緊急避難

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緊急避難(きんきゅうひなん)とは、緊急事態に際して取られる行動のことを言う。本稿では特に法律用語としての緊急避難を中心に解説する。

一般用語としての緊急避難[編集]

一般用語としての緊急避難は、災害時などに安全な場所へ退避することをいう。自治体が指定する「緊急避難場所」などがその使用例である。また、やむを得ずに、とりあえずの措置として行われるもののことを緊急避難という言葉で表すことがある。例えば、「緊急避難的な措置として…」といった具合である。

法律用語としての緊急避難[編集]

法学における緊急避難とは、急な危険・危難を避けるためにやむを得ず他者の権利を侵害したり危難を生じさせている物を破壊したりする行為であり、本来ならば法的責任を問われるところ、一定の条件の下にそれを免除されるものをいう。刑法民法国際法においてそれぞれ意味が異なるので、以下、個別に解説する。

刑法上の緊急避難[編集]

刑法における緊急避難は、人や物から生じた現在の危難に対して、自己または第三者の権利や利益(生命、身体、自由、または財産など)を守るため、他の手段が無いためにやむを得ず他人やその財産に危害を加えたとしても、やむを得ずに生じさせてしまった損害よりも避けようとした損害の方が大きい場合には犯罪とはならない(違法性が阻却される[1])というものである。日本では刑法37条1項本文に規定されている。

もしも生じてしまった損害が避けようとした損害よりも大きければ情状によって刑が減免されうるに過ぎない。これを過剰避難(かじょうひなん)といい、同項但書に規定されている。

以下、緊急避難の概念を、具体例を挙げて説明する。

  1. Aが道を歩いていると、鉄パイプを持った暴漢に突如襲われた。Aは逃げたが追いつめられ、やむを得ず赤の他人であるBの家へ無断で侵入し、ここに隠れて難を逃れた。
  2. 心臓発作を起こし路上で倒れたB。通りかかったAが救急車を呼ぶ一方で閉胸心臓マッサージを施したが、余りに強く押したのでBの肋骨にひびを入れてしまった(応急処置)。
  3. 大津波から逃げる為、荷台が空のトラックを運転していたCが、低地から徒歩で逃げる人々を次々に荷台に載せ高台へと走行し続けた。

例1におけるAの行為は通常ならば住居侵入罪として、また例2におけるAの行為は過失傷害罪として罰せられる。しかしこれらの行為は、生命身体という正当な利益が危険に晒されており、その危険を回避する手段が他に無いためやむを得ずしたものである。そして、生命身体への侵害を回避したことによって生じる損害の方が小さいか少なくとも同等であるので、Aの行為は緊急避難であるとして犯罪にはならないこととなる。

同様にCの行為は、空の荷台への人の乗車のため、通常ならば道路交通法により罰せられる。しかしこれらの行為は、大津波の襲来という極めて危険かつ時間的な余裕の無い状況から、自分や他人の生命の危機を回避する手段が他に無かった為やむを得ずしたものであるため、Cの行為は緊急避難であるとして犯罪にはならないことになる(尚、この例は東日本大震災で実際にあった事である [2])。 この緊急避難と似た概念として正当防衛がある(日本の刑法36条1項)。正当防衛も緊急避難も、本来なら処罰される不正な行為であっても一定の理由がある場合には例外として刑事責任を問われない、という点は共通している。しかし以下のように異なる点もある。

まず緊急避難は危険を回避するために他の手段が無く、やむを得ずした行為でなければならない。これを補充性の要件という。上記1の例で考えてみる。仮に交番がすぐ近くにあってそこへ逃げ込むことができたのに敢えて暴漢に立ち向かったとする。この場合、正当防衛が成立する余地はある。しかし交番へ逃げ込むという他の手段があるのに敢えてBの家に上がり込んだのであれば緊急避難は成立しない。

また、危険が回避されたことで得られた利益とそれによって侵害されてしまった利益を比較することが要件になっているのも正当防衛にはない特徴であり、これは法益均衡の要件といわれる。例えば子犬に追いかけられただけなのに他人の家へ勝手に上がり込んで難を逃れるというのは緊急避難とはならない(但し犬嫌いの人もいる事から、過剰避難として情状が考慮される余地はある)。

このように、一般にいって緊急避難の方が正当防衛よりも成立するための要件が厳しい。これは緊急避難が利益侵害とは無関係の者の利益を犠牲にして危険を回避する制度である点に起因する。ここに正当防衛と緊急避難の本質的な差異がある。以下の例でその点を説明する。

