海難事故
海難事故(かいなんじこ)とは、船舶の運用中に起きた事故のこと。難破(なんぱ)とも言う。
文字どおりには海で起こる事故全般を意味する。しかし、本項では海難審判法2条に定義される「海難」(以下参照)を中心とした船舶に関する事故について述べる。川や湖で起こるものも含む。
- 船舶の運用に関連した船舶又は船舶以外の施設の損傷(海難審判法2条1号)
- 船舶の構造、設備又は運用に関連した人の死傷(海難審判法2条2号)
- 船舶の安全又は運航の阻害(海難審判法2条3号)
類義語に水難事故(すいなんじこ)がある。ただしこの語には船舶の事故に限る意味合いはなく、船舶以外(海水浴など)について使うことも多い。
一般的に、戦争に起因する被害は海難事故に含まれないことが多い。
目次 |
[編集] 海難事故の種類
[編集] 海難事故の原因要素
海難事故の原因となるものには、以下のようなものがある(例示)。
- 操縦のミスによるもの。
- 船員の操船判断に関連するもの
- 船舶の堪航能力に関連するもの
- 設計ミス、材質の強度不足、構造欠陥などによるもの。小規模な船体損傷から船体折損などの重大なものまで、さまざまなものがある。当初予定していたものとは別の用途に転用されるなどした際に、問題点が顕在化するケースなどもある(運用の問題とも関係する)。
- 船舶の搭載機関・搭載機器の性能・整備・運用に関連するもの
- 故障や火災など施設の管理問題に由来するもの。老朽化に由来するもの。積載重量オーバー・荷崩れなど運用管理に由来するもの。
- 故意によるもの
- 戦争・海賊行為・船内での騒擾などによるもの。
[編集] 海難事故の様式種別
海難事故の様式としては、以下のようなものがある(例示)。
- 船体が水面下に沈んでしまうもの。潜水艦の浮上不能も含む。浅海で沈没した場合、船の上部構造物が海面上に出ていることがあるが、座礁とは異なる。
- 船体がなんらかの理由で上下逆になるもの。横倒しになるとたいてい沈没するが、さかさまになってしまうと案外沈まない。
- 座礁・触底・乗揚げ
- 船底が海底・川底と接触し操船が不能になるもの。船の多くは、液体の水の上に浮くことで全体で分散して重量を負担する設計となっているため、固体の海底などに接触しそこに重量が集中すると、容易に船体断裂などの損壊を引き起こす。潮の満ち引きなどの影響で結果として同等になる場合はあるが、座礁・触底は「通常の喫水で航行中に浅くなっているところに乗り上げる」ものであり、沈没とは異なる。
- 機関故障・推進器故障・かじ故障などによる漂流
- なんらかの理由で航行できなくなり、海上を漂うもの。
- 落水
- 船上から乗組員・乗客・積荷が転落するもの。
- その他
- 火災や浸水
[編集] 海難事故の影響
引き起こされる結果としては、以下のようなものがある(例示)。
- 人的損害
- 物的損害
- 船体の喪失・荷物の流失・港湾施設の損壊など。
- 自然損害
[編集] 海難事故の複合的様態
海難事故は、個々に様態が異なり、またさまざまな複合的要素を持つ。たとえば「荒天による操船不能→座礁→船体断裂→燃料流出」など。また、関係者が生還しないケースも少なくなく、原因の解析が困難なことも珍しくない。
[編集] 海難事故の法的扱い
海難事故は、船という陸上での経験があまり通用しない交通機関にかかわるものであること、独特の法的規制や慣習があることなどに鑑み、法的に特殊な扱いがなされる場合がある。
[編集] 日本における海難事故の法的扱い
日本では、一般に事故をめぐる責任の追及については民事上の責任や刑事上の責任が問題となり、海難事故に関しても同様であるが、海難事故の場合には特に将来的な海難の防止という観点から、運輸安全委員会による海難事故の究明(運輸安全委員会設置法1条)がなされ、故意・過失によって海難を発生させた船員に対しては海難審判所の海難審判による懲戒がなされる(海難審判法1条)。なお、海難事故の究明や海難審判について以前は海難審判庁が担っていたが、2008年10月の法改正により海難審判庁は廃止され現行の体制に移行した。
[編集] 海難事故の損害賠償枠組み
一般的な海難事故の損害賠償については、通常の損害賠償保険によって扱われる。
しかしながら海難事故の場合、特にオイルタンカーの座礁事故などの際には、その汚染規模が大きく、被害額・除染費用などが巨額に上ることが少なくなく、補償の実効性には疑問が持たれるケースも少なからず存在した。そのため、1967年のトリー・キャニオン号事故を契機として1969年には「油による汚染損害についての民事責任に関する国際条約」が作られ、以下幾度か改定されている。
