海難事故

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2006年10月に鹿島灘で発生した香港船籍の貨物船「オーシャン・ヴィクトリー」の座礁事故。当該船は鹿島港に入港していたが、荒天のために港外に避難したのち、操船不能に陥って座礁した。座礁後しばらくは引き出しが試みられたが、荒天が続いたため作業は難航、引き出せないでいるうちに船体が破断した。積荷は鉄鉱石であり、1/3強が避難出航までに荷下ろしが間に合わず搭載されたままになっていたが、幸いオイルタンカーではなかったため重大な汚染は発生しなかった。
積丹半島 西の河原に残骸となって今なお残る難破船。積丹半島は、船の難所であった。

海難事故(かいなんじこ)とは、船舶の運用中に起きた事故のこと。難破(なんぱ)とも言う。

文字どおりにはで起こる事故全般を意味する。しかし、本項では海難審判法2条に定義される「海難」(以下参照)を中心とした船舶に関する事故について述べる。で起こるものも含む。

  1. 船舶の運用に関連した船舶又は船舶以外の施設の損傷(海難審判法2条1号)
  2. 船舶の構造、設備又は運用に関連した人の死傷(海難審判法2条2号)
  3. 船舶の安全又は運航の阻害(海難審判法2条3号)

類義語に水難事故(すいなんじこ)がある。ただしこの語には船舶の事故に限る意味合いはなく、船舶以外(海水浴など)について使うことも多い。

一般的に、戦争に起因する被害は海難事故に含まれないことが多い。

目次

[編集] 海難事故の種類

[編集] 海難事故の原因要素

海難事故の原因となるものには、以下のようなものがある(例示)。

操縦のミスによるもの。
  • 船員の操船判断に関連するもの
気象・海象に対する不注意、天候の読み違えによるもの、海洋法規や慣行の解釈ミス・誤解によるもの、見張り不十分による他船・桟橋氷山との接触・衝突など。
  • 船舶の堪航能力に関連するもの
設計ミス、材質の強度不足、構造欠陥などによるもの。小規模な船体損傷から船体折損などの重大なものまで、さまざまなものがある。当初予定していたものとは別の用途に転用されるなどした際に、問題点が顕在化するケースなどもある(運用の問題とも関係する)。
  • 船舶の搭載機関・搭載機器の性能・整備・運用に関連するもの
故障や火災など施設の管理問題に由来するもの。老朽化に由来するもの。積載重量オーバー・荷崩れなど運用管理に由来するもの。
  • 故意によるもの
戦争・海賊行為・船内での騒擾などによるもの。

[編集] 海難事故の様式種別

海難事故の様式としては、以下のようなものがある(例示)。

船体が水面下に沈んでしまうもの。潜水艦の浮上不能も含む。浅海で沈没した場合、船の上部構造物が海面上に出ていることがあるが、座礁とは異なる。
船体がなんらかの理由で上下逆になるもの。横倒しになるとたいてい沈没するが、さかさまになってしまうと案外沈まない。
船底が海底・川底と接触し操船が不能になるもの。船の多くは、液体の水の上に浮くことで全体で分散して重量を負担する設計となっているため、固体の海底などに接触しそこに重量が集中すると、容易に船体断裂などの損壊を引き起こす。潮の満ち引きなどの影響で結果として同等になる場合はあるが、座礁・触底は「通常の喫水で航行中に浅くなっているところに乗り上げる」ものであり、沈没とは異なる。
  • 機関故障・推進器故障・かじ故障などによる漂流
なんらかの理由で航行できなくなり、海上を漂うもの。
  • 落水
船上から乗組員・乗客・積荷が転落するもの。
  • その他
火災や浸水

[編集] 海難事故の影響

引き起こされる結果としては、以下のようなものがある(例示)。

  • 人的損害
死亡怪我など。
  • 物的損害
船体の喪失・荷物の流失・港湾施設の損壊など。
  • 自然損害
燃料・輸送物の漏洩・散乱による海洋汚染など。オイルタンカーの海難事故の場合には特に大きな被害の発生が報告されている。

[編集] 海難事故の複合的様態

海難事故は、個々に様態が異なり、またさまざまな複合的要素を持つ。たとえば「荒天による操船不能→座礁→船体断裂→燃料流出」など。また、関係者が生還しないケースも少なくなく、原因の解析が困難なことも珍しくない。

[編集] 海難事故の法的扱い

海難事故は、船という陸上での経験があまり通用しない交通機関にかかわるものであること、独特の法的規制や慣習があることなどに鑑み、法的に特殊な扱いがなされる場合がある。

[編集] 日本における海難事故の法的扱い

日本では、一般に事故をめぐる責任の追及については民事上の責任や刑事上の責任が問題となり、海難事故に関しても同様であるが、海難事故の場合には特に将来的な海難の防止という観点から、運輸安全委員会による海難事故の究明(運輸安全委員会設置法1条)がなされ、故意・過失によって海難を発生させた船員に対しては海難審判所海難審判による懲戒がなされる(海難審判法1条)。なお、海難事故の究明や海難審判について以前は海難審判庁が担っていたが、2008年10月の法改正により海難審判庁は廃止され現行の体制に移行した。

[編集] 海難事故の損害賠償枠組み

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一般的な海難事故の損害賠償については、通常の損害賠償保険によって扱われる。

しかしながら海難事故の場合、特にオイルタンカー座礁事故などの際には、その汚染規模が大きく、被害額・除染費用などが巨額に上ることが少なくなく、補償の実効性には疑問が持たれるケースも少なからず存在した。そのため、1967年のトリー・キャニオン号事故を契機として1969年には「油による汚染損害についての民事責任に関する国際条約」が作られ、以下幾度か改定されている。

この条約では、タンカー事故などについて、ほとんど無過失責任であるといえるレベルの損害賠償責任を負わせている。また、現実的な被害救済のために、一定量以上の荷主に拠出を義務付けるなどして国際基金を整備し、確実に補償がなされるような枠組みを作っている。

日本国内では、この条約に基づいて船舶油濁損害賠償保障法が制定されている。また、保険未加入船舶については入港を拒否するといった方法で、補償が期待できないような被害の発生を防止している。

