竹島外一島

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竹島外一島(たけしまほかいっとう)は、明治日本のいくつかの文書で言及される、同定が不確定な2つの島である。

日本と韓国の間で領有権争いがある竹島について、その争点のひとつとなっている。

1877年明治10年)に発せられた太政官指令「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」や太政類典の「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とした一文が日韓の竹島における領有権の解釈から問題になっている。鬱陵島は江戸時代までの日本で竹島と呼ばれていたため、韓国はこの一文の「竹島」が鬱陵島で「外一島」が現在の竹島と解釈し、日本で発せられたこの指令は現在の竹島を朝鮮領と認めている証拠であるとしている。しかし明治期は地図の島名が輻輳していたため、日本ではこの「竹島外一島」は鬱陵島と竹嶼である可能性が大きいとしている。

「朝鮮国交際始末内探書」

太政官指令に先立ち、明治政府は朝鮮に人を派遣し江戸時代に日本から渡航し開発していた竹島(鬱陵島)について詳細に調査している。
その内容が1870年(明治3年)『朝鮮事件』の「朝鮮国交際始末内探書」に記載されており、その中に「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」とした文がある。江戸時代まで日本では鬱稜島を竹島、現在の竹島を松島と呼んでいたため、韓国ではこの一文を現在の竹島(独島)が自国領である根拠の一つとしている。この時、日本が朝鮮の文献を調べた結果、竹島と松島が朝鮮附属になっているとしているが、当時の朝鮮の文献では于山島が松島で朝鮮領となっており、また当時の多くの朝鮮の地図ではその于山島の位置はほぼ鬱陵島北東近傍の現在の竹嶼を指している。「朝鮮国交際始末内探書」には「松島ハ竹島ノ隣島ニシテ松島ノ儀ニ付是迄掲載セシ書留モ無之」と記されており、竹嶼が鬱陵島の隣にあること、日本には松島(現在の竹島)の資料が数点存在しているいることから、日本ではこの文面の松島は現在の竹嶼を指していると考えられている。

原 文

一 竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末

此儀ハ松島ハ竹島ノ隣島ニシテ松島ノ儀ニ付是迄掲載セシ書留モ無之竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処当時ハ以前ノ如ク無人ト相成竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ人參等自然ニ生シ其餘漁産モ相應ニ有之趣相聞ヘ候事


                          外務省出仕
                             佐田白茅
                             森山茂
                             斎藤栄

現代文

竹島と松島が朝鮮附属になった事情

この件について、松島は竹島の隣島で松島の件はこれまで掲載する書留もない。竹島の件については、元禄の頃後しばらくの間朝鮮より居留のための人を送っていたが、当時は以前のごとく無人となり、竹木又は竹より太いを産し、人参等も自然に生じ、そのため魚も相応に採れる様子を伝え聞いているとのこと。


                          外務省出仕
                             佐田白茅
                             森山茂
                             斎藤栄


この内探書とは別に、1870年前後の日本の近代的地図では鬱陵島を「松島」としており、鬱陵島と朝鮮半島の間の位置に架空の「竹島」を記載している。また、現在の竹島は「リユ(エ)ンコヲルトロック」としている。

太政官指令の「竹島外一島」

鬱陵島現在の竹島(英:Liancourt rocks)・隠岐諸島との実際の位置関係。

1877年(明治10年)、明治政府は元禄時代に朝鮮と交渉し日本から竹島(鬱陵島)への渡航を禁止したこと(竹島一件)などから、太政官指令により「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」と決定した。太政類典第二編には「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」としてその過程が纏められている。
この「竹島」と「外一島」がどの島を指すのか不明であるが、竹島一件では竹島(鬱陵島)への渡航禁止命令をしているだけで、松島(現在の竹島)についての記載はしていない。

明治政府が纏めた太政類典の中には、隠岐の北西120(約480km)に周囲およそ10里(約40km)の竹島があって、次の一島が周囲30(約3270m)の松島で、竹島と同一路線の隠岐より80里(約320km)にあるとしている。本文に書かれている「竹島」の状況や位置関係の比からすると「竹島外一島」は現在の「鬱陵島と竹島」を示していると言えそうだが、本文の距離と実際の距離は下表のように大きく食い違う。原因は、この距離が当時島根県が提出した「磯竹島略図」に記載された距離であり、「磯竹島略図」は測量に基づくものではなく享保年間の大谷家の絵図をそのまま縮写したものだからである。