この条約では、タンカー事故などについて、ほとんど無過失責任であるといえるレベルの損害賠償責任を負わせている。また、現実的な被害救済のために、一定量以上の荷主に拠出を義務付けるなどして国際基金を整備し、確実に補償がなされるような枠組みを作っている。
日本国内では、この条約に基づいて船舶油濁損害賠償保障法が制定されている。また、保険未加入船舶については入港を拒否するといった方法で、補償が期待できないような被害の発生を防止している。
[編集] 年表
ここでは特に社会的影響の大きかったものに限り、便宜的に記載する。
[編集] 1900年代以前
- 1707年10月22日:英国シリー諸島沖で英国海軍艦隊4隻が座礁。2000人を超える犠牲者を出した。
- 1821年(文政4年):唐船(17人乗組)紀伊熊野に漂着
- 1865年4月:アメリカ合衆国のミシシッピ川で就航していた貨客船のサルタナ号が過積載のためボイラー爆発、火災を起こし沈没。多数乗船していた南北戦争帰還将兵など少なくとも1450人が死亡。
- 1875年(明治8年)12月6日、客船ドイッチュラントがテムズ川河口でブリザードに遭遇し、砂州に座礁。翌日に救助が来たが、乗客・乗務員100名以上が死亡する惨事となった。この事故は社会に大きな衝撃を与え、「ドイッチュラントの遭難」という詩が作られた。
- 1877年(明治10年)11月19日:北海道瀬棚海岸沖にてロシア軍艦アレウト号がおりからの暴風に煽られ座礁。乗組員60人全員が地元住民により救助されるも、翌1878年(明治11年)4月20日迎えに来た軍艦エルマック号へアレウト号乗組員がボートで向かう途中高波により転覆、12人が犠牲になった。
- 1878年(明治11年)12月:和歌山県太地における「大セミ流れ」。荒天を突いて鯨組が出漁したことから集団遭難事故を引き起こし、110名余が死亡した。
- 1886年(明治19年)10月24日:英国商船ノルマントン号が、和歌山県潮岬沖で沈没、日本人乗客25人ほか、中国人、インド人乗組員12人が死亡。イギリス人船員は全員生存し、当時の日本で社会問題になった。(ノルマントン号事件)
- 1886年(明治19年)12月:日本海軍の巡洋艦畝傍がフランスから日本への回航中、シンガポールを発ったのを最後に消息を絶つ。荒天により沈没と思われるが原因や状況などは現在に至るまで不明。フランス人乗組員や日本海軍の将兵など計90人が行方不明となった。
- 1887年(明治20年)5月19日:客船ブリタニックが霧のためセルティックと衝突。激しく損傷したが沈没の恐れがなかったため援助にきた船とニューヨーク港に移動した。
(詳しくはブリタニック (客船・初代)を参照のこと) - 1890年(明治23年)9月16日:日本和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦エルトゥールル号が座礁沈没。乗員約600人中、地元の漁民らによって69人が救出されたが、587名が死亡または行方不明となった。(エルトゥールル号遭難事件)
[編集] 1900年代
- 1904年(明治37年)6月15日:ニューヨークにて遊覧船「ジェネラル・スローカム」がイースト川で火災。犠牲者1031人。
- 1909年(明治42年)7月26日:イギリス船籍貨客船ワラタ号が南アフリカ・ダーバンから出航後、消息を絶つ。サイクロンに遭遇、転覆・沈没したと推定される。乗員乗客211名全員行方不明。
[編集] 1910年代
- 1910年(明治43年)4月15日:日本海軍の第六潜水艇が、広島湾でガソリン潜航実験の訓練中に沈没。艇長佐久間勉大尉以下乗員14名全員殉職。後日引き上げられ、最後まで規律を保って配置を守っていた乗組員の遺体と、佐久間が絶命の瞬間まで書き綴った遺書が発見された。その様子は国内では教科書や軍歌に取り上げられるほどの社会現象となり、アメリカ・イギリスなどにおいても大きな話題となった。
- 1912年(明治45年)4月14日:イギリス船籍客船タイタニック号が処女航海中氷山に衝突し、沈没。1,517人が死亡。
- 1912年(明治45年)9月1日:静岡県の新島近くで石炭運搬船「幸運丸」2,878トンが沈没。乗員42名中40名死亡。
- 1912年(明治45年)9月23日:青森県の尻屋崎の沖合いで石炭運搬船「相川丸」1,536トンが台風による暴風雨で沈没。乗員33名全員死亡。
- 1914年(大正3年)5月29日:カナダ船籍客船「エンプレス・オブ・アイルランド号」(14,191t)が濃霧のセントローレンス川でノルウェー船籍貨物船「ストールスタッド号」(6,028t)と衝突し沈没。1,024人が死亡、行方不明。
[編集] 第一次世界大戦時
- 1915年(大正4年)5月7日:英国船籍客船「ルシタニア号」がUボートの雷撃で沈没。米国人を含む1,198人が死亡。(ルシタニア号事件)