[編集] 年表

ここでは特に社会的影響の大きかったものに限り、便宜的に記載する。

[編集] 1900年代以前

[編集] 1900年代

[編集] 1910年代

  • 1910年(明治43年)4月15日:日本海軍の第六潜水艇が、広島湾でガソリン潜航実験の訓練中に沈没。艇長佐久間勉大尉以下乗員14名全員殉職。後日引き上げられ、最後まで規律を保って配置を守っていた乗組員の遺体と、佐久間が絶命の瞬間まで書き綴った遺書が発見された。その様子は国内では教科書や軍歌に取り上げられるほどの社会現象となり、アメリカ・イギリスなどにおいても大きな話題となった。
タイタニック号
  • 1912年(明治45年)4月14日:イギリス船籍客船タイタニック号が処女航海中氷山に衝突し、沈没。1,517人が死亡。
  • 1912年(明治45年)9月1日静岡県新島近くで石炭運搬船「幸運丸」2,878トンが沈没。乗員42名中40名死亡。
  • 1912年(明治45年)9月23日青森県尻屋崎の沖合いで石炭運搬船「相川丸」1,536トンが台風による暴風雨で沈没。乗員33名全員死亡。
  • 1914年大正3年)5月29日:カナダ船籍客船「エンプレス・オブ・アイルランド号」(14,191t)が濃霧のセントローレンス川でノルウェー船籍貨物船「ストールスタッド号」(6,028t)と衝突し沈没。1,024人が死亡、行方不明。

[編集] 第一次世界大戦時

[編集] 1920年代

  • 1922年(大正11年)8月26日:、カムチャッカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオゼルナヤ沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁、転覆した。15人は救助されたが、残りの327人は死亡した。
  • 1924年(大正13年)12月11日:京都府舞鶴港に向かっていた海軍の工作艦「関東」が、吹雪の気象条件のなか位置を誤認もしくは確認できないまま航路を逸脱。福井県下糠浦海岸の二ッ栗岩に座礁し沈没、乗組員と便乗者のあわせて99名が死亡。
  • 1926年(大正15年 / 昭和元年)12月:漁船「良栄丸」(42トン)が本州東方海上で機関を破損して航行不能となり、漂流。乗組員全滅後、27年10月末に北アメリカ西岸に漂着した(良栄丸遭難事故)。
  • 1927年(昭和2年)8月24日美保関事件。島根県美保関沖で夜間演習中の軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「」が衝突し「蕨」が沈没、軽巡洋艦「那珂」と駆逐艦「」も衝突し、将兵119名が殉職した。「神通」艦長水城圭次大佐は軍法会議にかけられ、判決の前日に自決した。

[編集] 1930年代

  • 1933年(昭和8年)1月24日愛媛県南宇和郡内海村(現・愛南町)の沖にて南宇和郡深浦港行の連絡船第3大和丸(45t、乗員乗客24名乗)が沈没。生存は乗組員1名のみで残りの24人は死亡した。
  • 1934年(昭和9年)3月12日日本海軍水雷艇友鶴」が演習中に転覆。乗員100名が死亡。(友鶴事件
  • 1934年(昭和9年)3月24日広島県帝釈峡にある神竜湖の遊覧船が沈没。比婆郡田森村(現在の庄原市東城町)の粟田尋常小学校と粟田尋常高等小学校児童の卒業遠足一行(計42名)が乗船しており、児童12名と引率教諭2名、合計14名が死亡した。(神竜湖遊覧船沈没事故
  • 1935年(昭和10年)1月21日広島県の尾道を出航し豊島へ向かう汽船大崎丸(33トン)が生野島沖で暴風雨により沈没。乗っていた30名以上のうち11名が死亡。
  • 1935年(昭和10年)7月3日大分県の別府を出航し兵庫県神戸市へ向う途中の大阪商船の客船船緑丸(1,724トン)が小豆島の近くで大連汽船の千山丸(2,775トン)と衝突。この事故で緑丸は沈没。乗員乗客107名が死亡。
  • 1935年(昭和10年)9月26日日本海軍第四艦隊が演習中、台風に遭遇。54名が死亡。(第四艦隊事件
  • 1936年(昭和11年)1月30日長崎県から大阪府に石炭を運ぶ途中の福岡県の貨物船彦山丸(929トン)が博多湾の沖でで遭難。22名が死亡。
  • 1936年(昭和11年)2月5日:貨物船雲南丸(2,200トン)が中国の大連から横浜へ向かう途中に和歌山県の樫野岬沖で遭難。乗員40名が死亡。
  • 1936年(昭和11年)5月19日埼玉県の川柳村から彦成村へと通う中川の彦成の渡し船が定員20名のところ、無理に36名を乗せて出航したところ川を半分ほど渡ったところで浸水して沈没し10名が死亡。
  • 1936年(昭和11年)6月21日愛知県八開村(現・愛西市)の木曽川渡船場で渡し船が定員を超えた状態で出航したところ沈没して8名が死亡。
  • 1936年(昭和11年)10月22日樺太・栄浜沖で相州丸(1,219トン)が浅瀬に座礁する事故が起きた。相州丸は救助船・大浦丸に曳航されて函館港に向かっていたが、大浦丸は天売島沖で舵を損傷。相州丸は23日に増毛の南に漂着した。また大浦丸の救難ボートに乗り移った者もいたが、この救難ボートは23日に留萌付近に着岸する前に転覆した。これらの事故により19名が行方不明になった。
  • 1937年(昭和12年)1月2日北海道から静岡県へ向けて航行中の石炭運搬船愛国丸(3,212トン)が積丹岬の沖合いにて座礁し、船体が二つに折れて沈没。33名が死亡。
  • 1937年(昭和12年)2月14日横浜から函館へ向っていた貨物定期船小樽丸(1,464トン)が吹雪で荒れる太平洋を北上中に行方不明となり後日岩手県八幡平市の沖合いで沈没しているのが発見された。乗組員36名全員死亡。
  • 1939年(昭和14年)12月12日北海道猿払村オホーツク海にてソ連貨客船インディギルカ号が座礁沈没、700名以上が死亡。

