紫雲丸

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紫雲丸(しうんまる)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営する鉄道連絡船宇高連絡船で使用されていた船舶である。

1950年(昭和25年)と1955年(昭和30年)の2度にわたり衝突事故により沈没し、どちらも死者を出した。特に1955年の事故は死者168名を出し、国鉄戦後五大事故の一つに挙げられる大惨事となった。いずれものちに引き揚げられて復旧されている。詳しくは紫雲丸事故を参照。

建造の目的[編集]

輸送量の増大していた宇高航路では、1936年に青函航路に準じた本格的な車両航送システム導入を決定し、車載客船の発注までしていた[1]が、戦争のため中断。1942年7月の関門トンネル開通で余剰になった第一~五関門丸の転属で応急対応していた。しかし、戦後も増大する輸送需要に対応するため、上記車両航送システム導入計画を復活し、1947年から1948年までに本格的な車両航送が可能な1400総トン級の車載客船3隻を就航させ、対応する大型の可動橋などの水陸連絡設備完成を待って1949年3月から車両航送を開始した。

「紫雲丸」はその3隻の中で最初に竣工した船舶である。1947年(昭和22年)7月6日に就航した。その後、同型の「眉山丸」「鷲羽丸」も竣工した。この3隻の船舶は「紫雲丸型」と呼ばれるようになった。宇高航路においては、初の車載客船でもあった。

概要[編集]

当時の燃料事情から石炭焚き蒸気タービン船とし、煙突が両舷に1本ずつ立ち、車両の積み降ろしを船尾から行うため、同時期に建造された青函連絡船洞爺丸と似た印象がある。車両甲板には線路は2線ありワム型15t積貨車で14両を搭載可能であった。また青函連絡船翔鳳丸型と同様、後部船橋から操舵できる船首舵を装備し、回頭後、後進で着岸できた。また潮流の早い備讃瀬戸を航海するため船尾の舵は操船性のよい2枚舵とした[2]

主要諸元[編集]

  • 総トン:1449t
  • 製造所:播磨造船所(現・IHI
  • 全長:76.18m
  • 全幅:13.2m
  • 喫水:3.5m
  • 定員:1500名(立席含む)

製造・運航に関する年表[編集]

事故の詳細については紫雲丸事故を参照。

  • 1946年(昭和21年)8月16日 - 起工。
  • 1947年(昭和22年)3月10日 - 進水。
  • 1947年6月9日 - 竣工。
  • 1947年7月6日 - 就航。
  • 1950年(昭和25年)3月25日 - 鷲羽丸と衝突し沈没、死者7名。引き揚げ復旧し、再就航。
  • 1951年(昭和26年)8月6日 - 高松港内で「第二ゆす丸」と衝突。後日レーダー設置。
  • 1952年(昭和27年)4月 - 高松港外で捨石に接触。後日ジャイロコンパス設置。
  • 1952年9月 - 高松港内で「福浦丸」と接触。
  • 1955年(昭和30年)5月11日 - 第三宇高丸と衝突し沈没、死者168名。いわゆる紫雲丸事故
  • 1955年11月16日 - 引き揚げ復旧し、「瀬戸丸」と改称して再就航。
  • 1960年(昭和35年)9月12日 -高松港口で「中央栄丸」と衝突、中央栄丸沈没[3]
  • 1966年(昭和41年)3月30日 - 終航。
  • 1966年(昭和41年)6月17日 - 廃船。
  • 1966年12月16日 - 瀬戸内開船工業所に売却処分。
  • 1991年 - 金輪島ドックで浮き桟橋として使用された後、この年に廃却。

事故[編集]

当船の名前は高松市にある「紫雲山」(栗林公園の借景でもある)に因んでいるが、「紫雲」という言葉自体に「臨終時に仏が乗って迎えに来る雲」という意味があり、さらには「死運」に通じるなど語呂も悪く、就航時から「死運丸」と囁かれていた。現に就航からわずか8年で5件の事故(そのうち2件は死亡者を発生させた事故)を起こしており、「瀬戸丸」に改名した後も衝突事故で相手船舶を沈めている。

また、事故をきっかけにして本州四国連絡橋の構想が具体化した。

脚注[編集]

  1. ^ 山本煕 車両航送p209 日本鉄道技術協会1960
  2. ^ 山本煕 車両航送p269 日本鉄道技術協会1960
  3. ^ 萩原幹生 宇高連絡船78年の歩みp196 成山堂書店2000

備考[編集]

「瀬戸丸」の船名を、後に仁堀連絡船で別の新造船舶も名乗った。

これは同航路最後の船舶となった(瀬戸丸 (仁堀連絡船)参照)。