- 1916年(大正5年)11月21日:イギリス軍に病院船として徴用された客船、ブリタニックがドイツ軍の機雷に触れ沈没。死者30名。
- 1917年(大正6年)12月6日:カナダのハリファックス港で軍用火薬を積んだ船と貨物船が衝突し、大爆発を起こした。両船だけでなく、付近にいた船、ハリファックス市にも重大な被害をもたらす大災害となった。(ハリファックス大爆発)
[編集] 1920年代
- 1922年(大正11年)8月26日:、カムチャッカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオゼルナヤ沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁、転覆した。15人は救助されたが、残りの327人は死亡した。
- 1924年(大正13年)12月11日:京都府舞鶴港に向かっていた海軍の工作艦「関東」が、吹雪の気象条件のなか位置を誤認もしくは確認できないまま航路を逸脱。福井県下糠浦海岸の二ッ栗岩に座礁し沈没、乗組員と便乗者のあわせて99名が死亡。
- 1926年(大正15年 / 昭和元年)12月:漁船「良栄丸」(42トン)が本州東方海上で機関を破損して航行不能となり、漂流。乗組員全滅後、27年10月末に北アメリカ西岸に漂着した(良栄丸遭難事故)。
- 1927年(昭和2年)8月24日:美保関事件。島根県美保関沖で夜間演習中の軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」が衝突し「蕨」が沈没、軽巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」も衝突し、将兵119名が殉職した。「神通」艦長水城圭次大佐は軍法会議にかけられ、判決の前日に自決した。
[編集] 1930年代
- 1933年(昭和8年)1月24日:愛媛県南宇和郡内海村(現・愛南町)の沖にて南宇和郡深浦港行の連絡船第3大和丸(45t、乗員乗客24名乗)が沈没。生存は乗組員1名のみで残りの24人は死亡した。
- 1934年(昭和9年)3月12日:日本海軍の水雷艇「友鶴」が演習中に転覆。乗員100名が死亡。(友鶴事件)
- 1934年(昭和9年)3月24日:広島県の帝釈峡にある神竜湖の遊覧船が沈没。比婆郡田森村(現在の庄原市東城町)の粟田尋常小学校と粟田尋常高等小学校児童の卒業遠足一行(計42名)が乗船しており、児童12名と引率教諭2名、合計14名が死亡した。(神竜湖遊覧船沈没事故)
- 1935年(昭和10年)1月21日:広島県の尾道を出航し豊島へ向かう汽船大崎丸(33トン)が生野島沖で暴風雨により沈没。乗っていた30名以上のうち11名が死亡。
- 1935年(昭和10年)7月3日:大分県の別府を出航し兵庫県神戸市へ向う途中の大阪商船の客船船緑丸(1,724トン)が小豆島の近くで大連汽船の千山丸(2,775トン)と衝突。この事故で緑丸は沈没。乗員乗客107名が死亡。
- 1935年(昭和10年)9月26日:日本海軍第四艦隊が演習中、台風に遭遇。54名が死亡。(第四艦隊事件)
- 1936年(昭和11年)1月30日:長崎県から大阪府に石炭を運ぶ途中の福岡県の貨物船彦山丸(929トン)が博多湾の沖でで遭難。22名が死亡。
- 1936年(昭和11年)2月5日:貨物船雲南丸(2,200トン)が中国の大連から横浜へ向かう途中に和歌山県の樫野岬沖で遭難。乗員40名が死亡。
- 1936年(昭和11年)5月19日:埼玉県の川柳村から彦成村へと通う中川の彦成の渡し船が定員20名のところ、無理に36名を乗せて出航したところ川を半分ほど渡ったところで浸水して沈没し10名が死亡。
- 1936年(昭和11年)6月21日:愛知県八開村(現・愛西市)の木曽川渡船場で渡し船が定員を超えた状態で出航したところ沈没して8名が死亡。
- 1936年(昭和11年)10月22日:樺太・栄浜沖で相州丸(1,219トン)が浅瀬に座礁する事故が起きた。相州丸は救助船・大浦丸に曳航されて函館港に向かっていたが、大浦丸は天売島沖で舵を損傷。相州丸は23日に増毛の南に漂着した。また大浦丸の救難ボートに乗り移った者もいたが、この救難ボートは23日に留萌付近に着岸する前に転覆した。これらの事故により19名が行方不明になった。
- 1937年(昭和12年)1月2日:北海道から静岡県へ向けて航行中の石炭運搬船愛国丸(3,212トン)が積丹岬の沖合いにて座礁し、船体が二つに折れて沈没。33名が死亡。
- 1937年(昭和12年)2月14日:横浜から函館へ向っていた貨物定期船小樽丸(1,464トン)が吹雪で荒れる太平洋を北上中に行方不明となり後日岩手県八幡平市の沖合いで沈没しているのが発見された。乗組員36名全員死亡。