[編集] 1940年代

[編集] 第二次世界大戦時

  • 1943年(昭和18年)3月19日
  • 1944年(昭和19年)8月22日
    • 沖縄からの児童疎開船「対馬丸」米潜水艦の雷撃により沈没。疎開児童708名を含む1484名が死亡。3隻の疎開船団(暁空丸、和浦丸、対馬丸)の唯一の犠牲。また、沖縄方面からの疎開船(187隻)の中で、唯一撃沈されてしまった船でもある。
  • 1944年(昭和19年)9月18日
    • 捕虜交換船「順陽丸」英潜水艦の雷撃により沈没。連合国軍の捕虜など約5620名が死亡。
  • 1945年(昭和20年)1月30日
  • 1945年(昭和20年)2月10日
    • ドイツ客船「シュトイベン号」、ソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など4500名が死亡。
  • 1945年(昭和20年)4月1日
    • 阿波丸事件。安全航行を保障されていた緑十字船阿波丸が台湾海峡にて米潜水艦により撃沈される。乗客2000名以上が死亡。阿波丸は協定に違反して戦略物資を積み込んでいたことが明らかになっている。
  • 1945年(昭和20年)4月16日
    • ドイツ客船「ゴヤ」、ソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など6666名が死亡。
  • 1945年(昭和20年)5月3日
    • ドイツ客船「カップ・アルコナ」、英空軍の空襲により沈没。5594名が死亡。強制収容所の収容者が多く犠牲となった。
  • 1945年(昭和20年)7月29日
    • 米重巡洋艦「インディアナポリス」、日本潜水艦伊58の雷撃により沈没。米海軍は同艦沈没の事実を人為的ミスによって丸四日間気付かず、乗員1196人中、880名が死亡した。同艦は広島へ投下された原子爆弾の輸送任務を終えた直後だった。生き残ったマクヴェイ艦長は軍法会議にかけられ有罪となり、1968年に自殺している。この事件は海軍の真相隠蔽疑惑と、マクヴェイ艦長の名誉回復を巡って今も論争が続いている。
  • 1945年(昭和20年)8月22日
    • 樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」・「第二新興丸」・「泰東丸」が停船命令に従わず、ソ連潜水艦(L-12L-19)の雷撃・砲撃を受け小笠原丸と泰東丸が沈没、第二新興丸が大破した。1700名以上が死亡。犠牲者の大半は民間人だったという。なお、第二新興丸の反撃により、ソ連潜水艦も一隻(L-19)が沈没している。詳しくは三船殉難事件を参照。

[編集] 1950年代

[編集] 1950年(昭和25年)

  • 3月26日
    • 静岡県伊東市の盛徳丸(30トン)が伊豆大島の沖合いで沈没。乗組員32名が死亡。
  • 7月27日
    • 広島県佐伯郡にある長島の近くで漁船が操業していたところ付近に浮遊していた大型機雷が爆発。これにより漁船4隻が大破し2隻が損壊した。犠牲者46名。
  • 9月19日
    • 北海道厚岸郡の霧多布沖で捕鯨船が救難信号を出した後に行方不明となった。21名が乗り組んでいたが生存者は発見されなかった。
  • 9月21日
    • 三重県北輪内村(現・尾鷲市)の漁船が岩手県三陸海岸の魹ヶ崎(とどがさき)付近で行方不明。48名死亡。
  • 11月9日
    • 愛媛県の今治市から大阪へ向かう定期旅客船(第2高島丸161トン)が沈没。16名が死亡。
  • 12月10日
    • 長崎から名古屋へ向かっていた豊丸(725トン)がSOSを発信した後に消息不明となった。その後救命ボートに乗っていた5名が助かったが26名が犠牲となった。
  • 12月18日
    • 青森県の深浦沖にて東邦海運の貨物船(1,684トン)が座礁したあと沈没。乗組員40名が死亡。

[編集] 1951年(昭和26年)

  • 1月22日
    • 横浜市の大岡川に浮かぶ日雇い労務者用の水上ホテルが横転。7名が犠牲となった。定員250名のところに432名が乗り込みバランスが崩れたのが原因と思われた。
  • 2月6日
    • 佐賀県東松浦郡の波戸岬の沖で貨物船(880トン)が座礁したあと沈没。33名死亡。
  • 2月14日 - 2月15日
    • 東京湾および関東付近の太平洋で吹雪まじりの嵐となり漁船などの連続遭難事件が発生した。14日と15日の両日だけで小型漁船を中心に沈没43隻、流失46隻、損壊15隻、行方不明9隻、座礁6隻をだす事態となった。
  • 8月3日
    • 福島県にある桧原湖にて遊覧船(定員60名)が定員をオーバーする乗客を乗せて沈没。女子中学生1名死亡。

[編集] 1952年(昭和27年)

  • 9月24日
    • 当時活発な活動を繰り返していた海底火山明神礁の調査に向かった海上保安庁の測量船「第五海洋丸」が、明神礁付近で調査を行っている際に突如発生した海底火山噴火に巻き込まれ、沈没。船長以下乗組員22名、学術調査員9名、計31名全員が死亡。
  • 10月19日
    • 静岡県の漁船「福徳丸」64トンが宮城県塩釜沖の太平洋で沈没。21名が犠牲。
  • 10月22日
    • 北海道の稚内沖で日進丸が定置網の引き上げに出航したきり行方不明になった。31名が乗り組んでいたが強風により沈没したものと思われる。
  • 10月26日

[編集] 1953年(昭和28年)

  • 2月4日
    • 沖永良部島から与論島へ向っていた機帆客船新生丸(25トン)が沈没。乗客82名のうち80人が死亡。
  • 2月15日
    • 米国の貨物船と日本の水産指導船が静岡県白浜沖の太平洋で衝突。これにより水産指導船が沈没し11名が死亡した。
  • 8月2日
    • 福島県のカオマグロ漁船「みどり丸」98トンが宮城県の金華山沖で消息を絶った。海上保安庁だけでなく在日米軍の協力も得て海難地点付近を捜索したが、みどり丸のものと思われる釣竿や魚を入れる道具しか発見できないまま8月8日に捜索を打ち切った。乗員51名全員が行方不明。

[編集] 1954年(昭和29年)

[編集] 1955年(昭和30年)

  • 1月7日
  • 1月7日
    • 大阪府大阪港第3埠頭に停泊中だった関西汽船の「にしき丸」1,850トンから出火。その後、消火活動が始まったが消防の放水を浴びてバランスを崩して転覆・沈没した。出火の原因は船員の寝室にあった石油ストーブの火の不始末と考えられた。死者や怪我人はでなかった。
  • 2月7日
    • 青森県尻屋崎の沖合いで大阪府大阪市の五大光商船所属の貨物船「大玄丸」918トンが浸水しSOS信号を発信しながら沈没。乗組員29名が行方不明となった。
  • 2月16日
    • 北海道の小樽港の沖合いで小樽石油海運のタンカー「第五葵丸」が時化で沈没。
  • 5月11日

[編集] 1956年(昭和31年)

  • 7月25日
    • イタリア客船「アンドレア・ドーリア」(29083t)と、スウェーデン客船「ストックホルム」(12165t)が濃霧の中で双方ともレーダーを過信し、20ノットの高速で航行中に北大西洋・ナンタケット島沖で衝突。アンドレア・ドーリアは沈没し、双方で55名死亡。

[編集] 1957年(昭和32年)

  • 4月12日
    • 瀬戸内海の定期客船であった第5北川丸が、定員の3倍超の乗客を乗せ生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航したところ、途中の暗礁に座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す惨事になった。海難審判では船長の職務上の過失に加え、運航会社による管理が不適当であったとされた(第五北川丸沈没事故)。

[編集] 1958年(昭和33年)

[編集] 1959年(昭和34年)