太政類典にある距離の比較
記述 朝鮮~竹島 竹島~松島 松島~隠岐 竹島周回
記述 五十里 四十里 八十里 十里
里→km 200km 160km 320km 40km
実際の距離 140km 92km 160km 56.6km
里を海里と解釈した場合 93km 74km 148km 19km
(上記の実際の距離は「竹島」を鬱陵島、「松島」を現在の竹島とした場合)
1855年にニューヨークで出版された地図。アルゴノート島(Argonaute)を竹島(Taka sima)とし、ダジュレー島(Dagelet)を松島(Matsu sima)としており、経度や緯度が大きくずれている。

明治政府誕生(1868年)以前の1855年のアメリカの地図では、アルゴノート島(Argonaute)を竹島(Taka sima)とし、ダジュレー島(Dagelet)を松島(Matsu sima)としており、江戸期までの日本の島名である竹島(鬱陵島)や松島(現在の竹島)の経度や緯度が大きくずれている。島の位置は、経度が西へ1度、緯度は南へ30分、それぞれずれており、当時鬱陵島の日本名が松島となった原因とされる。

  • 太政官指令の出された1877年大日本図(文部省出版 宮元三平著) 架空の竹島が描かれ、鬱陵島が緯線経線入りで正確に書かれ松島となっている。現在の竹島は描かれていない。

この頃の日本の地図は近代的測量により日本・鬱陵島・現在の竹島をほぼ正確に描いている。ところが、地図には鬱陵島を「松島」とし、鬱陵島の北西方向で朝鮮半島との間には架空の「竹島」を描いている。そして現在の竹島をヨーロッパの名称「リユ(エ)ンコヲルトロック」としている。その原因はヨーロッパの探検家が間違って記載した島の位置や名称を検討し、架空の島や名称を記載したのではないかとされている。太政官指令の発せられた3年後の1880年には、日本の軍艦「天城」の調査で島の名称が誤っていることに気付いたが、引き続き鬱陵島を松島として地図に記載している。後に島名を変更し、1905年に現在の竹島を「竹島」として島根県へ正式に編入している。

太政類典の「竹島外一島」は、島根県が提出した「磯竹島略図」の内容をそのまま記載しているが、隠岐と松島の距離を八十里(320km)としている。隠岐からの距離では現在の竹島より鬱陵島の方が近い(隠岐~鬱陵島 約250km)。当時の近代的地図で鬱陵島を「松島」とし、その遠方に架空の「竹島」を記載した理由も伺える。
この頃の日本は近代的測量により正確な位置が出せたが、これらの島が遠方であったため島名等を過去の文献やその頃の誤った地図資料等で判断するしかなく、当時の担当者が「朝鮮国交際始末内探書」や島根県の調査報告書などを元に「竹島外一島」として本邦関係無しや版図外としたと見られる。太政官指令が「竹島、松島」と明示せず「竹島外一島」としているところは当時松島の位置が混乱していたことが伺える。

島根県の竹島資料室の研究では、軍艦「天城」の調査後も日本では引き続き鬱陵島を松島としたため、それまで架空の位置に描かれていた「竹島」の名を朝鮮で于山島と呼ばれていた現在の竹嶼に当てはめたとし、太政官指令の際、実際に版図外としたのは鬱陵島だけであるとしている。

韓国では、1877年に明治政府が太政官指令により「竹島外一島」を本邦関係無しや版図外としたことから、現在の竹島を韓国領であるとする有力な根拠としているが、大韓帝国では1908年高宗の命により編纂された『増補文献備考』まで、鬱陵島の近傍に描かれた于山島が松島であるとしており、この時までに大韓帝国製作の地図には現在の竹島と比定できる島は全く記入されていない。また、日本が島根県に編入する1905年までに朝鮮人が支配した事実もない。 (1908年までの朝鮮での鬱陵島付近の認識は于山島を参照のこと)