- 1939年(昭和14年)12月12日:北海道猿払村のオホーツク海にてソ連貨客船インディギルカ号が座礁沈没、700名以上が死亡。
[編集] 1940年代
- 1941年(昭和16年)1月20日
- 1941年(昭和16年)4月6日
- 1941年(昭和16年)5月18日
- 1942年(昭和17年)2月9日
- 1942年(昭和17年)5月12日
- 1943年(昭和18年)7月15日
- 1944年(昭和19年)6月13日
- 1944年(昭和19年)12月
- 1945年(昭和20年)3月6日
- 1945年(昭和20年)8月24日
- 1945年(昭和20年)11月6日
- 1948年(昭和23年)1月28日
- 阪神 - 多度津航路の女王丸が瀬戸内海牛窓沖で機雷に触れ沈没。死者行方不明183人(女王丸事件)。
- 1949年(昭和24年)1月30日
[編集] 第二次世界大戦時
- 1943年(昭和18年)3月19日
- 1944年(昭和19年)8月22日
- 1944年(昭和19年)9月18日
- 捕虜交換船「順陽丸」英潜水艦の雷撃により沈没。連合国軍の捕虜など約5620名が死亡。
- 1945年(昭和20年)1月30日
- バルト海にてソ連潜水艦の雷撃によりドイツ客船「ヴィルヘルム・グストロフ号」沈没。乗船していた難民など9331名が死亡。
- 1945年(昭和20年)2月10日
- ドイツ客船「シュトイベン号」、ソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など4500名が死亡。
- 1945年(昭和20年)4月1日
- 阿波丸事件。安全航行を保障されていた緑十字船阿波丸が台湾海峡にて米潜水艦により撃沈される。乗客2000名以上が死亡。阿波丸は協定に違反して戦略物資を積み込んでいたことが明らかになっている。
- 1945年(昭和20年)4月16日
- ドイツ客船「ゴヤ」、ソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など6666名が死亡。
- 1945年(昭和20年)5月3日
- ドイツ客船「カップ・アルコナ」、英空軍の空襲により沈没。5594名が死亡。強制収容所の収容者が多く犠牲となった。
- 1945年(昭和20年)7月29日
- 1945年(昭和20年)8月22日
[編集] 1950年代
[編集] 1950年(昭和25年)
- 3月26日
- 静岡県伊東市の盛徳丸(30トン)が伊豆大島の沖合いで沈没。乗組員32名が死亡。
- 7月27日
- 広島県佐伯郡にある長島の近くで漁船が操業していたところ付近に浮遊していた大型機雷が爆発。これにより漁船4隻が大破し2隻が損壊した。犠牲者46名。
- 9月19日
- 北海道厚岸郡の霧多布沖で捕鯨船が救難信号を出した後に行方不明となった。21名が乗り組んでいたが生存者は発見されなかった。
- 9月21日
- 三重県北輪内村(現・尾鷲市)の漁船が岩手県三陸海岸の魹ヶ崎(とどがさき)付近で行方不明。48名死亡。
- 11月9日
- 愛媛県の今治市から大阪へ向かう定期旅客船(第2高島丸161トン)が沈没。16名が死亡。
- 12月10日
- 長崎から名古屋へ向かっていた豊丸(725トン)がSOSを発信した後に消息不明となった。その後救命ボートに乗っていた5名が助かったが26名が犠牲となった。
- 12月18日
- 青森県の深浦沖にて東邦海運の貨物船(1,684トン)が座礁したあと沈没。乗組員40名が死亡。
[編集] 1951年(昭和26年)
- 1月22日
- 横浜市の大岡川に浮かぶ日雇い労務者用の水上ホテルが横転。7名が犠牲となった。定員250名のところに432名が乗り込みバランスが崩れたのが原因と思われた。
- 2月6日
- 2月14日 - 2月15日
- 東京湾および関東付近の太平洋で吹雪まじりの嵐となり漁船などの連続遭難事件が発生した。14日と15日の両日だけで小型漁船を中心に沈没43隻、流失46隻、損壊15隻、行方不明9隻、座礁6隻をだす事態となった。
- 8月3日
[編集] 1952年(昭和27年)
- 9月24日
- 10月19日
- 静岡県の漁船「福徳丸」64トンが宮城県塩釜沖の太平洋で沈没。21名が犠牲。
- 10月22日
- 北海道の稚内沖で日進丸が定置網の引き上げに出航したきり行方不明になった。31名が乗り組んでいたが強風により沈没したものと思われる。
- 10月26日
[編集] 1953年(昭和28年)
- 2月4日
- 沖永良部島から与論島へ向っていた機帆客船新生丸(25トン)が沈没。乗客82名のうち80人が死亡。
- 2月15日
