義忠

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義忠(ぎちゅう、文明11年(1479年) - 文亀2年8月5日1502年9月6日))は、戦国時代初期の天台宗僧侶足利義視の子で室町幕府将軍足利義材の異母弟。なお、『系図纂要』では「義仲」と記載されている。

略歴[編集]

幼くして出家して実相院に入った。兄・義材が追放された明応2年(1493年)の明応の政変以後も京都に留まることを許され、翌明応3年4月21日には近衛政家猶子の身分が与えられて新将軍足利義澄の下に出仕している。ところが、文亀2年8月4日、義澄が管領細川政元との対立から突如「隠居」を宣言して実相院に近い金龍寺妙善院)に引き籠ってしまった。翌日、義澄の見舞いのために金龍寺を訪れた義忠は突如、警備をしていた政元の配下の兵によって捕えられ、近くの阿弥陀堂で殺害された。

政家の日記『後法興院記』文亀2年8月6日条によれば、義澄が金龍寺に籠った直後に翻意を促すために同寺を訪れた政元に対して、義澄が示した将軍職復帰のための5条件の中に義忠の処刑があったとされている。

これについては2つの可能性が考えられる。1つは、当時京都復帰と将軍職奪回を目指して活発に軍事行動を繰り広げる義材の攻勢に悩まされていた義澄が、京都にいる幕府内外の反対派が義忠を擁して義材と連携する可能性を恐れたというものである。もう1つはこの頃、将軍として自ら政務を行おうとする義澄とこれに反発する政元の確執が激しくなり、かつて義材を廃して義澄を新将軍に擁立した明応の政変と同じようなクーデターが、今度は義澄を廃して義忠を新将軍に擁立するという形で発生する可能性があったためというものである。これは義澄自身も政変前は天竜寺の僧侶であったこと、義忠が将軍に立てられた場合には、政元と新将軍義忠の数少ない身内(兄)である義材の間で和議を行う名目が立つという点でも考えられるものであった。いずれにしても、義澄にとって義忠は自己の地位を脅かす存在となっており、その抹殺の必要性があったと見られている。そして、義澄と政元は以後も度々対立したものの、義忠の殺害によって次期将軍候補の切り札を失い、かつ義材派から完全に敵視される状況となった政元は義澄を廃して新たな将軍候補を立てることも義材派と和解することも出来なくなり、その政治的選択肢を狭める一方で、義澄の将軍としての地位は一応の安定を得ることになった。

参考文献[編集]

  • 山田康弘著「文亀・永正期の将軍義澄の動向」(所収:『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館、2000年) ISBN 978-4-642-02797-7 第三章) P89-91