  1. Aが道を歩いていると、突然日本刀を持った暴漢が襲いかかってきた。そこでAは空手を駆使して反撃し、これを撃退した。
  2. Aが道を歩いていると、突然日本刀を持った暴漢が襲いかかってきた。ひ弱なAは立ち向かうことができず、近くにあったBの家に逃げ込もうとした。しかしBは不在だったので勝手に屋内へ侵入して電話を使い、警察へ通報して難を逃れた。

Aの行為は、1では正当防衛、2では緊急避難であるとして犯罪は成立しない。1の例のように、正当防衛は侵害者の違法な侵害行為に対して直接反撃することより生命身体や財産などの正当な権利を防衛するものである。言い換えれば、侵害行為と防衛される利益の間には「不正」対「正」という関係がある。これに対して2の例のような緊急避難は、侵害とは関係のない第三者に対して損害を転化することで危難を回避し、正当な権利への侵害を免れるものである。ここでは緊急避難行為によって侵害される権利と緊急避難行為によって危難から逃れた権利はどちらも正当なものであるから、両者には「正」対「正」の関係があるといえる。であればこそ緊急避難を容易に認めるべきではなく、正当防衛よりも要件が厳しくなっているのである。

また、正当防衛の前提である「不正の侵害」は人間でなければすることができないと考えられているため、例えば襲ってきた飼い犬を撃退した場合には正当防衛ではなく緊急避難の問題となるとされている(いわゆる対物防衛の問題)。

なお、日本の刑法上の緊急避難には、「前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。」(刑法37条2項)と言う規定もある。警察官自衛官消防吏員は、危険を前にしてもぎりぎりまで踏み留まり、市民が退いたのを確認した上で避難する義務があるのである(その代償として万一の場合は殉職となる)。

民法上の緊急避難[編集]

日本の民法における緊急避難は、他人の物によって生じた急迫の危難に対して、自己または第三者の権利を防衛するためにその物を毀損する行為については不法行為による責任を問わないというものである。民法720条2項に規定がある。

例えば、他人の飼い犬(生物であるが民法上はあくまで「物」として扱われる)が暴走して襲ってきた場合にこれを撃退する、のが民法上の緊急避難である。他にも、今にも崩れそうなブロック塀がある場合に所有者の確認をとらないままこれを取り壊してしまう行為などが緊急避難にあてはまる。

なお、正当防衛は民法にも規定されている(民法720条1項本文)。両者の違いは、正当防衛が「他人の不法行為」に対する防衛であるのに対して、緊急避難は「他人の物から生じた急迫の危険」に対する防衛であることである。つまり、正当防衛は他人の行為からの防衛であり、緊急避難は他人の所有する物からの防衛が問題となる。例えば、暴漢から逃れるため他人の家の門を壊して敷地内へ逃げ込んだ場合、刑法上では緊急避難の問題となるが、民法上は正当防衛の問題となる。

なお、被害者(飼い犬の権利者)から不法行為者(飼い犬をして襲わしめる事につき責任のあるもの)への損害賠償請求を妨げない(720条1項但書、同条2項)。例えば、持ち主Aから飼い犬を預かって散歩に連れて行ったCが、過失により犬を放してしまい、結果犬がBを襲ったため、やむをえずBが犬を撃退した場合、AはBではなくCに対して損害賠償請求をする事ができる。

国際法上の緊急避難[編集]

国際法における緊急避難(necessity)とは、国家が重大かつ急迫の危険から自国にとって本質的な利益(essential interest)を保護するために国際法違反の措置が講じられたとしても、他に手段が無く相手国に本質的な利益に対する重大な侵害が発生しないならば例外的に適法とされる行為のことをいう。これは国際慣習法上認められた違法性阻却事由である。緊急避難が必要となる状態のことを緊急状態(state of necessity)という。

このことは、国際司法裁判所(ICJ)の「ガブチコヴォ・ナジュマロシュ計画事件」判決(1997年 ガブチコヴォ(ハンガリー)とナジュマロシュ(チェコスロヴァキア)に跨る水門を建設するため締結された条約に関しての紛争)において確認されている。

また、国際連合国際法委員会(ILC:International Law Commission)が国家責任に関する国際慣習法の法典化を推進しており、そこで2001年に採択された「国際違法行為に対する国家責任(Responsibility of States for internationally wrongful acts)」条約案の25条にも緊急避難に関する規定があり、上記判決もこの条文を緊急避難が可能となる要件について述べる際に引用している。

脚注[編集]

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  1. ^ 責任が阻却されるとする説もある
  2. ^ ダンプ疾走、30人救う 仙台で土建業の男性ら47News 2011年4月6日

関連項目[編集]