- 米国の貨物船と日本の水産指導船が静岡県白浜沖の太平洋で衝突。これにより水産指導船が沈没し11名が死亡した。
- 8月2日
[編集] 1954年(昭和29年)
- 1月28日 - 1月30日
- 北海道で荒天のため小型漁船などの連続遭難事件が発生。3日間に沈没17隻、大破11隻、中破29隻、小破21隻、座礁39隻を出し、死者・行方不明者の合計は37名にも及ぶ事態となった。
- 3月1日
- 9月26日
- 10月8日
[編集] 1955年(昭和30年)
[編集] 1956年(昭和31年)
- 7月25日
- イタリア客船「アンドレア・ドーリア」(29083t)と、スウェーデン客船「ストックホルム」(12165t)が濃霧の中で双方ともレーダーを過信し、20ノットの高速で航行中に北大西洋・ナンタケット島沖で衝突。アンドレア・ドーリアは沈没し、双方で55名死亡。
[編集] 1957年(昭和32年)
[編集] 1958年(昭和33年)
[編集] 1959年(昭和34年)
[編集] 1960年代
[編集] 1960年(昭和35年)
[編集] 1961年(昭和36年)
- 2月12日
- 6月10日
- 8月12日
- 北海道の広尾港を出港した刺し網漁船第18雲浦丸(53トン)が襟裳岬東南35キロでバラバラとなった船体の破片が発見された。状況から他の船と衝突して沈没したものと思われたがぶつけた相手の船は判らなかった。この事故により乗組員14名全員が行方不明となり全員が死亡したものと推察される。
- 12月6日
- 12月7日
- 東京湾の各所にて強風のため遊漁船や小型の釣り船が沈没して3隻の合計11名が死亡した。
- 12月9日
- 12月9日
- 12月12日
- 韓国の済州島の北西約370キロの海上で漁船第8山田丸(92トン)が突然の横風を受けて沈没。乗組員13名のうち3名は救助されたものの10名が行方不明。
- 12月18日
[編集] 1962年(昭和37年)
[編集] 1963年(昭和38年)
- 1月17日
- 1月18日
- 2月11日
- 2月26日午前1時過ぎ
- 3月30日
- 東京湾内で海上自衛隊護衛艦「てるづき」の右舷に貨物船「賀茂春丸」の船首が衝突し、自衛官5人が死亡。
- 4月24日夜
- 6月6日
- 6月10日:深夜
- 7月27日
- 8月17日
- 12月8日
- 北海道の松前沖にて兵庫県神戸市の正向海運所属の貨物船「加明丸」998トンが積荷の硫化鉱の荷崩れが原因で沈没。死者20名。
[編集] 1964年(昭和39年)
- 1月21日
- 2月11日
- 2月16日
- 北海道小樽市の沖合いで底引漁船「第三豊善丸」82トンが消息を絶ち乗組員17名が行方不明となった。
- 3月15日午前9時頃
- 3月26日
- 3月27日
- 4月4日
- 5月6日午前0時30分頃
- 5月11日午後4時過ぎ頃
- 5月15日午後9時15分頃
- 6月4日
- 8月30日夕方
- 9月20日
- 11月4日
- 11月21日
- 11月24日
- 千葉県富津岬の沖合いで個人所有のヨットが荒天のため転覆し乗っていた会社員2名が死亡。
- 11月24日
- 兵庫県高砂市の沖合いで砂利運搬船「第二天祐丸」198トンが強風に煽られて横転し沈没。乗組員5名中1名が死亡。
- 11月26日
- 12月6日午後6時半頃
- 12月11日
- 12月17日
- 12月27日
[編集] 1965年(昭和40年)
- 5月23日
- 8月5日
- 10月7日
- マリアナ諸島アグリガン島の島陰で台風29号を避けていた日本のかつお・まぐろ漁船群が、台風の予想外の針路変更と急発達のため暴風圏内に巻き込まれ、6隻沈没、1隻が陸に打ち上げられて大破沈没し、死亡及び行方不明者209人の大量遭難となった(マリアナ海難)。
[編集] 1966年(昭和41年)
[編集] 1967年(昭和42年)
- 3月18日
- イギリス沖で、リベリア船籍の大型タンカーであるトリー・キャニオン号(Torrey Canyon、載貨重量トン数11万8,285t)が座礁。同船はクウェート産の原油を満載しており、船体破損で船外に流出した。船体は3月26日に二つに破断。英国政府は船内に残った原油の流出を避けて燃焼させるために船体を爆破、3月30日に沈没した。流出した原油は8万トン以上に及び、タンカー事故で広範囲に原油が流出して海洋を汚染した最初の事故となった。これをきっかけに国際海事機関(IMO)は1969年に「油による海水の汚濁の防止に関する国際条約」を改正、さらに1973年にこれを発展的に強化した海洋汚染防止条約(マルポール条約)が採択されるに至った。
