秋篠安人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
秋篠安人
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平勝宝4年[1]752年
死没 弘仁12年1月10日[2]821年2月15日
官位 従三位参議
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 土師氏(土師宿禰)→秋篠氏(秋篠宿禰、秋篠朝臣)
父母 父:土師宇庭
テンプレートを表示

秋篠 安人(あきしの の やすひと)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿阿波守土師宇庭の子。官位従三位参議

出自[編集]

公卿補任』『尊卑分脈』などの基本史料では阿波守・土師宇庭(宇遅)の子とされる[3]

経歴[編集]

もともと土師宿禰姓であったが、同族の古人らが天応元年(781年)本拠地(大和国添下郡菅原)の地名に因んで、菅原宿禰改姓したことと同様に、翌天応2年(782年)に安人も改姓を願い出て、本拠地(大和国添下郡秋篠)の地名に因み、併せて兄弟6人が秋篠宿禰姓を与えられた。改姓理由として、土師氏は埴輪を発明した野見宿禰の子孫として、専ら凶儀である葬送儀礼に携わってきたが、この状態は不本意であることを挙げている(この時の官位は正八位上少内記[4]。こののちも外記や内記と文書作成を行う官職を務める一方、延暦9年(790年)には朝臣姓を賜与されている。

延暦8年(789年従五位下、延暦10年(791年内位の従五位下に昇叙される。延暦10年(791年少納言、延暦15年(796年左少弁、延暦17年(798年)左中弁と、桓武朝中盤は太政官の実務官僚を務める一方で、右兵衛佐中衛少将と武官も兼帯した。またこの間、延暦15年(796年)従五位上、延暦16年(797年菅野真道らと『続日本紀』の編纂を完了させて正五位上、延暦19年(800年)には従四位下に叙せられるなど順調に昇進を果たしている。

延暦24年(805年)に菅野真道に続いて参議に任ぜられ公卿に列し、右大弁近衛少将を兼ねる。延暦25年(806年平城天皇即位すると左大弁左衛士督に昇進し、春宮大夫春宮は神野親王のち嵯峨天皇)も兼ねるが、翌大同2年(807年伊予親王の変に関与したとして、造西寺長官に左遷の上、他の官職を全て罷免され失脚する。しかし、大同3年(808年)右大弁に復すと、翌年には左大弁に任ぜられている。

嵯峨朝に入ると、大同5年(810年)に発生した薬子の変後に復権、参議に還任されて、左大弁・左兵衛督を兼任する。弘仁6年(815年)には従三位に叙せられた。またこの間、嵯峨天皇の命により編纂された『弘仁格式』も手がけている。

弘仁12年(821年)正月10日薨去享年70。最終官位参議従三位近江守[5]

官歴[編集]

注記のないものは『六国史』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本後紀』弘仁12年正月10日条記載の死去時年齢70歳による逆算。『公卿補任』では天平勝宝6年(754年)生まれとする。
  2. ^ 『日本後紀』弘仁12年正月10日条。『公卿補任』では2月10日とする。
  3. ^ 『公卿補任』『尊卑分脈』「菅原氏系図」(『群書類従』所収)
  4. ^ 『続日本紀』延暦元年5月21日条
  5. ^ 『日本後紀』弘仁12年正月10日条。『公卿補任』では弘仁11年(820年)正月に参議を致仕したとする。
  6. ^ a b 『外記補任』
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『公卿補任』
  8. ^ 中野高行「尊経閣文庫所蔵『外記補任』の補訂再考 : 八・九世紀分について」『史学』57巻、三田史学会、1987年

出典[編集]