  • 11月25日
    • 福岡県にある米軍芦屋基地の沖で八幡製鉄所構内の小型貨物船松栄丸(422トン)が沈没し10名死亡。
  • 11月25日
    • 千葉県銚子市の一ノ島灯台付近で茨城県の漁船第5幸辰丸(32トン)が高波を受けて転覆・沈没。乗組員35名のうち28名が死亡。

[編集] 1960年代

[編集] 1960年(昭和35年)

  • 6月4日
    • 津軽海峡東方で対潜訓練中の海上自衛隊護衛艦の「あけぼの」と「いなづま」が、操船ミスで衝突し2人が死亡、2人が負傷した。なお翌日には修理中の「いなづま」で室内での清掃作業に用いたガソリンへの引火による爆発事故が発生し、3人が死亡した。
  • 6月19日
    • 岩手県釜石市漁船第6神明丸(36トン)が北海道の釧路沖500キロで消息不明となった。17名の乗組員は全員死亡したものと思われる。

[編集] 1961年(昭和36年)

  • 2月12日
    • 宮城県金華山沖で東京都中央区の太洋海運所属の貨物船「第五太平丸」900トンが積荷の荷崩れが原因で沈没。乗組員25名は沈没直前に救命ボートに乗り移ることに成功し全員生還した。
  • 6月10日
    • 岩手県三陸沖でギリシャ船籍の貨物船アトランチック・サンライズ号(1万4,408トン)と大洋漁業の捕鯨船第7文丸(391トン)が衝突。第7文丸はたちどころに沈没して死者不明16名となった。
  • 8月12日
    • 北海道の広尾港を出港した刺し網漁船第18雲浦丸(53トン)が襟裳岬東南35キロでバラバラとなった船体の破片が発見された。状況から他の船と衝突して沈没したものと思われたがぶつけた相手の船は判らなかった。この事故により乗組員14名全員が行方不明となり全員が死亡したものと推察される。
  • 12月6日
    • 千葉県銚子沖30キロの太平洋茨城県の漁船第6政豊丸(30トン)が貨物船玉川丸(6,844トン)と衝突し、第6政豊丸は転覆・沈没。乗組員12名のうち9名が死亡した。
  • 12月7日
    • 東京湾の各所にて強風のため遊漁船や小型の釣り船が沈没して3隻の合計11名が死亡した。
  • 12月9日
  • 12月9日
    • 新潟県新潟市沖の日本海で長谷部海運のタンカー第18八幡丸(452トン)が転覆。乗組員のうち2名が死亡、9名が行方不明。
  • 12月12日
    • 韓国の済州島の北西約370キロの海上で漁船第8山田丸(92トン)が突然の横風を受けて沈没。乗組員13名のうち3名は救助されたものの10名が行方不明。
  • 12月18日

[編集] 1962年(昭和37年)

  • 11月18日
    • 神奈川県川崎市京浜運河を航行中の出光興産所有の小型タンカー「第一宗像丸」1,972トンが、ノルウェー船籍の大型タンカー「タラルド・ブロビーグ」(同21,634t)に衝突。「第一宗像丸」の積荷のガソリンが炎上し、付近を航行していた太平丸(同89t)と宝栄丸(同62t)も巻き込まれて炎上、4隻で41人が死亡。事故原因は第一宗像丸の船長とタラルド・ブロビーグの水先人が見張りを疎かにしていたためとされたが、狭い運河に揮発性の高い積荷を満載した船舶が過密航行していることも原因のひとつであった。

[編集] 1963年(昭和38年)

  • 1月17日
    • 韓国済州島の近くで日本の漁船「第十二泰安丸」が沈没。乗組員12名のうち1名は韓国側に救助され、2名の遺体を収容、9名が行方不明となった[1]
  • 1月18日
    • 韓国のソウルに近い木浦港の近くでフェリーが沈没。乗客約80名が死亡[2]
  • 2月11日
    • 北海道枝幸郡枝幸町のはえなわ漁船「第二瑞宝丸」74トンが北海道の千島列島沖で操業中に火災発生。夜間で乗組員全員が就寝中だったため火災の発生に気付くのが遅れて乗組員14名のうち6名死亡、3名が重軽傷。
  • 2月26日午前1時過ぎ
    • 兵庫県神戸市和田岬沖で貨物船「りっちもんど丸」(総トン数9,547t)と鳴門・阪神間の定期旅客船「ときわ丸」(総トン数238トン)が衝突。「ときわ丸」は衝撃で沈没し乗員7人と乗客40人が死亡し3人が負傷した。事故原因は「りっちもんど丸」船長の職務上の過失が主とされたが、「ときわ丸」側にも過失があったと認定された。
  • 3月30日
    • 東京湾内で海上自衛隊護衛艦「てるづき」の右舷に貨物船「賀茂春丸」の船首が衝突し、自衛官5人が死亡。
  • 4月24日
  • 6月6日
    • フィリピンからラワン材を運搬していた洞南丸(4,815t)が和歌山県潮岬沖で遭難。乗員33人が死亡・行方不明。荷崩れにより転覆の危険があるため総員退避すると通信があったことから、荷崩れで横倒しになり沈没したとみられている。また洞南丸が戦時標準型貨物船(1945年(昭和20年)5月29日三菱造船長崎造船所で進水)であったことも事故原因の一因であるとの指摘が、事故直後の6月12日の衆議院運輸委員会でなされた。
  • 6月10日:深夜
    • 岩手県宮古市のサケマスはえなわ漁船「第3宝運丸」39トンから火災発生。乗員16名のうち4名焼死。6名火傷。
  • 7月27日
    • 広島県福山市で製鉄所建設現場に通勤する作業員57人が乗船したタグボート「第13湊川丸」(6,150Kg)が転覆・沈没し10人が死亡。原因は定員の5倍が乗っていたことによる重量超過であった。
  • 8月17日
    • 沖縄本島久米島を結ぶ「みどり丸」が横波を受けて転覆・沈没。死者・行方不明112人。
  • 12月8日
    • 北海道の松前沖にて兵庫県神戸市の正向海運所属の貨物船「加明丸」998トンが積荷の硫化鉱の荷崩れが原因で沈没。死者20名。

[編集] 1964年(昭和39年)