- このころから世界中で大型タンカーが建造され始めたが、当初知りえなかった現象(静電気の発生、それが残油に引火)により、多くの船が爆発炎上している。日本のタンカー及び日本に寄港したタンカーにおいても、サウジアラビアにおける海藏丸火災事故(同国ラス・アル・カフジに入港中のタンカー海藏丸(総トン数20,949トン)が、船内に侵入・滞留した石油気化ガスに引火して爆発炎上し14名が死亡)や、室蘭港におけるヘイムバード火災事故(ノルウェー船籍のタンカー・ヘイムバード(総トン数3万5,355トン)が室蘭港への接岸に失敗し、原油を大量に流出させた所へ曳船のエンジンの火の粉もしくは火花から石油気化ガスに引火。同船は大爆発を起こして27日間にわたって燃え続け、10名が死亡すると共に一時は周辺住民に避難命令が出された)など、大規模な炎上事故が起こっている。
- イギリス沖で、リベリア船籍の大型タンカーであるトリー・キャニオン号(Torrey Canyon、載貨重量トン数11万8,285t)が座礁。同船はクウェート産の原油を満載しており、船体破損で船外に流出した。船体は3月26日に二つに破断。英国政府は船内に残った原油の流出を避けて燃焼させるために船体を爆破、3月30日に沈没した。流出した原油は8万トン以上に及び、タンカー事故で広範囲に原油が流出して海洋を汚染した最初の事故となった。これをきっかけに国際海事機関(IMO)は1969年に「油による海水の汚濁の防止に関する国際条約」を改正、さらに1973年にこれを発展的に強化した海洋汚染防止条約(マルポール条約)が採択されるに至った。
[編集] 1968年(昭和43年)
[編集] 1969年(昭和44年)
[編集] 1970年代
[編集] 1970年(昭和45年)
- 2月4日
- 静岡県の田子ノ浦港を出航した合洋海運の砂利運搬船第1合洋丸(349t、乗員5名)が行方不明となったと船主より海上保安庁に届出があった。1月31日以降同船と連絡が取れておらず太平洋上で沈没したものと推察された。
- 2月9日
- 千葉県犬吠埼の沖合い約300kmの太平洋上で第一中央汽船の鉱石運搬船かりふぉるにあ丸(61,000t、乗員29名)が、船首部分を破損して浸水をおこし沈没。乗組員のうち24名は無事に救助されたが、住村博船長(当時45歳)は船長としての責任を取るべく「船と運命を共にすると」言い残し救助される事を拒否。ブリッジより乗組員へ別れを告げ、そのまま沈没した船と運命を共にした。この事故では船長の他に合計5名が死亡した。(かりふぉるにあ丸遭難事故)
[編集] 1971年(昭和46年)
[編集] 1972年(昭和47年)
[編集] 1974年(昭和49年)
[編集] 1976年(昭和51年)
宮崎県の細島港から広島県の広島港に向かっていた日本カー・フェリー所属のカーフェリー「ふたば」(総トン数1,933t)が山口県のミルガ瀬戸で、パナマ船籍の貨物船「グレート・ビクトリー」(同7,519t)と衝突。「ふたば」は沈没。「ふたば」の乗員28人と乗客58人のうち5人が死亡・行方不明となり車両24台も水没した。日本国内でカーフェリーで発生した初の人身死亡事故となった。
- 12月15日
- リベリア船籍のタンカー「アルゴ・マーチャント号」がアメリカのマサチューセッツ州ナンタケットで座礁。数日後に船体は破断し積荷の燃料油29,000キロリットル全量を流失、極めて深刻な海洋汚染を引き起こす。
[編集] 1978年(昭和53年)
- 2月16日
- 今治市東門町一、寿汽船所属の「第8福徳丸」(342t 野崎幸夫船長ら4人乗り組み)は午後2時半過ぎ、セメント原料約600tを積んで香川県・直島港を出港、福岡県・苅田町の三菱セメント苅田工場に向かったが、同4時頃、坂出沖付近を航行中、船舶電話で「17日午前7時ごろ到着する」と苅田工場に連絡したのを最後に消息を絶った。寿汽船からの連絡で、第六管区海上保安本部は18日朝から巡視船20隻、飛行機3機動員して捜索を開始。23日朝からも走査線を10隻に減らしたものの、飛行機3機を引き続き飛ばして捜したが手がかりはゼロ。同本部では「遭難したとすれば海面に油が浮いたり漂流物が見つかる。全く謎の蒸発」と言った。予定を変更して上陸した形跡はなく、船内で何かが起き外洋に出たという情報もない。
- 9月7日
[編集] 1980年代
[編集] 1980年(昭和55年)
- 12月30日
- 野島崎東南東沖合約800海里(約1500km)を航行中のばら積貨物船「尾道丸」(全長226.4m、総トン数33,833t)が、船首方向からの強いうねりの中、波高20mほどの大波に突っ込んだ際に船首部分が上方に折損(スラミング現象による)、その後脱落して航行不能となった。「尾道丸」の前方を航行していた鉱石運搬船「だんぴあ丸」が引き返し、翌1981年(昭和56年)1月1日に「尾道丸」乗組員29名全員を無事救助する。この事故が乗組員全員を無事救助した初のケースとなった(貨物船尾道丸遭難事故)[11]。