韓国に帰化した世宗大学校保坂祐二助教授は、太政類典にある距離の里を海里(1海里=1852m)として計算すると、鬱陵島と現在の竹島は実際の距離に近くなるとして、当時の日本の地図の記載間違いなどは日本の歪曲的解釈として、1905年の竹島の島根県編入は日本の軍国主義による侵略の始まりと位置付けている。しかし、これらの距離は享保年間に書かれた大谷家の絵図に記載されたものをそのまま記述しており、海里が使用されるずっと以前の距離であるため海里ではない。

太政官指令

1877年3月20日に内務省が出した通達(国立公文書館所蔵)

原 文

明治十年三月廿日

別紙内務省伺日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件右ハ元禄五年朝鮮人入嶋以来旧政府該国ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉此段相伺候也

御指令按

伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事

現代文

明治10年(1877年)3月20日

別紙にて内務省が伺った日本海内竹島外一島地籍編纂の件、右は元禄五年(1692年)、朝鮮人入島以来、旧政府の当該国と往復の末、最終的に本邦と関係無との報告があった件を申立てましたところ、伺いの趣旨を検討し、左の通り御指令になったとこの件について伺っております。

御指令案

お伺いの件、竹島と他一島の件は本邦関係無しとして良いと心得る事。

太政類典第二編

原 文

「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」
(略)
「磯竹島一ニ竹島ト称ス隠岐国ノ乾往一百二十里許ニ在リ周回凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ川三條アリ又瀑布アリ…(鬱陵島の状況)…次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニアリ隠岐ヲ距ル八十里許樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス…」

現代文

「日本海の竹島と他一島を版図外と定める」
(略)
「磯竹島を竹島と呼ぶ。隠岐国の北西120里にあり、周回およそ10里、山は峻険で平地は少し、川は3本あり又瀑布がある。…次ぎに一島ある。松島と呼ぶ。周回30町、竹島と同一路線にあって隠岐から80里ある。木や竹は稀で又魚や獣が獲れる。…」

戦艦天城調査後の「竹島外一島」

戦艦天城の調査前の状況について、外務省の北澤正誠1881年(明治14年)にまとめた竹島考証において「於是竹島松島一島両名或ハ別ニ二島アルノ説紛紜決セス」(この竹島松島において、一島二名あるいは別に二島ある説が紛紜として決まっていない)と記しており、戦艦天城の調査以前は諸説が乱れていたことがわかる。

1880年の戦艦天城の調査の結果、1870年前後に書かれた日本の近代的地図の松島(Dagelet島)が鬱陵島であることがわかり、竹島は鬱陵島の北東部にあるBoussole Rock(竹嶼)であると報告された。これにより北沢正誠は「今日ノ松島ハ即チ元禄十二年稱スル所ノ竹島ニシテ、古來我版圖外ノ地タルヤ知ルヘシ」(今日の松島は、すなわち元禄十二年に呼称していた竹島であって、古来我々の版図外の地であることを認識するように)として、この当時松島とされている島が鬱陵島であると結論づける。この認識は、「竹島外一島」として「内務権大書記官西村捨三の外務省書記官宛照会文書」にも出てくるほか、当時の内務省や外務省の見解にも反映されるようになる。

1881年11月2日の「明治14年朝鮮蔚陵島へ入住の和我人民を撤諦せしめ爾後航行を禁する旨XX国政府へ照会す。 [3]」 では、「別冊竹島所属考に明瞭なるか如く我の所謂竹島一名松島なるもの」としており、竹島と松島が同じ島であるとしている。

1881年11月29日付、外務省記録8324「内務権大書記官西村捨三の外務省書記官宛照会」では、 [4] 太政官指令の写しである甲号「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」のタイトルに、(外一島ハ松島ナリ)と新たに追記がなされる。 そして、乙号である「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」 には、松島が何であるかが記載されており、この松島がDagelet島つまり鬱陵島で、外一島は現在の竹島を意図していないことがわかる。

そして、その西村の照会に対して、外務権大書記官光妙寺三郎の内務権大書記官西村捨三宛て返答文書 明治十四年十一月三十日起案文 「公第二六五一号」 [5]においては「朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀」と返答している。

『明治十六年 公文録 外務省 三月四月 全』公第二七二号、1882年(明治15年)02月16日付、外務卿井上馨の蔚陵島(鬱陵島)での日本人の活動に関しての上申書[6]において、「我邦人朝鮮国所属蔚陵島[我邦人竹島又は松島と唱ふ]へ渡航し…」としており、鬱陵島を日本人が竹島または松島と呼んでいることを記している。

