織田秀敏

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織田 秀敏[注釈 1]
織田秀敏
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄12年10月16日1569年12月4日[1]
別名 七郎[2]、七十郎[3]
戒名 高岩勲公庵主[1]
官位 玄蕃允[注釈 2]
主君 織田信秀信長
氏族 織田氏
父母 父:織田豊後守?、織田敏定?[4][3]
与三郎、津田秀重、愚門[注釈 3][5][2]
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織田 秀敏(おだ ひでとし)[注釈 1]は、戦国時代武将尾張国戦国大名織田氏の一族。

系譜[編集]

戦国時代以前の織田氏の系譜には系図資料と歴史学上の推定に相違があり、また天童藩織田氏の系図にも秀敏の名は見られないが、『寛永諸家系図伝』及び秀敏の子孫である津田氏の系図は尾張守護代を務めた織田敏定を父としている。敏定の家は戦国時代以降清洲城に住んだが、秀敏は織田氏別家が支配していた岩倉に住んだという。孫の秀政滝川一益豊臣秀吉徳川家康に属し、その子孫は美濃3000余石の旗本となった[4][2]

一方で『南溟和尚語録』に天文5年(1536年10月28日に57歳で没した愛知郡中村の稲葉地城主で、織田信秀の叔父にあたるという織田(津田)豊後守の香語を載せるが、秀敏はこの豊後守の子であるという。秀敏には子に桶狭間の戦いで戦死したという与三郎、孫に本能寺の変織田信忠に殉じた小藤次がおり、子孫は依然中村に住んだという[6][5][7]

生涯[編集]

秀敏は尾張に台頭した織田信秀に仕え、愛知郡の中村方三郷の知行を許されていた。信秀没後の天文21年(1552年)信秀の跡を継いだ織田信長から中村領の安堵を受けている[8]。また同年、信長と同盟を結んでいた美濃国斎藤道三から、動揺する織田家中の調停を依頼されており、織田一門の長老として信秀の後を継いだばかりの信長の後見人を任せられていることが窺える[9]

今川氏の勢力が尾張東部に伸長すると信長は牽制のために諸砦を築かせたが、秀敏は飯尾定宗尚清父子とともに大高城を囲む鷲津砦に配置された。永禄3年(1560年今川義元が尾張へ侵攻し、5月18日に鷲津砦が今川軍の攻撃を受けると清洲城の信長のもとへ注進し、翌日早朝に清洲城へ着到した。これらの報に接した信長はすぐさま出陣して今川義元を討ち取ったが、先だって鷲津砦は陥落している(桶狭間の戦い[10]。戦後は今川方より奪取された沓掛城に置かれ、三河岡崎城にあった今川方の松平元康勢としばしば戦ったが、翌永禄4年(1561年)には織田氏と松平氏は和睦した[11]

信仰上では臨済宗妙心寺派の僧侶で熱田竜珠寺開基の南溟紹化に帰依しており、永禄4年(1561年)快川紹喜が南溟に充てた書状中に、南溟の有力な檀越として熱田の加藤延陸とともに名が挙げられている[6]

TVドラマ[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 後世の編纂物では実名を信平とするものが多い。
  2. ^ 系図類は玄蕃頭とするが、一次史料上では玄蕃允が正しい。
  3. ^ 哲侍者。龍安寺住職

出典[編集]

  1. ^ a b 『愛知郡誌』, p. 738.
  2. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』, p. 203.
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, p. 167.
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, § 津田.
  5. ^ a b 『愛知郡誌』, pp. 737–738.
  6. ^ a b 横山 1993, pp. 4–5.
  7. ^ 『戦国史料叢書』, p. 386.
  8. ^ 鳥居 1996, p. 8.
  9. ^ 横山 1993, p. 5.
  10. ^ 『戦国史料叢書』, pp. 52–54.
  11. ^ 『松平記』, § 巻一.

参考文献[編集]

  • 横山住雄 著「熱田・加藤氏と臨済宗妙心寺派の発展」、名古屋郷土文化会 編『郷土文化』 48巻、名古屋市博物館、1993年。 
  • 鳥居和之 著「織田信秀の尾張支配」、名古屋市博物館 編『名古屋市博物館研究紀要』 19巻、名古屋市博物館、1996年。 
  • 愛知郡 編『愛知県愛知郡誌』千秋社、1999年。 
  • 『戦国史料叢書』 2巻、中村孝也(監修)、人物往来社、1965年。 
  • 寛永諸家系図伝』斎木一馬・林亮勝橋本政宣(校訂)、八木書店古書出版部、2014年。ISBN 978-4-8406-3595-0 
  • 寛政重修諸家譜』 8巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0212-3 
  • 『松平記 徳川合戦史料大成』日本シェル出版、1976年。