[編集] 1980年(昭和56年)
- 4月9日
- 下甑島付近を航行中の貨物船日昇丸(2350t)にアメリカ海軍所属のジョージ・ワシントン級原子力潜水艦ジョージ・ワシントンが海中から急上昇したため衝突し、日昇丸は船底を破壊されたため沈没した。乗員2名が死亡。なお潜水艦が救助せずに現場海域から離れたことに対し、非難された(米原潜当て逃げ事件)。
- 10月27日
- 旧ソ連のウィスキー級潜水艦U-137が、航法の誤りからスウェーデンの領海を侵犯し座礁。死傷者はなかったが、事故発生場所がスウェーデンの軍港付近であったこともあり国際問題化した(ウィスキー・オン・ザ・ロック事件)。
[編集] 1983年(昭和58年)
- 6月5日
- 旧ソ連のウリヤノフスク近郊でヴォルガ川に架かるウリヤノフスク橋 (Ульяновский мост) の橋脚に客船アレクサンドル・スヴォーロフ (Александр Суворов(英語)定員400人) が衝突。橋脚が移動し、走行してきた貨物列車が脱線、この船の上に転落した。死者176名以上。
[編集] 1985年(昭和60年)
[編集] 1986年(昭和61年)
[編集] 1987年(昭和62年)
- 2月4日
- 12月20日
- フィリピン客船「ドニャ・パス号」(2640t)とガソリンを積載した小型タンカー「ヴェクター号」(640t)が、フィリピン・タブラス海峡で衝突し炎上、双方が沈没。正確な乗船数は不明だが、少なくとも1576人以上死亡、行方不明。平時における最大の海難事故といわれている。
[編集] 1988年(昭和63年)
[編集] 1989年(平成元年)
- 3月24日
- 原油タンカーエクソンバルディーズ号がアラスカ州プリンスウィリアム湾で座礁、原油が流出した。流出量は推定で1080万ガロンとされ、周辺環境に重大な被害を与えた(エクソンバルディーズ号原油流出事故)。
- 8月20日:午前1時45分
- ロンドンのテムズ川にかかるキャノン・ストリート鉄道橋の付近で、浚渫船のボウベルと、クルーズ船のマーショネスが衝突。マーショネス号の乗客132名中51名が死亡した(マーショネス号転覆沈没事故)。
[編集] 1990年代
- 1991年(平成3年)8月
- 1991年(平成3年)12月
- 1993年(平成5年)1月13日
- 1994年(平成6年)9月28日
- スウェーデン船籍フェリー「エストニア号」(21794t)がバルト海で荒天下に転覆、沈没。852人死亡。
- 1994年(平成6年)11月30日
- 客船アキレ・ラウロ号が火災を起こし、3日後に沈没。アキレ・ラウロ号は1985年10月にハイジャックされた船(上記参照)である。
- 1997年(平成9年)1月2日
- ロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」が波浪により船体を破断し、6,240キロリットルのC重油が海上に流出、日本海沿岸各地の広い範囲に深刻な汚染。船長が死亡、乗組員は脱出。除去作業にあたったボランティアに5名の死者を出す二次被害(ナホトカ号重油流出事故)。
- 1998年(平成10年)9月19日
- 1999年(平成11年)5月21日
[編集] 2000年代
- 2000年(平成12年)8月12日
- 2001年(平成13年)2月10日
- 2002年(平成14年)9月26日
- 2002年(平成14年)11月26日
- 2002年(平成14年)12月5日
- 日立港で北朝鮮船籍のチルソン号が座礁し重油が流出、のちに船体は放棄された。船舶所有者側による保障措置が何らなされなかったことから、無保険船の日本寄港を制限する油濁損害賠償保障法(改正後の名称は船舶油濁損害賠償保障法)改正のきっかけとなった。
- 2003年(平成15年)7月2日
- 2003年(平成15年)7月6日
- 2005年(平成17年)9月28日
- 2006年(平成18年)2月3日
- サウジアラビアからエジプトに向かって紅海を航行していた1,400人乗りのフェリー「アル・サラム・ボッカチオ98」が、フェリーデッキに積載していた車両からの火災が原因で沈没し、1,000名以上の死者・行方不明者を出した。多くの犠牲者を出した原因としては、悪天候のほか、老朽船であったことや建造後の改造により重心が極めて高くなっていたことが要因となり、消火活動中にバランスを崩して転覆したことが指摘されている。なお、生存者の証言によれば船長が真っ先に逃亡したとされる。
- 2006年(平成18年)7月23日
- 2006年(平成18年)9月2日未明
- 2006年(平成18年)10月6日
