紀元前279年

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紀元前279年(きげんぜん279ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「プブリウス・スルピキウス・サウェッリオプブリウス・デキウス・ムス共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元475年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前279年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

紀元前279年頃の地中海西部

ギリシア[編集]

共和政ローマ[編集]

エジプト[編集]

バルカン[編集]

中国[編集]

  • 白起を攻撃し、鄢・鄧・西陵を奪った。
  • 秦の昭襄王恵文王澠池で会談した。
  • 昭王が死去し、恵王が即位した。燕の楽毅は恵王と相性が悪く、田単の反間の計に遭って、趙に亡命した。
  • 斉の田単が火牛の計により即墨(現在の山東省平度市南東)で燕軍を撃破した。燕将の騎劫は戦死し、斉の旧領70城あまりが燕から離反して斉に復帰した。田単は襄王を莒に迎えて都の臨淄に戻った。
  • 斉の田単は安平君に封じられて宰相となった。
  • 斉の田単がを攻撃した。

誕生[編集]

死去[編集]

脚注[編集]

注釈

出典

関連項目[編集]