祥鳳型航空母艦

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祥鳳型航空母艦
祥鳳型一番艦祥鳳
艦級概観
艦種 航空母艦
艦名
前級
次級
性能諸元(竣工時)
排水量 基準:11,200トン
公試:13,100トン
全長 205.5m
全幅 水線幅:18.0m
吃水 6.64m(公試状態)
飛行甲板 長さ:180.0m x 幅:23.0m
エレベーター2基
主缶 ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基 燃料:重油2,320トン
主機 艦本式オール・ギヤード・タービン2基、2軸、52,000馬力
速力 28 ノット
航続距離 18ノットで7,800海里
乗員 787名(准士官以上87名下士官兵700名)
兵装 12.7cm40口径連装高角砲4基
25mm連装機銃4基
搭載機 艦上戦闘機21機、艦上攻撃機6機
補用3機(攻撃機)計30機

祥鳳型航空母艦(しょうほうがたこうくうぼかん)は大日本帝国海軍の小型航空母艦。計画段階では第一状態(平時)が艦隊用高速給油艦とされ、第二状態の空母へ三ヶ月で改造する事が可能なように設計が行われた。

建造背景[編集]

1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮条約により、日本海軍の艦艇保有率は対米英比3対5と決定され日本の保有できる空母の合計基準排水量は8,1000t(米・英:135,000t)となり、その後1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約に於いてワシントン条約では制限外であった10,000tの小型航空母艦も合計排水量に含まれる事となった。このため日本海軍は米英との戦力差を埋める為に、条約で制限外とされた補助艦艇[1]の中でも航空母艦への改装が容易であり、平時の訓練で必要と考えられた潜水母艦(大鯨)、給油艦、水上機母艦(千歳・千代田)計5隻を条約に抵触しない範囲で航空母艦としての構造と航空艤装を持たせた上で建造し、戦時には飛行甲板180m以上、速力31kt、搭載機数30機の艦隊航空母艦として必要な性能を持つ艦へと三カ月程度で改装する事を計画した。なお、平時の潜水母艦、給油艦、水上機母艦は第一状態、戦時の航空母艦は第二状態と呼ばれていたが、この第二状態の存在は最機密の軍機とされており第一状態といった表現を使用する事すら避けられていた。

剣高の建造と第四艦隊事件[編集]

上記の計画に従い1934年(昭和9年)の第二次補充計画(通称②計画)において、艦隊用高速給油艦2隻(剣埼・高崎)の建造が計画された。この2隻の給油艦は横須賀工廠関係者からは両艦の頭文字を取って「剣高」と呼ばれており、第一給油艦(剣崎)は昭和9年(1934年)12月3日に起工され昭和10年(1935年)6月1日に進水し、第二給油艦(高崎)は剣崎から遅れる事一年後の昭和10年(1935年)6月20日に起工され、昭和11年(1936年)6月19日に進水を迎えた。しかし、進水から僅か3ヶ月後の昭和10年(1935年)9月26日に第四艦隊事件が発生した為、既に進水していた剣崎の艤装工事だけでなく未だ船台にあった高崎についても工事が中断される事となった。この第四艦隊事件の際に赤軍第四艦隊第三戦隊として参加していた大鯨は電気溶接を使用した隔壁部分に多数の大中小の亀裂が入り艦橋前方外板に艦体切断の前兆である皺が発生するという被害を被っており、他の艦艇も様々な被害を受けた事で特型駆逐艦以降に建造された艦は船体強度不足である事が発覚した。そのため建造中の艦も含む多くの艦に補強と改善が実施される事となり、既に進水している剣崎に対しても電気溶接部分に補強が施される事となり、船台にあった高崎については補強だけではなく船殻の一部に鋲構造が再び採用される事となった。しかし、両艦の工事が進められていたこの時期は、先の友鶴事件で発覚した問題の改善や第二期改装計画で多くの主力艦の改装が行われていただけでなく蒼龍の建造も開始されていた時期であったため各工廠は多忙を極め、そこに新たに発生した第4艦隊事件の対策・改善も加わった事で剣高の給油艦としての艤装工事は重要工事の合間を縫って行われる事となり完成は大幅に遅れる事となった。このため、剣高は進水後横須賀軍港に係留され工事が殆ど進められる事も無く放置される事となった。

