耿純

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耿 純(こう じゅん、? - 37年)は後漢の武将。字は伯山(はくざん)、鋸鹿郡宋子の人(『後漢書』列伝11・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の13位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

目次

[編集] 略歴

[編集] 挙兵

姓名 耿純
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 37年建武13年)
字・別号 伯山(字)
本貫・出身地等 冀州鉅鹿郡宋子県
職官 納言士〔新〕→騎都尉〔更始〕

→前将軍〔劉秀(後漢)〕
→東郡太守〔後漢〕
太中大夫〔後漢〕
→東郡太守〔後漢〕

爵位・号等 耿郷侯〔劉秀〕→高陽侯〔後漢〕

→東光侯〔後漢〕→東光成侯〔没後〕

陣営・所属等 王莽更始帝光武帝(劉秀)
家族・一族 父:耿艾 子:耿阜

一族:耿訢〔従兄弟〕 耿宿〔従兄弟〕
耿植〔従兄弟〕

父の耿艾は済平尹(新制における定陶郡太守)となり、耿純は長安に学び、納言の士(新制における尚書)となる。王莽が敗れて更始帝が立つと、更始帝は配下の李軼を遣り、耿艾もこれに降り済南太守となった。耿純は李軼に諫言することがあり、李軼は耿純が使える人物と思い、鋸鹿の豪族の出であるので騎都尉とし、を帰順させようとした。行大司馬劉秀が河北に渡り邯鄲に至るにあたり、耿純は宋子より到りて謁見し、劉秀は丁重に扱った。他の更始帝の将と異なり、劉秀の兵士の規律が整っているのを見て、耿純は劉秀と結びつこうと貢物を献じた。劉秀は耿純を邯鄲に残して中山に向かったが、更始1年(23年)12月、群雄の王郎が挙兵する。王郎は劉秀に賞金を賭け、耿純らにも追討を掛けるが、耿純は邯鄲を脱出し、宋子へ戻り、劉秀を探して盧奴にいると知ると、従兄弟たちと盧奴に向い、王郎の挙兵を告げた。劉秀は一旦北上して薊に進み、耿純は南に戻る。劉秀は騒乱する薊を南下し、苦難の末、ようやく迎え受けてくれる信都郡に入った。一方、耿純は従兄弟の耿訢、耿宿、耿植らと共に一族郎党を率いて、育県にて劉秀を迎え奉じる。劉秀は耿純を前将軍として侯位を授け、耿訢、耿宿、耿植を偏将軍とした。劉秀らは宋子を降し、耿純らは従いて下曲陽及び中山を攻めた。

[編集] 戦歴

劉秀は王郎の将李育の砦す栢人県を攻めるが落せなかった。栢人を攻めるより鋸鹿を攻めるべしの進言に従いて、劉秀は鋸鹿県を囲むが、太守王饒は固守し数十日しきりに攻めるも勝てずにいた。耿純は説きて曰く「いつまでも王饒の攻撃に固着するならば、兵士は疲弊してしまいます。そうではなく、大兵の精鋭たるを以って進んで邯鄲を攻めるべし。王郎誅すれば王饒は戦わずして、自ずから投降致しましょう」。劉秀、この言や善しと、即ち鄧満を守将として残すと、邯鄲を攻め、ついにはこれを破り、王郎を斬った。更に耿純は劉秀に従いて銅馬を撃った。更始帝軍と正面から戦うことになった故、諸将は劉秀に都度都度即位を促すが、劉秀は肯んじない。中山に至って、諸将再びこの議を上奏するが劉秀は受けない。諸将が退出しようとしたところ、耿純は進んで諫言し[1]、耿純の意見が甚だ誠実なれば、劉秀は深く感じて「我このことを考えん」と答えた。

[編集] 後漢の元勲に

建武1年(25年)、光武帝は即位し、耿純は劉永を済陰に撃ち、定陶を降した。光武帝の陣営である真定王劉楊(揚)[2]は予言の書[3]を捏造し、衆を惑わせんと欲した。

建武2年(26年)春、光武は騎都尉陳副と游撃将軍鄧隆を遣わして劉楊を召すが、応じない。そこで、光武は耿純に節を持たせて遣わし、各王侯を労いさせ、密かに「劉楊が謁見するようであれば、これを捕えよ」と命じた。結局、耿純は、劉楊が挙兵する前に謀殺した[4]。耿純は京師に帰ると、自分は将となり侯位を受たが、元々は官吏の出であり、天下は粗方定まりたればと、自ら一郡を治めることを請うた。光武帝は耿純を東郡太守と為す。その時、東郡は平がざるも、耿純が就きて数月にして盗賊は沈静化した。また、更始帝の東平郡太守に、泰山済南平原の賊を平らげた。勤めたること4年、取調べたる者が、奏が降りる前に自殺した事を罪に問われ太守を罷免された。

