米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断

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吊るされる日本兵の首。(1945年ビルマ、アメリカ軍撮影とされる)[1][2]
日本兵の頭部を煮るアメリカ兵(1944年)頭蓋骨は一体につき35ドルで販売されていた
日本人の頭部で遊んでいるマクファーソン中尉アメリカ海軍魚雷艇341の甲板にて。(1944年4月30日ニューギニア)[3]

米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断(べいぐんへいによるにほんぐんせんししゃのいたいのせつだん)は、第二次世界大戦時、太平洋戦線においてアメリカ軍兵の一部が日本軍戦死者の遺体に対して行った戦争犯罪、猟奇行為。

概要[編集]

ライフマガジン誌は1944年5月22日に、アリゾナで勤労動員されているアメリカ人女性が海軍将校のボーイフレンドからプレゼントされた「日本兵の頭蓋骨」トロフィーの横で手紙をしたためている画像を配信した。

太平洋戦線に投入されたアメリカ兵のなかには、敵兵の遺体の一部を狩猟の獲物と同じように扱い、「戦争の記念品、土産」として持ち去る例があった。「土産」には、多くの場合換金性が高いためドイツ強制収容所で虐殺されたユダヤ人に対してドイツ人が行ったように金歯が選ばれたが、頭蓋骨や他の人体各部が採取されることもあった。このような行為は、アメリカ軍より公式に禁止されていたと考えられているが、禁止令は戦場の兵士の間で常に遵守されていたわけではない。これらの猟奇行為がどの程度行われ、公的に認識されていたかは不明である。ペリリューの戦い硫黄島の戦いなどで日本軍との間に死闘を展開したアメリカ海兵隊では、激戦につぐ激戦による最前線兵士の精神的疲労も重なって、日本兵の遺体損壊が日常的になっていた[4]。撃墜した日本軍機パイロットの遺体や、特攻により損傷した米軍艦艇に残されたパイロットの遺体が「コレクション」された記録もある[5]

大量の日本軍の戦死者の遺体は排尿や死体への射撃などで冒涜され、あるいは記念品として戦死者の耳や、時には頭などが切断されネックレスにされるなどして持ち去られた[6]。なおこれらの猟奇行為は、敵兵に対する怒りから行われるだけでなく、黄色人種である日本兵に対する人種差別的感情からも行われていると批判された(同様の猟奇行為はインディアン戦争ヴェトナム戦争といった他の異人種相手の戦争でも繰り返され、常態化している)。

日本軍の戦死者の部位を切り取り「コレクション」する連合国軍兵士の猟奇行為は「戦争の全期間にわたり連合国軍当局に懸念を抱かせるのに十分な規模で行われ、そして、広く広報され、さらにアメリカや戦時中の日本の新聞においてコメントされていた」[7]

連合国軍兵士により、日本軍将兵の遺体の部位を「コレクション」する行為は戦争の初期から行われており、このため1942年9月にこれら「コレクション」を行うことを懲戒処分の対象とするとの命令が出された[8] 。サイモン・ハリソンはこれらの行為はガダルカナル島の戦いが最初の機会であったと結論付けている。明らかに、生きていようが死んでいようが、初めて日本軍と遭遇した時、戦死者の身体の一部をコレクションすることは軍当局に懸念を抱かせる規模で行われ始めた[9]

戦後、マリアナ諸島から本国へ日本軍将兵戦死者の遺体の残りが送還された時、約60%がそれらの頭部を失っていた[10]。サイパン島で収容所にいた日本人少年は、海岸で頭蓋骨をボール代わりにして遊ぶ米兵を目撃している[11]

戦争犯罪[編集]

1944年6月13日付けの報告ではアメリカ陸軍法務部長(JAG)において、「そのようなひどい残虐な行為」が不快であることに加え、戦時国際法違反であると主張されており、それを全ての指揮官に配布することを推奨しており、「敵の戦没者の虐待は病人と負傷者の扱いについて規定された1929年に批准されたジュネーブ条約の露骨な違反であり、さらにそれは関わるごとに、戦場を保持している交戦国は負傷者と死者を探し当て、彼らを強盗行為やそのほかの悪行から保護する処置を捕らなければならない」とされている。

これらのアメリカ軍人の行為は陸上戦における慣習的な不文律に違反しており、死刑に処することもできた[12]。アメリカ海軍法務部では1週間後、その見解を反映し、「幾人かのアメリカ軍将兵が犯した残虐行為により、日本人による報復行為が引き起こされ、それが国際法の元で正当化されるおそれがある」とさらに付け加えた[12]。しかしこれらの違法行為はその後も断罪されることはなかった。

1944年6月13日の報道では、「フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員からレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨から作られたものである」と報じた。日本でもこの記事が報道され「アメリカ人は精神錯乱しており、野蛮で、人種差別主義者で、非人道的である」と描かれた。

またこの日本の記事ではライフ誌が1944年5月22日に掲載したくだんの「女性と頭蓋骨トロフィー」の画像にも言及した。エドウィン・ホイト「日本の戦い:太平洋戦線(Japan's War: The Great Pacific Conflict)」によれば、それら日本人の遺体を切り刻み持ち去る行為、および日本の軍部やメディアがこれらのアメリカ軍人による死体遺棄報道を元に行った反米宣伝が、結果的に連合軍上陸後にサイパンや沖縄で発生した民間人の集団自殺などにつながったとしている。

遺体損壊を扱った文化作品[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3651/is_199510/ai_n8714274/pg_1 Missing on the home front, National Forum, Fall 1995 by Roeder, George H Jr
  2. ^ Lewis A. Erenberg, Susan E. Hirsch book: The War in American Culture: Society and Consciousness during World War II. 1996. Page 52. ISBN 0226215113.
  3. ^ 072837”. Australian war memorial (1944年4月30日). 2010年7月18日閲覧。
  4. ^ ユージーン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』190-196頁など講談社学術文庫、2008年8月
  5. ^ 平義克己『我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』(扶桑社、2002)65、222頁
  6. '^ Xavier Guillaume, "A Heterology of American GIs during World War II". H-US-Japan (July, 2003). Access date: January 4, 2008.
  7. ^ Simon Harrison “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance” Journal of the Royal Anthropological Institute (N.S) 12, 817-836 (2006) p.818Simon Harrison (2006). “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance” (PDF). Journal of the Royal Anthropological Institute 12: 826. http://www.science.ulster.ac.uk/psyri/profiles/s_harrison/documents/skulltrophies.pdf. 
  8. ^ Simon Harrison “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance” Journal of the Royal Anthropological Institute (N.S) 12, 817-836 (2006)p. 827
  9. ^ Simon Harrison “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance” Journal of the Royal Anthropological Institute (N.S) 12, 817-836 (2006) p.827
  10. ^ Simon Harrison “Skull Trophies of the Pacific War: transgressive objects of remembrance” Journal of the Royal Anthropological Institute (N.S) 12, 817-836 (2006) p.828
  11. ^ 宮城信昇『サイパンの戦いと少年』113頁(新報社 2002年)
  12. ^ a b James J. Weingartner “Trophies of War: U.S. Troops and the Mutilation of Japanese War Dead, 1941 – 1945” Pacific Historical Review (1992) p.59

文献情報[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]