習仲勲
| 習仲勲 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 1913年10月15日 |
| 死去: | 2002年5月24日 |
| 出身地: | |
| 職業: | 政治家 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 習仲勳 |
| 簡体字: | 习仲勋 |
| ピン音: | Xí Zhòngxūn |
| 和名表記: | しゅう ちゅうくん |
| 発音転記: | シー チョンシュン |
習仲勲(しゅう ちゅうくん)は中華人民共和国の政治家。八大元老の一人。現政治局常務委員、国家副主席である習近平の父。1928年中国共産党入党。
[編集] 経歴
日中戦争期間中は陝西省、甘粛省など西北地区で革命根拠地を作るなど、長期にわたり西北地区の党、政、軍の工作の中心人物となった。1949年11月30日、中共中央軍事委員会の決定により、第1野戦軍と西北軍区が統合され、中国人民解放軍第1野戦軍兼西北軍区に改称された時、彭徳懐が司令員、習仲勲が政治委員となった。同年10月の中華人民共和国成立後は、1952年に党中央宣伝部長、1953年に国務院秘書長、1959年には、国務院副総理兼秘書長と要職を歴任した。その間、1945年の第7回党大会で候補中央委員、1956年の第8回党大会で中央委員となる。しかし、1962年9月の第8期十中全会で反党小説劉志丹事件が持ち上がり、康生を主任とする審査委員会が発足、半年後に反党集団として党内外の全職務を解任された。その後、文化大革命終了2年後の1978年まで16年間も拘束されるなど残酷な迫害を受けた。
1978年4月には広東省党委第二書記として復活し、その後、第一書記、省長(1979年)、広州軍区第一政務委員(1980年)と広東省の党、政、軍の中心人物となった。文化大革命以前に広東省書記だった趙紫陽同様、香港への密航者が後を絶たないことに衝撃を受け、広東省の経済発展を進め党中央工作会議で税制面で経済特区構想を提起した。深セン市は1980年5月に正式に経済特区として承認された。
1978年12月の第11期3中全会で名誉回復し、中央委員に選出される。1980年には全人代副委員長、法制委員会主任。1981年6月の第11期6中全会で中央書記処書記となり、第12期1中全会で政治局委員、中央書記処の日常業務を担当。
1988年4月、第7期全人代常務委員会副委員長。1993年退任。
2002年5月24日、北京で病死。
中国共産党第7期中央候補委員、第8期中央委員。第12期中央政治局委員。
[編集] 家族
- 長女 齊橋橋 - 北京中民信房地産開発有限公司董事長
- 長男 習近平 - 中華人民共和国副主席
- 次男 習遠平 - 国際節能環保(省エネ環境保護)協会会長
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