細山田武史
| 横浜DeNAベイスターズ #36 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 鹿児島県出水市 |
| 生年月日 | 1986年4月29日(25歳) |
| 身長 体重 |
179cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手 |
| プロ入り | 2008年 ドラフト4位 |
| 初出場 | 2009年4月4日 |
| 年俸 | 1,700万円(2012年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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細山田 武史(ほそやまだ たけし、1986年4月29日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手(捕手)。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] プロ入り前
小学校時代に野球を始め、5年生の時にたまたま休んでいた正選手の代わりを務めたことがきっかけで捕手になる[1]。
鹿児島城西高等学校を卒業後、早稲田大学スポーツ科学部に進学。捕手出身の應武篤良監督の英才教育もあり、2年秋にはレギュラーの座を確保。2007年春季リーグ戦では首位打者に輝き[2]、4季連続ベストナインに選ばれるなど、中心選手として活躍。3年時に入学してきた斎藤佑樹ともバッテリーを組んだため、“斎藤佑樹の恋女房”と報道される機会も多く、斎藤も細山田に厚い信頼を寄せていた。社会人野球を経て横浜入りする須田幸太とは大学の同級生であった。リーグ通算70試合出場、214打数60安打、打率.280、1本塁打、32打点。
4年生になった2008年には、第4回世界大学野球選手権日本代表に選出される。この大会でも、斎藤とバッテリーを組む機会が多かった。打撃面でも予選リーグ2戦目の対カナダ戦で、延長にサヨナラ犠飛を放つ活躍を見せた[3]。
この年の秋にドラフト会議で横浜ベイスターズから4位指名を受け入団。契約金5500万円、年俸1000万円(金額は推定)。同期には世界大学野球選手権でチームメイトだった山崎憲晴と松本啓二朗がいた。
[編集] プロ入り後
2009年、新人ながら同期入団の松本啓二朗、山崎憲晴とともに開幕1軍入りを果たす。4月8日の対読売ジャイアンツ戦でプロ初安打となる中越え二塁打を放つが、工藤公康とのバッテリーは5回で8失点、4被本塁打という結果に終わった[1]。その後しばらくはFAで移籍してきた野口寿浩がマスクを被っていたが、野口は捕逸や許盗塁が多く、年齢的な衰えが顕著だったため、4月の後半からは再び細山田が起用される。5月8日と9日の阪神タイガース戦では連続完封に貢献し、主にリード面で三浦大輔やライアン・グリンら投手陣や首脳陣の信頼を勝ち取るようになる[1]。競争相手の野口が降格したこともあり、細山田が事実上の正捕手となった。
5月18日から無期限休養となった大矢明彦に代わって、湘南シーレックスの田代富雄が指揮を執るようになると、新沼慎二と武山真吾の起用機会も増え始め、捕手は細山田を含む三者の併用になった。9月9日に怪我から復帰した新沼と入れ替る形で二軍に降格し、負傷もあってシーズン終了まで再昇格はならず。この年の横浜捕手陣では新人の細山田の出場機会が最も多かった。
2010年は、武山や千葉ロッテマリーンズから移籍してきた橋本将とともに正捕手争いに挑んだが、出場試合は前年より大きく落ち込んだ。
2011年は、二軍キャプテンに任命されたものの開幕を1軍で迎える。前半戦は武山や新沼、後半戦は黒羽根利規と併用される。最後まで二軍に降格することは無く、横浜捕手陣最多の84試合に出場した。打撃面では打率が初めて2割台に乗り、プロ入り初本塁打や藤川球児からのサヨナラヒットを打つ[4]など進歩を見せた。この年の勝利打点4はチーム3位の数字だった。しかし、守備面ではセ・リーグで規定試合数に達した6人の捕手の内、盗塁阻止率が.188とリーグ最下位に終わるなど課題が残った[5]。
[編集] プレースタイル
遠投120mの強肩。守備面・リード面の評価は高く、福澤洋一は「捕手の理論をうち(ベイスターズ)で最も理解しているのは細山田」と言うほどである。