- 2006年(平成18年)11月21日
- 2007年(平成19年)1月9日
- 2007年(平成19年)1月18日
- 2007年(平成19年)7月6日
- 2007年(平成19年)7月27日
- 2008年(平成20年)2月19日
- 2008年(平成20年)3月5日
- 2008年(平成20年)6月22日
- フィリピンシブヤン島沖で、台風6号の影響によりフェリー「プリンセス・オブ・ザ・スターズ」が沈没。乗客700人以上が死亡または行方不明となった[13][14][15]。 ※詳細は、プリンセス・オブ・ザ・スターズ#転覆事故を参照。
- 2008年(平成20年)12月7日 - Hebei Spirit号原油流出事故
- 韓国・秦安近海に停泊していたタンカー「ホベイスピリット」にサムスン重工業所属のクレーン船が衝突。12,547klの重油が流失し、韓国史上最大規模の海洋汚染となった。原因は、航行中であるクレーン船(を曳航中のタグボート)が、停泊中の船舶(ホベイスピリット)を迂回する義務があるにもかかわらずそれを無視し、近道をしようと「ホベイスピリット」に接近。その後、波浪と曳航ワイヤの破断等によってコントロールを失ったことである。しかし、韓国では「(停泊していた)タンカーに責任がある」とし、インド人の船長と一等航海士に有罪判決を下した。このことから、インドではサムスン製品の不買運動が発生したほか、各国の船員組合が韓国行きをボイコットしようとするなど波紋が広がった。
- 2009年(平成21年)10月27日
- 2009年(平成21年)11月13日
[編集] 2010年代
- 2012年(平成24年)1月13日
- イタリアのジリオ島付近にある浅瀬で、コスタ・コンコルディアが座礁し、その後浸水・横転。
詳細は「コスタ・コンコルディアの座礁事故」を参照
[編集] 海難事故に関する創作物一覧
[編集] 映画
※ タイタニック沈没を扱った作品群についてはタイタニック (映画)を参照。
[編集] ノンフィクション
- 沈んだ船を探り出せ
- アメリカの小説家、クライブ・カッスラーが稼いだ印税を使って沈船の探索を行なった記録。
[編集] アニメ
[編集] コンピューターゲーム
[編集] クラシック音楽
- 超絶技巧練習曲集 - ブライアン・ファーニホウによる組曲。
[編集] 脚注
- ^ 朝日新聞・昭和38年1月18日朝刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和38年1月19日朝刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和38年4月25日朝刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年3月27日記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年3月31日及び4月4日記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年3月31日及び4月5日朝刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年5月12日及び14日記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年5月16日朝刊及び夕刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年6月5日夕刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年8月31日記事
- ^ “貨物船尾道丸遭難事件”. 海難審判所. 2011年2月13日閲覧。
- ^ 『軍事研究』2007年3月号
- ^ フィリピン沖で沈没の大型フェリー、生存者28人を発見 - AFPBB News(2008年6月23日付、2010年8月16日閲覧)
- ^ 台風通過中のフィリピンでフェリー沈没、700人超が行方不明 - ロイター(2008年6月22日)
- ^ 人数については報道機関によりまちまちとなっている。
- ^ 三重県沖、フェリーから救助要請 乗客7人は全員救助 - 47NEWS(共同通信社、2009年11月13日付・2010年10月29日閲覧)
[編集] 関連項目
- 海浜事故
- 遭難
- 海上保安庁
- 海難審判所 - 海難審判
- 海難審判庁
- 日本水難救済会
- 安全工学
- ヒューマンエラー
- 潜水士
- 救難員
- 降下救助員
- 航海データ記録装置
- 浦終い
- 軍艦の事故
- 石油流出
- 漂流者
- 正福寺 (鳥羽市)