1883年09月の、「蔚陵島ニ邦人渡航禁止審査決議ノ件並ニ決済」 [7]では、「北緯37度30分東経130度49分の洋中に位する一の島嶼即ち日本称竹島或は松島朝鮮称蔚陵島の儀は、…(中略)…別冊竹島版図所蔵考記載の通りなり」として、朝鮮鬱陵島が竹島或いは松島と呼ばれていることを緯度と経度入りで説明している。

1900年06月12日付、在釜山領事官補赤塚正輔 の「鬱陵島調査状況 山林調査状況報告の件」 [8]においても、「鬱陵島ハ韓國江原道ニ屬シタル島嶼ニシテ松島又ハ竹島ト稱シ(東經百三十度八分二厘北緯三十七度五分)」として、鬱陵島が竹島或いは松島と呼ばれていることを緯度と経度入りで説明している。

太政官指令作成時には「竹島外一島」として明確にしなかった島が、戦艦天城の調査とその後のこれら外務省と内務省のやり取りから、Dagelet島つまり鬱陵島と認識されていたことがわかる。

鬱陵島を「松島」としている当時の西洋の地図

「松島」と記載された鬱陵島(西洋名:ダジュレー島 Dagelet I.)が国境線や着色などにより日本領となっている。 又、現在の竹島は"Liancourt I."と記されている。

太政官指令の曖昧さ

「朝鮮国交際始末内探書」当時の「松島」

金正浩大東輿地図』(1861)
鬱陵島東部と「于山」
大韓帝国時代の官撰『大韓地誌』(1899)「大韓全図」
鬱陵島および「于山」

日本人の言う「松島」

(参考:松島・竹島・夫婦島)

  • 1840年頃以前では今日の「竹島」を意味する。
  • 1840年頃以降では「鬱陵島」のことを意味していた。(シーボルト編纂の海図)

朝鮮人の言う于山島と、朝鮮人の言う「倭人が言う松島」

「朝鮮国交際始末内探書」当時では韓国が主張する「松島=于山島」の意味での「松島」は現在、竹嶼と呼ばれる島を意味することは『日省録』、『青邱図』、『承政院日記』、『啓草本』などから明らかである。[1]つまりは朝鮮政府では19世紀初頭において既に于山島(「朝鮮人の言う『倭人の言う松島』」)は今日、「竹嶼」と呼ぶ島であると比定していた。

それ以降では「朝鮮人の言う『倭人の言う松島』」は今日の「竹嶼」を意味し、徳川末期(1840年)頃までの「日本人(倭人)が言う松島」とは異なることになっていた。

「鬱陵島」の呼称

日本
  • 17世紀初頭–1840年頃では「(磯)竹島」(「(大谷家、村上家)渡海免許」、『隠州視聴合紀』)
  • 1840年頃–1880年では「(磯)竹島」、「松島」(シーボルト海図、『大日本国沿海略図』等)
  • 1880年–1904年では「鬱陵島」、「松島」(『海軍水路図誌』等)
朝鮮
  • 12世紀では「于山国」、「鬱陵島」(『三国史記』[9]
  • 15世紀初期では「武陵」(『太宗実録』[10]
  • 15世紀中期以降では「鬱陵島」、「于山国」、「武陵」、「羽陵」(『高麗史』等[11]
  • 以降、「鬱陵島」、「于山」(『承政院日記』、『啓草本』等[12]

太政官指令時の「外一島」

『太政類典』での島名などに関する記述は、島根県提出の資料の古文書に書かれる島名の由来に関する説明や、島根県提出の資料をそのまま楷書にして写したものである。

そのように『太政類典』での島名などの説明や古文書の写しの記述は、島根県が提出した資料が、どんなものであるかを確定したものであって、それだけでは、明治政府(太政官指令)が島根県提出の資料(図など)だけを判断材料にして太政官指令(『太政類典』の冒頭の記述に同じ)を公布したことを証明する書類と断定することはできない。