  • 1月21日
    • 青森県下北半島沖にて広島県豊田郡安芸町(現・広島市)の進徳海運所属の貨物船「第二進徳丸」757トンが積載量を超えた荷物を積んで出航し、また時化にあったことにより沈没。乗組員11名のうち一等航海士1名は救命ボートにより脱出に成功し生還したが両手足に凍傷を負った。残り10名は死亡行方不明となった。
  • 2月11日
  • 2月16日
    • 北海道小樽市の沖合いで底引漁船「第三豊善丸」82トンが消息を絶ち乗組員17名が行方不明となった。
  • 3月15日午前9時頃
    • ギリシャ船籍の貨物船「マリア・G・L号」7,238トンがアメリカのロングビーチから横浜港肥料を運んでいたところ千葉県勝浦市布良鼻の沖で座礁し動けなくなった。またこのあとマリア・G・L号を救助するため現場へ向かったアメリカ船籍の貨物船「ダディビレジ号」8,245トンも座礁してしまった。そして2日後の17日になってマリア・G・L号は船体が真っ二つに割れて沈没。乗組員は沈没前に全員救助されて無事だった。ダディビレジ号も船体が危なくなったので全員が退船するなどした。
  • 3月26日
  • 3月27日
  • 4月4日
  • 5月6日午前0時30分頃
    • 静岡県賀茂郡松崎町沖の駿河湾で漁船「第一鉱造丸」及び「第二鉱造丸」の2隻が相次いで転覆・沈没し合計32名が海へ投げ出された。近くにいた仲間の船が27名を救助したが、2名死亡。3名行方不明となった。
  • 5月11日午後4時過ぎ頃
    • 鹿児島県薩摩半島の西約で台湾船籍の貨物船「チュンカイ号」1,873トンが積荷の火薬が爆発しSOSを出す間もなく沈没。翌12日の午前0時30分頃に同海域を通りかかったギリシャ]船籍の貨物船「バアン号」6,729トンが漂流するチュンカイ号の救命ボートを発見し佐世保海上保安本部へ連絡し事故が発覚した。このあと現場海域で大がかりな捜索が行われイカダに漂流する乗組員などを救助したが、全乗組員45名中24名については行方不明のまま5月13日の日没をもって捜索は打ち切られた[7]
  • 5月15日午後9時15分頃
    • 北海道亀田郡椴法華村東(現・函館市)の噴火湾で日魯漁業のサケマス漁船「協宝丸」7,158トンと、北海道漁業公社の「第三海鳳丸」84トンが衝突し、第三海鳳丸は転覆・沈没した。第三海鳳丸は衝突と同時に転覆してしまい、また夜間で海が暗かった事もあり、協宝丸側はすぐに救助作業を始めたものの1名も救助する事はできなかった。また朝になり海上保安庁の船も付近を捜索したが生存者の発見は出来ず第三海鳳丸の乗組員21名の命は絶望とされた。[8]
  • 6月4日
    • 北海道襟裳岬東南東約240kmで、岩手県大船渡市のサケマスはえ縄漁船「第八成徳丸」39トンが沈没。釧路海上保安部の巡視艇「宗谷」が救助に向かったところ6月5日に乗組員17名中13名を乗せた救命ボートを発見。しかし13名全員が死亡していた。[9]
  • 8月30日夕方
    • 東京湾を航行していた館山竹芝桟橋行の水中翼船「バカンス号」39トンが浮遊していた障害物と接触して急停船。この事故で乗客51名のうち23名が座席から放り出されるなどして怪我をした。竹芝桟橋に入港後すぐさま病院へ搬送されるなどした。東京水上署が調べたところ船体両側にある水中翼が二つとも損傷していたことから障害物は水面すれすれに浮かんでいた巨大な丸太などではないかと推察されたが結局のところ何がぶつかったのかは判らなかった[10]
  • 9月20日
    • 愛知県常滑市沖の伊勢湾イギリス船籍の貨物船「イースタンテイク号」1万1,222トンと、大阪府大阪市の日化汽船所属のケミカルタンカー「日化丸」339トンが衝突し、日化丸はまもなく沈没し乗員9名全員が死亡した。
  • 11月4日
    • 東京都羽田沖の東京湾で大阪商船三井船舶所属の貨物船「はわい丸」9,332トンと、静岡県清水市の砂利運搬船「第一大伸丸」733トンが衝突。この事故で第一大伸丸はまもなく沈没し乗組員12名中8名ははわい丸などに救助されたが4名が行方不明となった。
  • 11月21日
    • 北海道茅部郡南茅部町(現・函館市)のイカ釣り漁船「美保丸」1.54トンが漁に出たまま行方不明となった。海上保安庁の巡視船が捜索したところ椴法華村の沖合いで転覆して船底を上にして漂流している美保丸を発見。しかし乗組員4名は発見されなかった。
  • 11月24日
    • 千葉県富津岬の沖合いで個人所有のヨットが荒天のため転覆し乗っていた会社員2名が死亡。
  • 11月24日
    • 兵庫県高砂市の沖合いで砂利運搬船「第二天祐丸」198トンが強風に煽られて横転し沈没。乗組員5名中1名が死亡。
  • 11月26日
  • 12月6日午後6時半頃
    • 北海道稚内市にある結城水産所属のタラ漁船「第11幸福丸」105トンが千島列島アライト島の北方約26kmのオホーツク海で火災発生。乗組員17名のうち8名は逃げ遅れて焼死。9名は付近で操業していた宮城県石巻市の漁船に救助されたがうち2名は大火傷を負い重傷となった。
  • 12月11日
    • アフリカアンゴラ沖の大西洋福岡県北九州市日本水産戸畑支社所属のトロール漁船「宇治丸」535トンが行方不明となった。その後、同水産会社所属の漁船が宇治丸のものと思われる“浮き”や“木箱”“海面に浮く重油”などを発見した。乗組員33名は1名の遺体が発見されたが残りの者は全員が行方不明となった。その後、船体は陸地からすぐ近くの深さ85mの海底に沈んでいるのが魚群探知機により発見された
  • 12月17日
    • 千葉県銚子港沖の太平洋で青森県八戸市のカツオマグロ漁船「第三十五正進丸」が行方不明となった。後日、第三十五正進丸の遭難ブイからと思われる電波をキャッチしたが船は見つからなかった。
  • 12月27日

[編集] 1965年(昭和40年)

[編集] 1966年(昭和41年)

[編集] 1967年(昭和42年)

  • 3月18日
    • イギリス沖で、リベリア船籍の大型タンカーであるトリー・キャニオン号(Torrey Canyon、載貨重量トン数11万8,285t)が座礁。同船はクウェート産の原油を満載しており、船体破損で船外に流出した。船体は3月26日に二つに破断。英国政府は船内に残った原油の流出を避けて燃焼させるために船体を爆破、3月30日に沈没した。流出した原油は8万トン以上に及び、タンカー事故で広範囲に原油が流出して海洋を汚染した最初の事故となった。これをきっかけに国際海事機関(IMO)は1969年に「油による海水の汚濁の防止に関する国際条約」を改正、さらに1973年にこれを発展的に強化した海洋汚染防止条約(マルポール条約)が採択されるに至った。
      このころから世界中で大型タンカーが建造され始めたが、当初知りえなかった現象(静電気の発生、それが残油に引火)により、多くの船が爆発炎上している。日本のタンカー及び日本に寄港したタンカーにおいても、サウジアラビアにおける海藏丸火災事故(同国ラス・アル・カフジに入港中のタンカー海藏丸(総トン数20,949トン)が、船内に侵入・滞留した石油気化ガスに引火して爆発炎上し14名が死亡)や、室蘭港におけるヘイムバード火災事故(ノルウェー船籍のタンカー・ヘイムバード(総トン数3万5,355トン)が室蘭港への接岸に失敗し、原油を大量に流出させた所へ曳船のエンジンの火の粉もしくは火花から石油気化ガスに引火。同船は大爆発を起こして27日間にわたって燃え続け、10名が死亡すると共に一時は周辺住民に避難命令が出された)など、大規模な炎上事故が起こっている。