打撃ではスイングはそれなりの速さを誇っているが、初球から積極的に打ちに行かず、追い込まれて最終的に凡打という打席が多いため、現状では試合終盤のチャンス時に代打を出されることも多い。
[編集] 人物
明るい性格で、大学のチームメイトで、同じ横浜に入団した松本啓二朗曰く「誰とでも仲良くなれるタイプ」と評されている。彼とは、早大の受験場で初めて会話を交わした人物で、一緒にゲームをするなど非常に仲が良い。
早稲田大学在学中に、入団当時の横浜監督であった大矢明彦の著書、「大矢明彦的「捕手」論」を読み、配球面などをリーグ戦の参考にしていたそうで、非常に役に立ったと語っている。それ以来、大矢をとても尊敬し、細山田自身も「大矢監督の分身としてグランドに立てるように頑張っていきたい」と語っている[6]。
横浜入団後の打席入場曲は鳥羽一郎の「兄弟船」。「亡き父が好きだった曲」という理由で決めたという。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2009 | 横浜 | 88 | 203 | 177 | 9 | 28 | 7 | 0 | 0 | 35 | 11 | 0 | 1 | 11 | 0 | 13 | 2 | 2 | 51 | 4 | .158 | .224 | .198 | .422 |
| 2010 | 19 | 33 | 32 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 6 | 0 | .094 | .121 | .125 | .246 | |
| 2011 | 84 | 157 | 130 | 5 | 27 | 3 | 0 | 1 | 33 | 11 | 0 | 0 | 13 | 1 | 8 | 1 | 5 | 54 | 1 | .208 | .278 | .254 | .532 | |
| 通算:3年 | 191 | 393 | 339 | 15 | 58 | 11 | 0 | 1 | 72 | 23 | 1 | 1 | 24 | 1 | 22 | 4 | 7 | 111 | 5 | .171 | .236 | .212 | .448 | |
- 2011年度シーズン終了時
[編集] 記録
- 初出場:2009年4月4日、対中日ドラゴンズ2回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に捕手として途中出場
- 初安打:2009年4月8日、対読売ジャイアンツ2回戦(横浜スタジアム)、5回裏に福田聡志から中越二塁打
- 初先発出場:2009年4月9日、対読売ジャイアンツ3回戦(横浜スタジアム)、8番・捕手として先発出場
- 初打点:2009年4月26日、対東京ヤクルトスワローズ5回戦(明治神宮野球場)、1回表に由規から押し出し四球
- 初盗塁:2010年4月17日、対阪神タイガース5回戦(横浜スタジアム)、6回裏に二盗(投手:上園啓史、捕手:城島健司)
- 初本塁打:2011年9月28日、対読売ジャイアンツ19回戦(横浜スタジアム)、7回裏に福田聡志から左越ソロ
[編集] 背番号
- 36 (2009年 - )
[編集] 脚注
- ^ a b c 「SPECIAL INTERVIEW 細山田武史」 『週刊ベースボール』2009年6月1日号、ベースボール・マガジン社、2009年、雑誌20441-6/1、10-13頁。
- ^ 首位打者・細山田武史インタビュー
- ^ なお、この7月の大会中に父親を癌で亡くし、監督からも日本への帰国を打診されていたが「帰国して線香を上げたところで、親父は喜ばない」とチーム帯同を強く志願。サヨナラ犠飛には「親父に打たせてもらった」とコメントした。
- ^ 細山田 球児からサヨナラ打!尾花監督「頑張ってきたご褒美」
- ^ “DeNAでバッテリー賞選考基準超え山口だけ”. スポニチ Sponichi Annex (2011年12月14日). 2012年1月20日閲覧。
- ^ 【特集】上本、細山田、松本啓 プロへの決意語る - wasedasports.com
[編集] 関連項目
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