よって、「外一島」について、それを「島根県提出の図での松島のことだから、今日の竹島のことだ。」と主張する韓国側の論理展開にしても、「その場合の松島とは島根県提出の図での松島ではなく、明治政府陸海軍などが使っていた海図でのダジュレー島[2]のことであって、つまりは鬱陵島のこと。」という日本側で多く見られる主張においても、どちらも蓋然性にもとづく仮説である。

政治的背景

日本

明治元年、五箇条の御誓文が発布されるや明治政府は欧米列強各国に対する開国政策を更に進めていった。それと同時に各国海軍からは、シーボル海図や幕末期に勝海舟が編纂した『大日本国沿海略図』等に記載される「竹島」が架空島であるという情報が、あいついで寄せられた。

太政官指令が出される時点では、征韓論の旗頭とされていた[3]西郷隆盛が起こした西南戦争はほぼ終局に向かっていた。

それ以後、太政官指令(1877年)から軍艦天城の調査まで3年の間に明治政府の外交方針が大きく変わるような事件は起きていない。

朝鮮

大院君派と閔妃派の激しい内紛劇が展開されたが、閔妃派が実権を握り前年に日朝修好条規が締結され、第一次修信使が派遣された。

日朝修好条規の発端である江華島事件が砲艦外交であったかなかったかの議論は別にして閔妃派の実権や、このような日朝関係は、その後も軍艦天城による実地測量頃までは続いていた。

1880年7月には、金弘集に率いられた金玉均開化派が第二次修信使として来日している[4][5]

よって、1880年の軍艦天城による実地測量の時点までの間に日朝外交関係を変えるような特段の事情は、日本側にも朝鮮側にも発生してなかったといえる。

当時の航海士、海事測量技術者にとっての文明開化

十数年前までは保有するには巨額の金を要した位置測定システムであるGPS装置などが、今日では子供が持つ携帯電話にさえ装着されている現状となっている。

そういった現状を規準にして過去の歴史を見ることは、三角測量のできない海上で船や島嶼や暗礁等の位置(緯度経度)を知ることについて、あるいは海事政策について明治時代の人たちが、どのような考えでいたかを考察、検証するにあたって、まったく的外れの憶測になることに注意する必要性もある、という指摘もある。

多くの人は「緯度」を計る技術と「経度」を計る技術を同等のレベルと考えている人が多いが、実は当時では三角測量(「山あて」)のできない海上で、つまり位置が判明してる島や暗礁はない遠洋で、自船の「経度」を精確に知ることは天文学者、天体測量の熟練者であっても不可能なことだったのである。

なぜなら、緯度計測[6]とは違って、経度の場合には、時々刻々と高度が変わる天体の高度を迅速に精確に計測することが必要だからである[7][8]

その技術をなんとか人類が獲得するのは、実は先進地の英国で18世紀中頃であった。(「経度」「経度法」、「クロノメータ」、「ジョン・ハリソン」参照)

日本でその技術(揺れる船上でも迅速に天体高度を計測できるように工夫された六分儀や、揺れる船上でも精密に時を刻むマリン・クロノメータを使った迅速、精確な天体測量を利用した天測航法(天体航法、天文航法)を本格的に導入し始めたのは、実は幕末の長崎海軍伝習所からであって、そのような三角測量のできない海上で、揺れる船上で精密な天体測量によって船位を知る天測航法(天体航法、天文航法)ができるということは当時としては極めて画期的なことだった。

当時の明治政府海事関係者の志向

よって、このような画期的な測量技術を持ちながら日本政府独自の実地での調査等をせず、(クロノメータ六分儀など最新技術を使った測量結果がされないまま)、「鬱陵島二重記載」の情報の信憑性の高い状況では、明治政府(前島密ら)は、鬱陵島海域での島嶼の比定等について(領土、領海について)断言、断定をすることは避けようとした蓋然性も極めて高い。

つまり、当時の明治政府での海図編纂の権限、機材は海軍省(水路局)にあった以上、1877年の時点で海軍省水路局の最新技術による調査が済んでない時点で[9]勝海舟柳楢悦の権限内に踏み込んで、測量技術や天測航法(天体航法、天文航法)などの航海術での先生でもあった両者の隷下にある海軍省水路局の調査結果を待たずに、前島密が独断で鬱陵島近海での島嶼の比定、領有権の帰属先について断言するようなことは、できるはずもなかったといえる[10][11]

