紀元前541年

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紀元前541年(きげんぜん541ねん)は、西暦ローマ暦)による年。紀元前1世紀共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元213年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前541年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

中国[編集]

  • 公子囲伍挙に赴いた。
  • 趙武・楚の公子囲・国弱叔孫豹の向戌・の斉悪・の公子招・の公孫帰生・の罕虎(子皮)・人・人が、虢で会盟した。
  • 魯の季孫宿が莒を攻撃し、鄆を奪った。
  • 景公の弟の后子鍼が晋に亡命した。
  • 鄭の公孫楚が公孫黒と争い、に追放された。
  • 鄭の簡公が公孫段の邸で大夫6人と盟を交わした。公孫黒が盟に加わり、大史に名を書かせて、七子と言わせた。
  • 晋の荀呉が軍を率いて大鹵でを撃破した。
  • 莒の己去疾(著丘公)が斉から帰国し、己展輿が呉に亡命した。
  • 楚の公子囲が子皙(公子黒肱)と伯州犂を派遣して、犨・櫟・郟に築城させた。
  • 楚の公子囲が楚王郟敖を絞殺し、その2子を殺害した。右尹の公子比(訾敖)は晋に亡命し、宮厩尹の子皙(公子黒肱)は鄭に亡命し、太宰の伯州犂は郟で殺害された。公子囲(霊王)が楚王として即位した。

誕生[編集]

死去[編集]

脚注[編集]