[編集] 1968年(昭和43年)

  • 1月12日
    • 北海道静内郡静内町(現・新ひだか町)の沖合いで操業中の同町漁協所属の漁船「高徳丸」9トンが漁のため投網したところ魚が網に入り過ぎて船体のバランスを崩し横転沈没。5名が死亡した。

[編集] 1969年(昭和44年)

  • 1月5日
    • 野島崎南東沖合を航行中のばら積貨物船「ぼりばあ丸」(総トン数3万3,768t)の船首部分が突然折損脱落して航行不能となり、約1時間後に沈没。長沢吉三郎船長ほか乗組員30人が行方不明となった。翌1970年(昭和45年)2月9日にも野島崎東方沖合で鉱石船「かりふおるにあ丸(総トン数3万4,001t)」遭難事件(船体破損により浸水沈没。船長ほか4名死亡)が発生し、どちらも就役して5年も経たない(ぼりばあ丸:3年3ヶ月、かりふおるにあ丸:4年4ヶ月)新鋭大型貨物船が相次いで船体破損で沈没したことは、当時大型船建造を推し進めていた日本の造船業界に大きな衝撃を与えた。
  • 6月3日

[編集] 1970年代

[編集] 1970年(昭和45年)

  • 2月4日
    • 静岡県の田子ノ浦港を出航した合洋海運の砂利運搬船第1合洋丸(349t、乗員5名)が行方不明となったと船主より海上保安庁に届出があった。1月31日以降同船と連絡が取れておらず太平洋上で沈没したものと推察された。
  • 2月9日
    • 千葉県犬吠埼の沖合い約300kmの太平洋上で第一中央汽船の鉱石運搬船かりふぉるにあ丸(61,000t、乗員29名)が、船首部分を破損して浸水をおこし沈没。乗組員のうち24名は無事に救助されたが、住村博船長(当時45歳)は船長としての責任を取るべく「船と運命を共にすると」言い残し救助される事を拒否。ブリッジより乗組員へ別れを告げ、そのまま沈没した船と運命を共にした。この事故では船長の他に合計5名が死亡した。(かりふぉるにあ丸遭難事故
      この半月ほど前の1月17日にも北海道奥尻島沖を航行中の石炭運搬船「波島丸」(総トン数3,913t)が時化のために転覆、18人が死亡したが、この時も波島丸の上床力船長(当時60歳)が船と運命を共にしている。当時の船員法第12条に「船長の最後去船義務」という項目があり、「旅客・海員その他船内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない」との条文があったが、これが「船長に殉職精神を植え付けているのではないか」との批判が巻き起こり、国会でも大きな論争となった。同年5月15日に船員法が一部改正され、第12条が削除されるきっかけとなった。

[編集] 1971年(昭和46年)

[編集] 1972年(昭和47年)

  • 3月31日
    • 茨城県の日立港から神奈川県の久里浜港へ向かう途中の材木運搬船「武光丸」2,298トンが千葉県の大東埼灯台沖で座礁し沈没。乗員22名死亡。

[編集] 1974年(昭和49年)

  • 11月9日
    • 和歌山県南端の潮岬沖でリベリア船籍の貨物船オーシャン・ソリバーン号が高知県のマグロ漁船第十一昌栄丸に衝突し、第十一昌栄丸は転覆・沈没。死者行方不明14名。
  • 11月9日

[編集] 1976年(昭和51年)

宮崎県の細島港から広島県の広島港に向かっていた日本カー・フェリー所属のカーフェリー「ふたば」(総トン数1,933t)が山口県のミルガ瀬戸で、パナマ船籍の貨物船「グレート・ビクトリー」(同7,519t)と衝突。「ふたば」は沈没。「ふたば」の乗員28人と乗客58人のうち5人が死亡・行方不明となり車両24台も水没した。日本国内でカーフェリーで発生した初の人身死亡事故となった。

深刻な海洋汚染を引き起こしたアルゴ・マーチャント号
  • 12月15日
    • リベリア船籍のタンカー「アルゴ・マーチャント号」がアメリカのマサチューセッツ州ナンタケットで座礁。数日後に船体は破断し積荷の燃料油29,000キロリットル全量を流失、極めて深刻な海洋汚染を引き起こす。

[編集] 1978年(昭和53年)

  • 2月16日
    • 今治市東門町一、寿汽船所属の「第8福徳丸」(342t 野崎幸夫船長ら4人乗り組み)は午後2時半過ぎ、セメント原料約600tを積んで香川県・直島港を出港、福岡県苅田町三菱セメント苅田工場に向かったが、同4時頃、坂出沖付近を航行中、船舶電話で「17日午前7時ごろ到着する」と苅田工場に連絡したのを最後に消息を絶った。寿汽船からの連絡で、第六管区海上保安本部は18日朝から巡視船20隻、飛行機3機動員して捜索を開始。23日朝からも走査線を10隻に減らしたものの、飛行機3機を引き続き飛ばして捜したが手がかりはゼロ。同本部では「遭難したとすれば海面に油が浮いたり漂流物が見つかる。全く謎の蒸発」と言った。予定を変更して上陸した形跡はなく、船内で何かが起き外洋に出たという情報もない。
  • 9月7日
    • 兵庫県の神戸港から宮崎県の細島港に向かっていた日本カー・フェリー所属のカーフェリー「さいとばる」(総トン数6,574t)が、愛媛県来島海峡大韓民国のタンカー「チャン・ウォン」(同3,409t)と衝突し、転覆後沈没した。乗用車69台とトラック69台とコンテナ4個と多数の積荷が水没する甚大な被害が生じたが、幸い深夜かつ強潮流の悪条件の中から乗員・乗客245人全員無事に救出された。

[編集] 1980年代

[編集] 1980年(昭和55年)