なお、「海軍省水路寮」や「海軍省水路局」で使われる「水路」という名称は、その編纂する「海図」が、あくまでも船舶の安全航行に資するためのものであることを意味する。つまり、編纂された海図の名称(標題)として国名が使われていたとしても、その海図に表記される島などは、その国の領土であるということは意味しない。

何故なら海図はあくまでも、航海士らにとって、船位を知る上で便利な島等が可視なら遠くにある国境を隔てた島でも目印として掲載するし、航行にとって危険な岩礁なども国境には関係なく掲載し、航行の安全を第一目的に編纂されるからである。

  • 勝海舟:明治政府初代海軍卿・幕末期は講武所砲術師範役、咸臨丸船長として米国に派遣され天守番頭格講武所砲術師範役を経た後、二の丸留守居役・軍艦操練所頭取、後、軍艦奉行、長崎海軍伝習所1期生、1867年『大日本国沿海略図』を編纂
  • 柳楢悦:明治政府海軍省水路局初代局長、長崎海軍伝習所で勝海舟と同期生

総括

この太政官指令をめぐる問題で何より重大な史実は、太政官指令後の3年後、太政官岩倉具視の権勢がたけなわであった時、「松島」の鬱陵島への比定や、「(磯)竹島」の「竹嶼」への比定が、太政官指令の撤回、取消や太政官と同等以上の職権者による訂正、撤回等の指令によってなされたのではなく、太政官よりはるかに権限の低い海軍担当部局の職権で確定され、且つ、太政官指令違反にはならなかったという史実である。

この史実は何を意味するかといえば、この太政官指令がもとから「『外一島』とは、リアンコールトロック[12]ではない。リアンコールトロックはわが国の領土だ。あたりまえのことだから言うに及ばず。」ということを意味した蓋然性も極めて高いということである。

1877年–1880年の間に朝鮮政府が「リアンコールトロックは朝鮮領だと主張したり、あるいは軍艦天城の調査後、「松島=鬱陵島」と比定された後、朝鮮政府が日本政府に対して抗議したり、「リアンコールトロックは朝鮮領だ。」と公告等していたなら又、別な話にもなるであろうが、当時の朝鮮王朝には、そういった記録は全く無く、むしろ逆に、朝鮮王朝は1882年の鬱陵島調査で「鬱陵島の先には島は見当たらない。」[13]と、鬱陵島の東には、朝鮮の領土と主張すべきものは全く見当たらないという認識を公式にしていた[14]

太政官指令が1877年に「公報」されたとしても、当時の日本海軍水路局が公式に使っていた海図が『大日本国沿海略図』のようなもので、それをもとに「松島は朝鮮領」だと言っていたなら、世界の海事界の人は「鬱陵島は朝鮮領だ、という意味。」としか思わなかったといえる。なぜなら当時はすでに、欧米列強先進国では「アルゴノード島[15]は架空島であり、鬱陵島の位地にはダジュレー島(日本名の島名として「松島」となっていた)[16]が描かれている。」と知っていたからである。

つまり軍艦天城は1880年に「竹島」[17]は架空島だから竹嶼に比定し、「松島」[18]は鬱陵島と比定したとされるが、それが「太政官指令違反」には、ならなかった。ということは、

1、当時、太政官指令案を草案した内務省、や、後に鬱陵島海域を調査した海軍省水路局のどちらも、島根県提出の図だけを見て判断していたわけではないこと。 (島根県提出の図だけを見て判断していたなら「(磯)竹島」はそのまま鬱陵島を意味するものとしておけばよかったわけであって、「松島」を鬱陵島とするような、比定の変更は全く必要がなかった。)

2、太政官指令も海軍省水路局のどちらも「リアンコールトロック[19](今日の呼称での竹島)は朝鮮領」などとしたことではないこと。 (もし海軍省水路局の比定が、太政官指令の意図と違っていたなら太政官指令違反とされたはずである。)

を意味する。では、何故、前島密はかのように曖昧な「外一島」という言葉を使ったのだろうか、という疑問が出るの当然といえる。 明治10年頃の状況、内務省の立場、情報を纏めると、

