竹嶼
| 竹嶼 | |
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| 座標 | 北緯37度31分44秒 東経130度56分17秒 / 北緯37.52889度 東経130.93806度座標: 北緯37度31分44秒 東経130度56分17秒 / 北緯37.52889度 東経130.93806度 |
| 面積 | --- km² |
| 海岸線長 | --- km |
| 所属国・地域 | |
竹嶼(チュクソ、죽서)とは鬱陵島の東約2.2kmに位置し、南北に約700mの細長い島。竹島を韓国領と認めない立場では韓国の最東端であると認識される。行政上は慶尚北道鬱陵郡に属する。大韓民国では現在は専ら竹島(チュクト、죽도)と呼ばれ、竹嶼という呼称は歴史的にも一般的ではない。日本との間に領土問題を抱える「竹島」と同じ名称になるため混同され易いが、別の島である。
目次 |
[編集] 概要
有人島であり、島へ渡るには、道洞からの観光船に乗る。片道約20分。船は波が少しでも高くなると出航を見合わせる。島の周囲は岩から成り立つ断崖絶壁であり、砂浜などはない。船が接岸した後、乗客は螺旋状の階段を上がり、島に入る。 竹嶼は、個人所有の土地であり、入場料が必要である。事前に権利者と交渉および前払いをしておけば、キャンプも可能である。 島の中には、女竹(笹)が群生しており、また、芋などの畑が広がっている。この芋をすったジュースが竹嶼の名物である。 島の中央部西側には展望台があり、ここからは南は杏南や芋洞や北芋岩が見え、北は観音島관음도、島項、臥達里や其の近くの断崖から流れ落ちる複数の小川が見える。 展望台すぐ近く、北端にある階段を登っていくと、そこは森林が生えている小高い山となっている。
[編集] 歴史
朝鮮では13世紀の『太宗実録』以降、鬱陵島の近くに「于山島」という島があるとの記述が現れる(ただし、『新増東国輿地勝覧』などでは于山島を鬱陵島と同一の島とする説もとっている)。日本の外務省などではこれらの「于山島」を竹嶼または実在しない島としている。一方、韓国では現在の竹島(独島)を指すとしている。
近世以降の朝鮮の古地図では、「大于島」「于山島」等の名で竹嶼に比定される島が描かれるようになり、後に李奎遠らの作成した「鬱陵島外図」で現在の「竹島」の呼称が現れる(詳しくは後述)。なお、「竹島」という呼称は日本では古くは鬱陵島を指していたが、朝鮮においても元々は鬱陵島の異称のひとつとされていた。
1900年10月25日、大韓帝国の「勅令第四十一号」によって鬱島郡が設置され、「竹島」(竹嶼)は「石島[1]」とともに鬱島郡の管轄下とされた。
[編集] 古地図の竹嶼
1699年及び1701年、(ただし、韓国側発表によると、日本側が1699年と推測している韓国中央図書館所蔵鬱陵島図形は1867年製作と説明している。)鬱陵島を監督していた鬱陵島捜討官製作の「鬱陵島外圖」には、その位置関係から竹嶼に比定される大于島と、観音島に比定される小于島が描かれている。1711年製作の「鬱陵島圖形」にも、竹嶼に比定される海長竹田と記された于山島が描かれている。海長竹は女竹(笹)のことで、この島には実際多くの竹が自生している。李奎遠により1881年に製作された「鬱陵島外圖」には、この竹嶼が竹島として、前述の鬱陵島圖形と同じ構図で描かれている。これらの鬱陵島掃討官が製作した鬱陵島調査地図は4枚確認されており、また捜討官の地図を基に書かれた鬱陵島の詳細図も二十数枚確認されている。いずれも南北に長細い形状をしており竹嶼に比定できる。
1700年代以降の多くの韓国の古地図でも、その位置関係から竹嶼と比定できる島に「于山島」又は「于山」と記載されている。また韓国の古文書「日省録」には「鬱陵島の北に于山島があり、周囲は二、三里」とあり、この記述からも于山島が竹嶼であることが確認できる[2]。 なお、韓国ではこれら全ての于山島は独島(日本名:竹島)であるとしている。
ヨーロッパの海図や地図に於いては、竹嶼にBoussole RockやOu-sanの名前が記入されている。
[編集] 脚注
- ^ 日本は「石島」を現在の観音島であるとし、韓国は現在の竹島(独島)であるとしている。
- ^ 2008年1月19日 山陰中央新報 「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証