  • 12月30日
    • 野島崎東南東沖合約800海里(約1500km)を航行中のばら積貨物船「尾道丸」(全長226.4m、総トン数33,833t)が、船首方向からの強いうねりの中、波高20mほどの大波に突っ込んだ際に船首部分が上方に折損(スラミング現象による)、その後脱落して航行不能となった。「尾道丸」の前方を航行していた鉱石運搬船「だんぴあ丸」が引き返し、翌1981年(昭和56年)1月1日に「尾道丸」乗組員29名全員を無事救助する。この事故が乗組員全員を無事救助した初のケースとなった(貨物船尾道丸遭難事故[11]

[編集] 1980年(昭和56年)

[編集] 1983年(昭和58年)

[編集] 1985年(昭和60年)

[編集] 1986年(昭和61年)

[編集] 1987年(昭和62年)

  • 2月4日
    • 銚子港より約十数km沖で乗員22名の青森県八戸市の福島漁業所属のイワシ漁船、第65惣宝丸(80t)が強い横風と波高5mもの高波により沈没。船体2月27日に引き上げられたが、この沈没で死亡8名、不明7名となった。
  • 12月20日
    • フィリピン客船「ドニャ・パス号」(2640t)とガソリンを積載した小型タンカー「ヴェクター号」(640t)が、フィリピン・タブラス海峡で衝突し炎上、双方が沈没。正確な乗船数は不明だが、少なくとも1576人以上死亡、行方不明。平時における最大の海難事故といわれている。

[編集] 1988年(昭和63年)

  • 4月14日
    • アイルランド向けに輸出される日本製自動車5,458台を積載した自動車運搬船麗神丸(58,000t)がポルトガル沖で座礁。後日、この船の撤去には時間がかかりまた積荷の自動車が錆びて商品価値を失ってしまった事などにより積荷の新車ごと船ごと深度2,000mの地点まで曳航した後に海に沈める事を提案し、ポルトガル政府もこの案に合意した事により実行された。しかし後日これは重大な環境破壊であると日本国内はもとより外国でも批判が高まった。
  • 5月18日
    • 大阪港中央突堤北岸壁に停泊していたソ連船籍の貨物船プリアムリーエ号(4,870t)が左舷中央客室付近から出火しロシア人旅行客の11名が死亡。船自体は消火活動により17時間後に鎮火し沈没は免れた。
  • 7月23日
  • 8月26日

[編集] 1989年(平成元年)

[編集] 1990年代

  • 1991年(平成3年)8月
  • 1991年(平成3年)12月
    • 日本からグアムを目指すヨットレース『トーヨコカップ・ジャパングアムヨットレース'92』に参加していた「たか」が29日に悪天候の為に沈没した。乗員7名のうち6名がゴムボートで脱出したが、わずかな食料しかなかったため、漂流から27日目の1992年(平成4年)1月25日に発見されたときには生存者は1名だけであった。生存していた彼は後に『たった一人の生還』(新潮文庫)の題名で手記を出版している。また同レースに参加していた「マリンマリン」も同様に沈没し8名が死亡しており、参加9隻のうち2隻が沈没し14名が死亡する日本のヨットレース最悪の惨事になった。
  • 1993年(平成5年)1月13日
  • 1994年(平成6年)9月28日
    • スウェーデン船籍フェリー「エストニア号」(21794t)がバルト海で荒天下に転覆、沈没。852人死亡。
  • 1994年(平成6年)11月30日
    • 客船アキレ・ラウロ号が火災を起こし、3日後に沈没。アキレ・ラウロ号は1985年10月にハイジャックされた船(上記参照)である。
  • 1997年(平成9年)1月2日
    • ロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」が波浪により船体を破断し、6,240キロリットルのC重油が海上に流出、日本海沿岸各地の広い範囲に深刻な汚染。船長が死亡、乗組員は脱出。除去作業にあたったボランティアに5名の死者を出す二次被害(ナホトカ号重油流出事故)。
  • 1998年(平成10年)9月19日
    • マニラ-セブ島の定期航路「PRINCESS OF THE ORIENT」(13,599総トン、Sulpicio Lines(フィリピン)所有、元・ブルーハイウェイライン「さんふらわあ11」)が台風7号の嵐の中を航行中に沈没し、死者51名、行方不明者216名を出した。直接の沈没原因は荷崩れであったが、フィリピンでの大幅なデッキ増設工事により船体が不安定になっていたとも云われる。
  • 1999年(平成11年)5月21日
    • クルーズ客船「サン・ビスタ」がマラッカ海峡で機関室からの失火が原因で沈没。速やかな避難誘導が行われたため犠牲者は無し。このことが原因で運航していたクルーズ会社は倒産した。