  • この時、明治憲法はまだ制定されていない。内務省官僚らにとっての規範としては、その解釈などの仕方はどうであったにせよ、五箇条の御誓文は絶対的な規範であった。
  • この太政官指令は、主たる目的は島根県からの「お伺い」に対する島根県民に対する内政用の回答文で、更なる混乱を回避しつつ、できるだけ正常化させる意図で書かれた。
  • 朝鮮国内問題としては『太宗実録』時代の空島政策が契機となって「于山島」という架空島が発生していた。更にその架空島である「于山島」をめぐって朝鮮独自の「松島」への牽強付会による輻輳状態が発生していた。
  • 日朝間の外交問題としては「松島」が日本と朝鮮で別な島を意味するという輻輳状態があった。
  • 日本国内問題としてシーボルト海図以降の海図で鬱陵島が二重描画されていた。
  • 前島密ら明治政府は欧米列強各国からの相次ぐ情報から、幕末時に勝海舟が編纂した『大日本国沿海略図』では鬱陵島が二重描画になっていて「竹島」は架空島で、海図上の「松島」が鬱陵島である蓋然性が高いことを知っていた。
  • 前島密らは欧米列強各国からの相次ぐ情報で、シーボルト海図以前の徳川時代に「松島」と呼ばれていた島は、『大日本国沿海略図』では「リエンコヲルトロック[20]」となっていることを知っていた。
  • 鬱陵島、リエンコヲルトロック[21]の精確な位置(緯度、経度)については、後日の測量、調査に任せることにして、とにかく前島密らは、島根県向けなどの内政問題として、シーボルト海図以来、混乱していた海図での島の数、位置関係を、大枠としてシーボルト海図以前の徳川時代の島の数と位置関係に戻し、大枠としての混乱を一日も早く正常化させたかった。(海軍省水路局の調査、確認作業まで待たねばならなかった。)
  • 明治政府は日朝修好条規締結後の信義上、徳川時代に「(磯)竹島」と呼んでいた島は、水路局の調査後は朝鮮王朝の呼称である「鬱陵島」に変える方針としていた。
  • 五箇条の御誓文(明治元年)、
    一、 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
    一、 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振基スヘシ
    もあったことから、水路局の調査後は外務省、及び欧米列強との連絡上の混乱を回避するために海図上の「リエンコヲルトロック[22]」の呼称は残す方針にしていた。

のような条件(海軍省水路局は、太政官より権限が低)の下、1880年に軍艦天城が調査した結果は、外国艦船からの情報どおり海図上での「竹島(アルゴノード島)」は[23]架空島になっていて「松島」が鬱陵島であることが確認され、明治政府は「松島(ダジュレー島)」を鬱陵島として比定を確定させた。ついでに「竹島(アルゴノード島)」を竹嶼に比定したとされる。

とにかく、こうして、それまでの『大日本国沿海略図』等、日本海軍が使っていた海図等での陳腐化を一掃し海図を校正した。「(磯)竹島」(と後年には「松島」)の呼称は消滅し、以後、呼称としては「鬱陵島(通称:ウルルン島、海図では暫く「松島」の呼称がそのまま使われた)」と「リエンコヲルトロック(通称:リャンコ島、後、海軍水路誌では、リアンコールトロック)」だけが残った。

つまり島の数と島の位置関係はシーボルト海図以前の徳川時代に戻って混乱は解消し、位置は、より精確に記載されるようになり信頼性が高まるという結果になった。

このように、前島密は、欧米列強艦船からの情報を把握しながら、又、勝海舟柳楢悦らの海軍関係者との関係も考慮しながら、故意に「外一島」という曖昧な概念の用語を使い、水路局の調査結果が、どのようなものでされても太政官指令が実態と矛盾しない結果となるように岩倉具視の立場も配慮しながら取り計った蓋然性も高い。そうして「内務省官僚の伝統」の源流となった蓋然性が高い。

つまり「外一島」の用語は前島密が故意に曖昧にした以上、後世の我等が、いかにそれを調べ推測しても永遠に特定できないだろうと言える。なぜなら「『外一島』とした「前島密自身が特定できなかった。」ともいえるからである。