建武6年(30年)、東光侯と為り国に就いた。

建武8年(32年)、東郡に盗賊が決起したので、光武帝は耿純を太中大夫と為し大軍と共に東郡に会せしめた。すると盗賊九千余人、耿純が来たと聞くや、皆な耿純に降り、大軍は戦わずして帰った。光武帝は耿純をそのまま東郡太守と為し、役人民衆は耿純に服した。

建武13年(37年)、在職のまま卒す。謚は成侯。

[編集] 人柄・逸話

  • 耿純が薊から南下した劉秀についた時、邯鄲の王郎に降る郡県は多かった。耿純は一族の寝返りを恐れて、耿訢、耿宿を戻らせ、その屋敷を焼かせた。劉秀が耿純にその故を問うと、耿純は答えて「密かに見ますに、明公はたった一台の車で河北に臨み、蓄財もなく、重賞好餌で衆を集める人ではありませぬ。只、恩徳を以って衆を懐けさせ、これゆえに衆は就かんことを願う。邯鄲は自立し、北部州は疑い惑う。我は一族を挙げて帰順したといえども、郎党に心半ばとする者有らん事を恐れます。故に屋敷を焼いて、後ろ髪を引かれん思いを断つのみ」。劉秀は心打たれて歎息した。
  • 射犬郷に赤眉、青犢、上江、大彤、鉄脛、五幡の流賊の十余万人が集まった時、劉秀はこれを討たんとし、耿純はその前衛であったので、夜間に賊に攻められた。矢は雨の如く降り、兵士の多くが死傷した。耿純は部隊を統率し、堅く守って動かず。次に二千人の決死隊を選び、一緒に強弩を持ちてそれぞれ三矢をつがえ、枚をふくんで(兵が喋ることないように)、こっそりと抜け道を通って賊の後ろに出、声を上げさせ、強弩を発せさせれば、賊は驚き逃れようとし、これを追撃して遂には破った。
  • 東郡太守を罷免された後、光武帝が董憲を撃った後の帰途に従いて、途中東郡を通りたれば、民衆の老若数千人、天子の車駕に随いて涙して曰く「願わくは、耿君を復た太守に得んことを」。光武帝はこれを聞いて「耿純は年少にして甲冑をつけて兵士となっただけ。郡を治めて良く慕われることかくの如きか」と言った。
  • 耿純の従兄弟、耿植は輔威将軍と為り武邑侯に封じられ、耿宿は代郡太守と為り遂郷侯に封じられ、耿訢は赤眉将軍と為り著武侯と封じられて、鄧禹に従いて西征するも戦死した。

[編集]

  1. ^ 天下の兵士将軍たちが、親類縁者を棄て、生まれ育った土地を棄て、大王に従軍するは、それ、龍鱗に攀じ登り、鳳凰の翼にすがりて、その志を成し遂げようと望むからです。今、大王の功業は定まり、天命も人望も応ずるというのに、大王はぐずぐずと衆人の意向に逆らって御即位なされぬ。耿純が恐れるのは、兵士将軍たちはその望み潰えたれば、即ち、故郷に帰らんと思い、労苦を続けようとは思わなくなることです。大兵一度散ずれば、また合わさること難しき。ぐずぐずなさらず、衆意には逆らうべからず。
  2. ^ 『漢書』の記述に拠る、『後漢書』では劉揚と記述。
  3. ^ 「火徳の九代目(すなわち光武帝)の後、首に瘤ある揚(すなわち劉楊)、主公と為る」
  4. ^ 耿純は役人百騎ほど連れて陳副と鄧隆と共に真定の伝舎に止まるが、劉楊は病と称して謁見しない。耿純は劉楊の甥であったので、使者に書を託し、面会せんとすならば伝舎に出ずべしと伝える。劉楊は子の劉得、弟の新昌侯の劉広・臨邑侯の劉譲と従弟の劉細、各々兵数万人を擁して伝舎に赴いた。劉楊は多勢を頼むが、耿純は動揺しなかった。劉楊はまず一家・親衛兵を門外に置き、自分は耿純に見える。耿純は敬礼を持って接する故、劉楊は安心し、招きに応じた。その全員が入るや、耿純は内門を閉じ、伏兵を繰り出し、劉楊以下すべてを誅殺した。
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