胡文虎
| 胡文虎 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931)
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| プロフィール | |
| 出生: | 1882年3月14日 (清光緒8年元月25日) |
| 死去: | 1954年9月5日 |
| 出身地: | コンバウン朝ビルマヤンゴン |
| 職業: | 実業家・政治家 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 胡文虎 |
| 簡体字: | 胡文虎 |
| ピン音: | Hú Wénhŭ |
| 和名表記: | こ ぶんこ |
| 発音転記: | フー ウェンフー |
| ラテン字: | Hu Wen-hu (Ho Wen-hu) |
| 英語名: | Aw Boon Haw |
胡 文虎(こ ぶんこ)は中華民国・香港・東南アジアの実業家・政治家。医薬事業では永安堂の店舗・工場を、新聞業では『星洲日報』や『星島日報』などを南洋・中華圏の各地に展開した華僑実業家である。祖籍は福建省汀州府永定県。弟は同じく実業家の胡文豹。
目次 |
事跡 [編集]
医薬事業の展開 [編集]
初めは父が創設した薬局である永安堂国薬行に勤務し、あわせて医術を学んだ。1909年(宣統元年)から中国、日本、タイなどを歴訪し、漢方・西洋の薬学視察を行っている。その後、ヤンゴンに戻って漢方・西洋双方の薬剤師など専門家を多く雇用して新薬の開発に取り組み、永安堂の店舗を南洋各地に展開した。
1912年、華僑合資により『仰光(ヤンゴン)日報』を創刊した。これが胡文虎による最初の新聞社起業である。1914年、シンガポールに永安堂の製薬工場を移転する。さらに南洋だけでなく、香港へと進出し、後には上海など内陸や台湾にも次々と永安堂の店舗・工場を進出させた。1923年、永安堂総行(本店)をシンガポールに移した。
1928年、シンガポールの華僑中学董事長(理事長)となる。同年11月には、豫陝甘賑災委員会委員にも任ぜられた。翌1929年1月、胡文虎はシンガポールで『星洲日報』を創刊し、董事長に就任している。同年には、私立大夏大学と国立中山大学にそれぞれ資金提供を行った。
国民政府参加と新聞事業の発展 [編集]
1930年(民国19年)秋、南京入りし、中央医院に資金提供して設備拡充に寄与している。翌年7月、汕頭で『星華日報』を創刊した。1932年(民国21年)1月、国民政府から国難会議会員に任ぜられ、ここから政治家としての活動も開始する。同年4月には、行政院僑務委員会委員に任ぜられた。
1935年(民国24年)9月、胡文虎は廈門で『星光日報』を創刊し、翌月には私立福建学院と廈門大学に資金提供を行っている。1938年(民国27年)6月、第1期国民参政会参政員に選出され(第2期でも連続選出)、8月、香港にて『星島日報』を創刊した。同年には、イギリス王ジョージ6世から大英帝国勲位を授与されている。
その後も南洋で次々と新聞を創刊したが、1941年(民国30年)12月に香港が陥落した際に、胡文虎は日本軍により一時拘束されてしまった。しかし、まもなく釈放されて香港に留まり、『星島日報』が一時発行停止に追い込まれたものの、胡は『香島日報』に改題して刊行するなど新聞業を継続している。1944年(民国33年)、マカオに移った。
戦後、胡文虎は香港に戻る。以後、胡はさらに新聞事業をさらに積極的に展開し、香港・上海・福州などで新規の新聞を創刊した。さらに英文紙も新たに創刊している。1950年1月には、タイで『星暹日報』を創刊した。胡は以上のような新聞業だけでなく、自身の出発点であった医薬事業も継続しており、さらに教育・体育事業や医院・孤児院等への資金提供も大規模に行っている。
1954年9月5日、ハワイ州ホノルルにて病没。享年73(満72歳)。
参考文献 [編集]
- 徐友春主編 『民国人物大辞典 増訂版』 河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編 『中国国民党百年人物全書』 団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 東亜問題調査会 『最新支那要人伝』 朝日新聞社、1941年。