という説も蓋然性として成立してるといえる。

脚注

  1. ^ 『日省録』の1793年の記述や『万機要覧』(1808年)の軍政編には『東国文献備考』(1770年)からの引用と思われる記述があるが『日省録』では、その後、1807年5月12日の項に鬱陵島を調査した役人の記録があり「北有于山島周回為二三里許」(北に于山島があって周囲は2~3里をなしている)と報告している。これは、于山島が鬱陵島の北にあって周囲が約800m–1200m(朝鮮の1里は約0.4km)であることを意味し、つまりは今日の「竹嶼」であって「朝鮮人の言う『倭人の言う松島』」(于山島)は「日本人(倭人)の言う松島」とは違っていることは明らかである。[1]
  2. ^ シーボルト海図では「Matsusima,I.Dagelet 37°25′N.B. 130°55′O.L」と、『大日本国沿海略図』では「松島」と記されていた。
  3. ^ 西郷隆盛の主張を「征韓論」とする歴史観には反対意見は多い。つまり「西郷隆盛は征韓論でなく遣韓論だ。」という歴史観にもとづく意見も多い。
  4. ^ 後、金玉均らは1882年、1883年にも壬午事変の善後策の済物浦条約にもとづき、謝罪や賠償金交渉のためにも来日している。
  5. ^ 済物浦条約の賠償金50万円は、結局、金玉均らの友好的姿勢による働きで、初めは初回10万円の次からは支払い期間が延期され、最終的には40万円は免除となり同時に内火艇一艘、山砲二門が無償贈与されたので、国に対する賠償金50万円は、朝鮮側にとっては実質的にはゼロ以上になっている。
  6. ^ 北極星の高度で知れる
  7. ^ 三角測量のできない海上での経度を知る場合は、揺れる船の中でも時々刻々変わる太陽高度(赤緯)などを極めて精密に迅速に計測できる測量器具(六分儀等)と海上でも狂わない時計を必要とする。
  8. ^ 今日のGPS航法と似たような原理、惑星や、その衛星を観測して時刻を知れた極めて専門的な天文学者が、かなり大がかりな天体望遠鏡などを利用して揺れない海況で大型船舶で計測すれば学術的には可能だったかもしれないが、それができない一般の船舶乗組員が船員としての日常の実務上において時刻を精確に捉えることは不可能であった。
  9. ^ 前年の1876年に海軍省水路局が改編され柳楢悦が初代局長に任命されていた。
  10. ^ 前島密としては海事界での大先達の勝海舟(明治政府においても海軍で枢要な地位に置かれていた。)が編纂した『大日本国沿海略図』での鬱陵島二重記載という誤謬を公表しなければならない立場になってしまっていた、が、それをするのには海軍省の最新の機材を利用した調査もなしに断定できるはずもなかったという説である。
  11. ^ (むしろ、海事において勝海舟の師弟分にあった内務省の前島密にとっては、元幕臣同士として、明治政府で初代海軍卿になった勝海舟が幕末に編纂した海図での誤謬について公表することは避けたいことであって、海軍省にしてもらうほうが好都合だった、とも言える。
  12. ^ 『海軍水路誌』以降の呼称、それ以前の勝海舟の『大日本国沿海略図』では「リエンコヲルトロック」を記されていた。今日の呼称で「竹島」。1904年頃からは朝鮮名では「独島」と呼ばれた
  13. ^ 『鬱陵島検察使日記』、『鬱陵島内図』、『鬱陵島外図』[2]
  14. ^ 于山島 『啓草本』
  15. ^ シーボルト海図では「Argonaute」と,『大日本国沿海略図』では「竹島」と記されていた
  16. ^ シーボルト海図では「Matsusima」と、『大日本国沿海略図』では「松島」と記されていた。
  17. ^ 『大日本国沿海略図』のような海図上での呼称
  18. ^ 『大日本国沿海略図』のような海図上での呼称
  19. ^ 『海軍水路誌』以降の呼称、それ以前の勝海舟の『大日本国沿海略図』では「リエンコヲルトロック」
  20. ^ 海軍水路誌以降では「リアンコールトロック」
  21. ^ 『海軍水路誌』以降では「リアンコールトロック」
  22. ^ 海軍水路誌以降では「リアンコールトロック」
  23. ^ 「松島」より北で、更に鬱陵島の実際の位置より西に大きくずれていた。

外部リンク

太政官指令が出される1877年までの地図