九戸城

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九戸城
岩手県
九戸城の堀
九戸城の堀
別名 福岡城、宮野城、白鳥城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 なし
築城主 九戸光政
築城年 明応年間(1492年 - 1501年)
主な改修者 蒲生氏郷
主な城主 九戸氏南部氏
廃城年 寛永13年(1636年
遺構 曲輪、石垣、堀、土塁
指定文化財 国の史跡[注 1]
位置 北緯40度16分03秒 東経141度18分16秒 / 北緯40.26750度 東経141.30444度 / 40.26750; 141.30444座標: 北緯40度16分03秒 東経141度18分16秒 / 北緯40.26750度 東経141.30444度 / 40.26750; 141.30444
地図
九戸城の位置(岩手県内)
九戸城
九戸城
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九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内[2]にあった日本の城。後に盛岡へと移るまで南部氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である[注 2]。別名「宮野城」。国の史跡に指定されている[注 1]

概要[編集]

中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。正確な年は不明である[4]が、九戸氏が九戸城を築城し移ったのが、『系胤譜考』では7代目光政のとき、『奥南落穂集』では12代目信実の代という。また、11代目(『奥南落穂集』の代数では14代目)政実が二戸を加増されて移ったとされる説もある。

九戸政実の乱」以後、蒲生氏郷によって改修されて南部宗家の本城となった。

西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫淵川により、三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)[注 3][5][6]松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。

城跡は、1935年昭和10年)6月7日、国の史跡に指定され[7][注 1]、現在は保存整備されている。ただし、三の丸跡は大部分が市街地となっており、史跡指定対象外となっている[4]

沿革[編集]

以前から城主・九戸政実は、南部一族内の石川(南部)信直と対立し抗争していたが、南部宗家相続争いで九戸氏を差し置いて惣領を継承した南部信直に対し天正19年(1591年)兵を挙げる。これは、南部信直が豊臣秀吉から領地安堵をとりつけていたため豊臣政権への反乱とみなされた。陸奥国では他にも大規模な一揆など起きており、秀吉は豊臣秀次を総大将に浅野長政蒲生氏郷関東奥羽の諸将を鎮圧軍として派遣する。鎮圧軍は一揆を平定しながら北進し、9月2日約6万の兵で九戸城を包囲、助命の約束で9月4日に降伏開城させた。しかし約束は反故にされ、政実はじめ主だった首謀者は処刑され、城内にいた者は女、子供構わず撫で斬りにされて皆殺しされた。平成になって城内から人骨が多数発掘されたが[8][9]、この時に殺害された人たちであるかどうかは判明していない。

この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとされるが、天下の豊臣軍が攻めあぐんだ末に謀略、反故、撫で斬りといった史実は歴史書から抹消されたともいわれる。二ノ丸跡の発掘調査で、首を刎ねられて刀傷を負った、女性を含む複数の人骨が発掘されている[10]。この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部家の本城として南部信直に引き渡されて三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めた。しかし領民は九戸氏への思いから九戸城と呼び続けた[10]

慶長2年(1597年)の不来方(盛岡)築城によって南部氏の居城は盛岡城へ移されたが、城は寛永13年(1636年)の廃城、破却まであった[5]

平成元年(1989年)から九戸城の史跡環境整備事業が行われ、本丸・二ノ丸跡を中心に継続的に発掘調査が行われた[1]。平成7年(1995年)には二ノ丸跡で墓穴が発見され、刀傷や刺傷のある人骨が多数発見された。平成11年(1999年には二ノ丸跡で工房の遺構が発見され、鎧の札などが発見された。これらの調査で多くの出土品が発見されて、九戸氏が近隣だけではなく日本の中心である京都や大阪等の中央とも交流があり、交易が行われていたことが裏付けられた。

平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(104番)に選定された。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b c 指定地の総面積は約211,911㎡[1]
  2. ^ 江戸時代に描かれた古図が複数残っているが、「九戸城」・「九戸古城」等の表題・解説がついており、「福岡城」と印された物は見当たらない[3]
  3. ^ 東北地方でいう「館」の意味は曲輪にあたる。用例には、根城の沢里館(さわさとだて)や七戸城の宝泉館(ほうせんだて)などがある。

出典[編集]

  1. ^ a b 関1995、223頁
  2. ^ (地図閲覧サービス) 国土地理院
  3. ^ 関1995、224頁
  4. ^ a b 『図説日本の史跡 第6巻 中世』、同朋舎、1991
  5. ^ a b 日本名城百選
  6. ^ 財団法人日本城郭協会監修『日本100名城 公式ガイドブック』学習研究社 2007年
  7. ^ 九戸城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  8. ^ 発掘調査により新事実
  9. ^ 九戸城跡
  10. ^ a b 二戸市教育委員会 九戸城跡

参考文献[編集]

  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 関豊「史跡九戸城跡(福岡城跡)について」『中世城郭研究』第9号、中世城郭研究会、1995年、222-225頁、ISSN 0914-3203  - 第11回全国城郭研究者セミナー(1994年8月6日開催)における同氏の報告の要旨。
  • 小和田哲男監修『日本の城』小学館〈ビジュアルワイド〉、2005年3月。ISBN 4-09-681563-2 
  • 村田修三総監修 著、八巻孝夫ほか 編『日本名城百選』小学館〈ビジュアル・ワイド〉、2008年。ISBN 978-4096815649 

関連項目[編集]