第四次イゾンツォの戦い

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第四次イゾンツォの戦い

第十一次までのイゾンツォの戦いの戦況図
戦争第一次世界大戦
年月日1915年11月10日 - 12月2日
場所イタリア北西部のイゾンツォ川付近
結果:イタリアの戦略的辛勝
交戦勢力
イタリア王国の旗 イタリア王国 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
指導者・指揮官
イタリア王国の旗 ルイージ・カドルナ
イタリア王国の旗 エマヌエーレ・フィリベルト
オーストリア=ハンガリー帝国の旗フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 スヴェトザル・ボロイェヴィッチ 
戦力
イタリア王国の旗 370個大隊、火砲1374門 オーストリア=ハンガリー帝国の旗]115個大隊、火砲626門
損害
イタリア王国の旗 死傷者数49500人 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 死傷者数32100人
イタリア戦線

第四次イゾンツォの戦い(Forth Battle of the Isonzo)とは、1915年11月10日から12月2日にかけて、イタリア王国オーストリア=ハンガリー帝国との間で起こった、第一次世界大戦におけるイタリア戦線で行われた会戦のことである。

概要[編集]

本会戦は他のイゾンツォの戦いとは違い、短期間で終わった。そのため、第三次イゾンツォの戦いの続きと考えられることもある。

両軍は戦線の全域に均等配置されたが、戦闘の大部分は、ゴリツィアクラス高原に集中した。ゴリツィアを攻撃目標に定めたイタリア第2軍は、ゴリツィアの西方に位置するオスラヴィエ(Oslavje、イタリア名:Oslavia)を占領した。その間、沿岸付近には陣取らなかった第3軍は、無意味な攻撃を実施しようとしていた。イタリア第3軍は5回に渡りMount Sei Busiを攻撃したが、すべて徒労に終わった。

戦闘の激しさが増しだした11月末にはトールミンの橋頭堡の両岸部において激しい爆破が起きた。死傷者の割合はそのときが最も高かった 。その後、12月の最初の15日間の間だけは戦闘は小規模になった。原因として本格的に冬季がせまってきたこと、補給物資が不足しがちとなり、作戦できなくなったためである。

莫大な損害を憂慮したオーストリア=ハンガリーの司令部は初めて、イタリアの行為(未回収のイタリア)に反対していたドイツ帝国に軍の派遣を要請した。ドイツ帝国のイタリア戦線に干渉するのは、ようやく第十一次イゾンツォの戦いが始まるとき(1917年8月)となる。

他の戦闘[編集]

関連項目[編集]