人が培ってきたものを応用しただけであるとしている[1]
    • 第1話では、竹本弘一の組が撮ったフィルムが30分番組でありながら60分近くの素材があり、竹本から特に指示もなかった[1][2]。菅野は細かくカットしていたのでは尺に収まらないため、アクションの間を抜くという編集を行った[1]
  • 仮面ライダーアマゾン』では菅野は多忙のため担当を外れていたが、オープニングを演出した塚田正煕はそのことを知らず、菅野に任せるため撮りっぱなしにしていたことを後悔したという[6]

主な編集作品[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

テレビアニメ[編集]

オリジナルビデオ[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 資料によって、映広音響の音響技師・太田克己から誘われたとするものと[4]、東映録音部の岩田廣一から誘われたとするもの[2]がある。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m OFM仮面ライダー8 2004, p. 32, 杉田篤彦「匠たちの肖像 『仮面ライダー』を支えたスタッフたち 第2回 菅野順吉」
  2. ^ a b c d e f g h i j 仮面ライダー怪人大画報 2016, p. 92, 「仮面ライダー スタッフ・キャスト人名録 2016年版」
  3. ^ 株式会社アオ・パブリッシング『特撮ゼロ 創刊・春の号』2015年、57頁。ISBN 9784908021022 東映匠列伝第二回 長田直樹が語る「僕が菅野順吉から受け継いだもの」
  4. ^ a b c d 株式会社アオ・パブリッシング『特撮ゼロ 創刊・冬の号』2015年、48頁。ISBN 9784908021015 東映匠列伝第一回 長田直樹が語る「編集・菅野順吉」の伝説
  5. ^ 日本映画・テレビ編集協会『編集者 自身を語る』1993年、169頁。 
  6. ^ OFM仮面ライダー7 2004, p. 29, 高橋和光「仮面ライダー監督紳士録 第10回 塚田正煕」.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]