秋田港

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秋田港
Akita Port 1.jpg
所在地
日本の旗 日本
座標 北緯39度45分34.25秒東経140度2分33.95秒
詳細
開港 1965年
管理者 秋田県
種類 重要港湾
陸地面積 662.5ha
統計
統計年度 2010年
貨物取扱量 7,319,586t
コンテナ数 34,563TEU(2010年速報値)
旅客数 77,413人

秋田港(あきたこう)は秋田市の西部に位置する港湾。港湾管理者は秋田県であり、重要港湾の指定を受けている。コンテナターミナルも整備されている。秋田火力発電所も同地に立地している。

旧雄物川(秋田運河)の河口に位置し、古くから交通の要所として栄えた。北前船の寄港地ともなった土崎に立地し、1941年まで土崎港と称した。かつては八橋油田で採掘された石油製油所が建ち並んでいたため、土崎空襲の標的ともなった。環日本海地区の港湾としては最大規模で、近年とくに開発が進んでいる。ウラジオストク中国の各都市と定期便が就航している。

目次

[編集] 沿革

近江谷栄次、刈田義門、金子為吉を讃える石碑
(セリオン近く)
近江谷栄次、刈田義門、金子為吉を讃える石碑碑文(右・前半、左・後半)「井堂近江谷栄次翁は独特の先見性をもって地方文化の開発に破天荒の貢献をなし殊に築港問題には身を挺して当り土崎湾頭に廣井波止場を実現させる等秋田に青年近江谷ありの名を馳せた。刈田義門翁は港の近代化を志し要路に熾烈な運動を展開して遂に大願成就昭和3年8月20日盛大な土崎築港起工式を挙げた。金子為吉翁は昭和4年濱口内閣の緊縮政策によって築港工事が打ち切りとな」(後半へ)「り全町が憂色に包まれた時幾たびか上京して其復活に協力した。嗚呼三翁は既に亡き数に入ったが秋田港の今日をあらしめた翁代々の土崎人情は我が郷土に不滅の光芒を放ち続けるであろう昭和51年丙辰7月20日 近江谷栄次、刈田義門、金子為吉を讃える石碑碑文(右・前半、左・後半)「井堂近江谷栄次翁は独特の先見性をもって地方文化の開発に破天荒の貢献をなし殊に築港問題には身を挺して当り土崎湾頭に廣井波止場を実現させる等秋田に青年近江谷ありの名を馳せた。刈田義門翁は港の近代化を志し要路に熾烈な運動を展開して遂に大願成就昭和3年8月20日盛大な土崎築港起工式を挙げた。金子為吉翁は昭和4年濱口内閣の緊縮政策によって築港工事が打ち切りとな」(後半へ)「り全町が憂色に包まれた時幾たびか上京して其復活に協力した。嗚呼三翁は既に亡き数に入ったが秋田港の今日をあらしめた翁代々の土崎人情は我が郷土に不滅の光芒を放ち続けるであろう昭和51年丙辰7月20日
近江谷栄次、刈田義門、金子為吉を讃える石碑
碑文(右・前半、左・後半)
「井堂近江谷栄次翁は独特の先見性をもって地方文化の開発に破天荒の貢献をなし殊に築港問題には身を挺して当り土崎湾頭に廣井波止場を実現させる等秋田に青年近江谷ありの名を馳せた。刈田義門翁は港の近代化を志し要路に熾烈な運動を展開して遂に大願成就昭和3年8月20日盛大な土崎築港起工式を挙げた。金子為吉翁は昭和4年濱口内閣の緊縮政策によって築港工事が打ち切りとな」(後半へ)「り全町が憂色に包まれた時幾たびか上京して其復活に協力した。嗚呼三翁は既に亡き数に入ったが秋田港の今日をあらしめた翁代々の土崎人情は我が郷土に不滅の光芒を放ち続けるであろう
昭和51年丙辰7月20日

[編集] 国際航路

[編集] フェリー航路

[編集] アクセス

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク