竹腰正旧

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竹腰 正旧(たけのこし まさもと、旧字体:正舊嘉永4年2月2日1851年3月4日) - 明治43年(1910年8月22日)は、尾張藩附家老美濃国今尾藩の第10代当主で初代藩主、知藩事

三河国田原藩三宅康直の四男。正室は中勘弥中勘助の父)の養女タカ(孝子)。長男は竹腰正己。官位は従五位下、伊予守。

経歴[編集]

幼名は龍若。文久2年(1862年)10月、竹腰正富の隠居により、養子として家督を相続した。慶応4年1月27日(1868年2月20日)、今尾領は新政府の計らい(維新立藩)により今尾藩として認められ、正旧はその初代藩主となる。2月、御三家の付家老の独立に際し、各家は藩政に支障が出るとして、引き続き政務を執らせたいと新政府に願うものの、竹腰家だけは除外されていた。養父正冨と前尾張藩主徳川慶勝の対立によるものと考えられる。4月に上洛し、従五位下・伊予守に叙任した。5月には朝廷からの徴兵により士卒を派遣した[1]

明治元年(1868年)10月27日、新政府から竹腰家の家祖・竹腰正信徳川義直から与えられた知行1万石を尾張藩に返すことを命じられた。しかし、この措置は竹腰家にとって財政的に厳しく、返還運動を展開する。明治3年(1870年)10月29日、1万石を取り戻している。

明治2年(1869年)2月16日には版籍奉還を願い出た。6月23日(7月31日)、版籍奉還にともない今尾藩知事となり、同4年に廃藩置県となり免官となる。1872年に今尾藩士で竹腰家の家令を務めていた中勘弥を伴い上京。明治10年(1877年)12月、隠居し、長男の正己に家督を譲る。明治43年(1910年)8月22日、60歳で死去。法号は清涼院殿正堂宗舊大居士。墓所は岐阜県関市の円泰寺にある。

系譜[編集]

父母

子女

脚注[編集]

  1. ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X
当主
先代
竹腰正富
竹腰家
1862年 - 1877年
次代
竹腰正己