[編集] 2000年代

  • 2000年(平成12年)8月12日
  • 2001年(平成13年)2月10日
  • 2002年(平成14年)9月26日
  • 2002年(平成14年)11月26日
    • 自動車運搬船「HUAL・ヨーロッパ」(バハマ船籍、HUAL社(ノルウェー)所有)が、伊豆大島沿岸にて暴風雨の直撃を受け座礁。乗員24名は全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊し火災が発生。航行不能および重油流出。
  • 2002年(平成14年)12月5日
    • 日立港で北朝鮮船籍のチルソン号が座礁し重油が流出、のちに船体は放棄された。船舶所有者側による保障措置が何らなされなかったことから、無保険船の日本寄港を制限する油濁損害賠償保障法(改正後の名称は船舶油濁損害賠償保障法)改正のきっかけとなった。
  • 2003年(平成15年)7月2日
  • 2003年(平成15年)7月6日
    • 上記海難事故の4日後、貨物船「コレックス・クンサン」(韓国船籍)が玄界灘にて、夜間の警戒不備により漁業取締船「からしま」(水産庁所属)に衝突。「からしま」は乗員全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊し沈没。「コレックス・クンサン」は乗員全員無事であったほか損壊もなかった。なお、相次いだ2件の海難事故については、事故の規模に対する報道の少なさが恣意的ではないかと問題視する者もいる(「同時期に発生した児童殺害事件が比較的大きく扱われていただけ」とも考えられる)[要出典]
  • 2005年(平成17年)9月28日
    • コンテナ船「ZIM・アジア」(イスラエル船籍、ZIM社(イスラエル)所有)、北海道根室市沖合いにて、夜間の警戒不備によりサンマ漁船「第三新生丸」(日本船籍)に衝突。「第三新生丸」は乗員7名死亡し、船体はほぼ全部を損壊し沈没した。「ZIM・アジア」は乗員全員無事で船体の損壊もほとんどなかったが、救助活動をおこなわず逃走した。
  • 2006年(平成18年)2月3日
    • サウジアラビアからエジプトに向かって紅海を航行していた1,400人乗りのフェリー「アル・サラム・ボッカチオ98」が、フェリーデッキに積載していた車両からの火災が原因で沈没し、1,000名以上の死者・行方不明者を出した。多くの犠牲者を出した原因としては、悪天候のほか、老朽船であったことや建造後の改造により重心が極めて高くなっていたことが要因となり、消火活動中にバランスを崩して転覆したことが指摘されている。なお、生存者の証言によれば船長が真っ先に逃亡したとされる。
横倒しになったRO-RO船 クーガー・エース
  • 2006年(平成18年)7月23日
  • 2006年(平成18年)9月2日未明
  • 2006年(平成18年)10月6日
    • 茨城県鹿島港外にてパナマ船籍の貨物船「ジャイアント ステップ」が急速に発達した低気圧による暴風のため走錨して座礁し船体を切断。10名死亡または行方不明。ほぼ同時・同位置にて、「オーシャンビクトリー」「エリダエース」も座礁し、連続事故となった。同日には、女川港沖でサンマ漁船「第七千代丸」が高波をかぶって機関停止し座礁・横転。16名死亡または行方不明となる事故も発生している。
  • 2006年(平成18年)11月21日
    • 海上自衛隊の練習潜水艦「あさしお」が宮崎県沖で訓練航行中、パナマ船籍の貨物船「スプリング オースター」と接触。「スプリング・オースター」は船底部にわずかな亀裂と少量の浸水を起こし、「あさしお」は縦舵を損傷するも、双方とも負傷者はなかった。なお、 「スプリング・オースター」側は当初、潜水艦との接触したことに気付かなかったという。また、一部の専門家によれば「あさしお」の損傷は『沈没してもおかしくない』ほどであったともされる[12]
  • 2007年(平成19年)1月9日
  • 2007年(平成19年)1月18日
    • コンテナ船「MSC・ナポリ」(英国船籍、MSC社スイス)所有)が英国・デヴォン州沖合いにて、暴風雨の直撃を受け座礁。乗員26名は全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊し航行不能となる。さらに重油の流出および、約50個のコンテナが沿岸に漂着した。
  • 2007年(平成19年)7月6日
  • 2007年(平成19年)7月27日
    • 貨物船「アルファ・アクション」(ギリシャ船籍、7万7千トン)が伊豆諸島利島沖合いにて、夜間の警戒不備により、コンテナ船「ワンハイ307」(シンガポール船籍、2万6千トン、ワンハイ海運(台湾)所有)に衝突。「ワンハイ307」は乗員全員無事だったものの、船尾を損壊し航行不能となり、重油が流出した。「アルファ・アクション」は乗員全員無事だったものの、船首を損壊し航行不能となった(重油流出なし)。
  • 2008年(平成20年)2月19日
    • イージス艦衝突事故。海上自衛隊のイージス艦あたご」がハワイでのミサイル発射実験から帰投途中、千葉県野島崎沖の太平洋上で三宅島北方に向け移動中のマグロ延縄漁船団と交錯したさいに船団の一隻「清徳丸」と衝突、あたごの舳先で清徳丸は両断し沈没。乗員の父子2人が行方不明となった。
  • 2008年(平成20年)3月5日
    • 神戸市垂水区沖の明石海峡付近で、「第五栄政丸」が「オーシャンフェニックス号」に衝突。その後「オーシャンフェニックス号」が「ゴールドリーダー号(ベリーズ船籍)」に衝突し、「ゴールドリーダー号」が沈没。乗組員9人のうち3人が行方不明となった。
  • 2008年(平成20年)6月22日
  • 2008年(平成20年)12月7日 - Hebei Spirit号原油流出事故
    • 韓国・秦安近海に停泊していたタンカー「ホベイスピリット」にサムスン重工業所属のクレーン船が衝突。12,547klの重油が流失し、韓国史上最大規模の海洋汚染となった。原因は、航行中であるクレーン船(を曳航中のタグボート)が、停泊中の船舶(ホベイスピリット)を迂回する義務があるにもかかわらずそれを無視し、近道をしようと「ホベイスピリット」に接近。その後、波浪と曳航ワイヤの破断等によってコントロールを失ったことである。しかし、韓国では「(停泊していた)タンカーに責任がある」とし、インド人の船長と一等航海士に有罪判決を下した。このことから、インドではサムスン製品の不買運動が発生したほか、各国の船員組合が韓国行きをボイコットしようとするなど波紋が広がった。
  • 2009年(平成21年)10月27日
    • 海上自衛隊の護衛艦くらま」が観艦式から帰投途中の関門海峡において、他船を追い越そうとした韓国籍の貨物船「カリナスター号」に衝突され炎上し乗組員6人が軽傷。この事故に関して、関門海峡事務所が事故直前にカリナスター号に出した指示(前方を航行中の船を追い越すことを示唆)と、カリナスター号の操船(海峡通過中にもかかわらず、前方を航行中の船を追い越そうとした)に疑問の声が上がった。
横倒しになったフェリー ありあけ

[編集] 2010年代

[編集] 海難事故に関する創作物一覧

[編集] 映画

タイタニック沈没を扱った作品群についてはタイタニック (映画)を参照。

[編集] ノンフィクション

  • 沈んだ船を探り出せ
アメリカの小説家、クライブ・カッスラーが稼いだ印税を使って沈船の探索を行なった記録。

[編集] アニメ

[編集] コンピューターゲーム

[編集] クラシック音楽

[編集] 脚注

  1. ^ 朝日新聞・昭和38年1月18日朝刊記事
  2. ^ 朝日新聞・昭和38年1月19日朝刊記事
  3. ^ 朝日新聞・昭和38年4月25日朝刊記事
  4. ^ 朝日新聞・昭和39年3月27日記事
  5. ^ 朝日新聞・昭和39年3月31日及び4月4日記事
  6. ^ 朝日新聞・昭和39年3月31日及び4月5日朝刊記事
  7. ^ 朝日新聞・昭和39年5月12日及び14日記事
  8. ^ 朝日新聞・昭和39年5月16日朝刊及び夕刊記事
  9. ^ 朝日新聞・昭和39年6月5日夕刊記事
  10. ^ 朝日新聞・昭和39年8月31日記事
  11. ^ 貨物船尾道丸遭難事件”. 海難審判所. 2011年2月13日閲覧。
  12. ^ 『軍事研究』2007年3月号
  13. ^ フィリピン沖で沈没の大型フェリー、生存者28人を発見 - AFPBB News(2008年6月23日付、2010年8月16日閲覧)
  14. ^ 台風通過中のフィリピンでフェリー沈没、700人超が行方不明 - ロイター(2008年6月22日)
  15. ^ 人数については報道機関によりまちまちとなっている。
  16. ^ 三重県沖、フェリーから救助要請 乗客7人は全員救助 - 47NEWS共同通信社、2009年11月13日付・2010年10月29日閲覧)

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