種子島恵時

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種子島恵時
時代 戦国時代
生誕 文亀3年(1503年
死没 永禄10年3月14日1567年4月23日
諡号 意釣
戒名 蓮住院日善大居士
官位 加賀守、左兵衛尉
氏族 種子島氏
父母 父:種子島忠時、母:蒲生宣清の女
兄弟 恵時蒲生茂清時述、時立、時是、時貞
島津忠興の女
時尭時式、日法
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種子島 恵時(たねがしま しげとき)は、戦国時代武将種子島氏第13代当主。

生涯[編集]

文亀3年(1503年)、第12代当主・忠時の子として生まれる。

恵時が家督を継承する頃、薩摩国島津勝久とその養子である島津貴久との間で分裂しており、この抗争で恵時は貴久方に加勢し、天文7年(1538年)の加世田城攻めや天文8年(1539年)の市来城攻めなどで武功を大いに挙げている。しかし、南北朝時代より種子島の実権をめぐって争っていた禰寝氏との対立がこの頃激化。弟である種子島時述との対立を禰寝氏に付け込まれ禰寝清年(もしくは禰寝重長)との戦いに敗れ、一時的に屋久島に逃れることになった。この争いは天文13年(1543年)に恵時が禰寝氏を攻め種子島・屋久島から駆逐することで一時的に決着をみた。

これと前後して天文13年(1543年)に鉄砲種子島に伝来。『鉄炮記』などこの事項を示す文書には主に子の時尭が登場していることから、この前後に時尭に家督を譲っていたと考えられている。

永禄10年(1567年)3月14日に死去。享年65。