竹林院 (真田信繁正室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

竹林院(ちくりんいん、生年不詳 - 慶安2年5月18日1649年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性。真田信繁の室で[1]大谷吉継の娘。(吉継の妹、姪ともあるが定かではない)。真田幸昌片倉守信・あぐり(蒲生郷喜室)・菖蒲(片倉定広室)・おかね(石川貞清室)らの母。

文禄3年(1594年)頃に真田信繁に嫁ぐ[2]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで父と夫が西軍につき、彼女は義父・真田昌幸の正室と共に実父の吉継に保護されていた。戦後は信繁に随行して九度山に幽閉される。九度山での生活は厳しかったらしく、彼女自ら上田地方の紬技術を応用した真田紐を考案し、家臣たちに行商させて、生計を支えていた[3]

慶長19年(1614年)の信繁の大坂城入城に従う息子の幸昌には、「再び生きて会いたいのは山々なれども、私達のことは案ずることなく、御父上様と生死を共になさいますように」と話し、送り出したという[4]

慶長20年(1615年5月7日大坂夏の陣で信繁が戦死すると、徳川家康に命じられた紀伊藩主・浅野長晟に捜索され、5月19日に紀伊伊都郡で娘あぐりと3人の侍に警護されて隠れていたのを発見され、5月20日に京都の家康に引き渡されたが[5]、無罪となり以後は京都でかね夫婦と暮らす[6]

慶安2年(1649年)5月18日に京都で亡くなる。法名・竹林院殿梅渓永春大姉。墓所は臨済宗妙心寺塔頭、大珠院。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ (『真田系譜稿』によると信繁は竹林院の前に家臣・堀田興重の娘を正室に迎えている記録があり、正室とするには疑問がある。ただし長男と次男を生んでおり、事実上の正室だった可能性がある。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)62頁。
  2. ^ 嫁いだのは天正年間末期ともいわれる。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)62頁。
  3. ^ ただし徳川方の監視は厳しかったが、九度山で長男と次男を産み、さらに他の側室の子も引き取って養育しており(『真田系譜稿』、『先公実録』より)、家庭的には恵まれていたようである。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)65頁。
  4. ^ (竹林院は信繁より入城前に豊臣家から与えられた黄金57枚を与えられている。信繁が竹林院ら家族の行く末を心配しての処置という)。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)67頁。
  5. ^ (『浅野家旧記』『駿府記』より)。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)66頁。
  6. ^ (『駿府記』によると全くの無罪放免ではなく、信繁が大坂入城直前に渡していた脇差・来国俊を没収されて長晟に下賜されている)。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)67頁。

参考文献[編集]

  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)花ヶ前盛明