剣高の建造計画の変遷[編集]

1936年(昭和11年)末にロンドン軍縮条約が破棄され無条約時代が訪れるとともに、1937年(昭和12年)の日華事変勃発に伴い民間の高速タンカーの徴用が可能となった事で剣高を給油艦として完成させるか否かが問題となり、大型・高速化の進む潜水戦隊の旗艦として大型の高速潜水母艦の更なる建造が切望されていた事もあって1937年(昭和12年)12月10日に剣高の第一状態がより短期間で空母へと改装が可能な潜水母艦へと変更され、給油艦としてではなく潜水母艦として完成させることが決定された。このため放置されていた剣高の工事は本格的に再開される事となり、給油艦としての艤装が進んでいた剣崎が先に潜水母艦へと改装される事となったが、この際剣崎では飛行機エレベータの設置の為の事前工事が行われ前部エレベーターは平時の潜水母艦としての運用を考え敢えて搭載せずに陸上保管とし、後部エレベータは搭載した後に閉鎖する形で2基とも装備され、最上甲板以上の構造物に伸縮接手が設けられた他、艦橋直後の上部格納庫部を設けずウェルデッキ構造を採用し短艇、水上機の格納場所とするなど大鯨の運用実績も踏まえた改正が行われた上で、1939年(昭和14年)1月15日軍艦剣崎として竣工した。高崎についても剣崎と同様に潜水母艦として完成させる予定となっていたが、1939年(昭和14年)に9月に準戦時工事(出師準備の一部実施)が発令された事に伴い同年同月に第二状態の空母として完成させるように計画が変更され、1940年(昭和15年)1月に航空母艦への改装工事が開始され同年12月27日に完成し高崎から瑞鳳へと改名され第三航空戦隊へと編入された。 剣崎は約1年第二潜水隊旗艦として運用された後1940年(昭和15年)11月15日に航空母艦への改装工事が開始され、1941年(昭和16年)12月22日に完成し祥鳳と改名され同日第四航空戦隊へと編入された。 なお、大鯨と剣高では航続距離を十分な物とすると同時に航空母艦への改装を容易にするために主機としてディーゼル機関が採用されており、この11号10型、11型12型内火機械(複動ディーゼル)は昭和1939年(昭和13年)に館山沖で行われた剣崎の公試では56,560馬力、29.2ktの成績を示し、10日後の最終的な全力運転の際にも28ktを発揮したが公試時に故障が発生したため剣崎が第二潜水隊へ編入された際には17ktを上限として運用されていた。しかし、調整が難しく故障が相継ぎ[2]計画出力の6割程度の出力しか発揮できなかったディーゼル機関は最終的には空母の主機としては不適切と見なされ主機は剣高が航空母艦へと改装される際に同出力の陽炎駆逐艦用の罐と主機を流用し蒸気タービンへと換装されることとなった。このため剣高には大規模な改正が必要となり当初予定されていたように第一状態から第二状態への改装には三ヶ月では無く約一年という長い期間が必要となった。

祥鳳・瑞鳳の特徴[編集]

空母としての祥鳳型は、排水量1万トンクラスの軽空母である。平甲板型であり、島型艦橋は有していない。ハリケーンバウではなく、低艦舷であり飛行甲板の先端と末端は支柱により支えられている。エレベータは艦の前部と後部に一基ずつ設置されており、煙突は右舷中央部に大型のものが下向きに1本、元来主機にディーゼル機関を使用する予定であった為補助罐が搭載されており、その関係で右舷後方の船尾近くに起倒式の小煙突が設けられていた。また瑞鳳、祥鳳の特徴としては、艦首水線下の形状が鉛直線より30度傾斜しそのまま直線となって艦底の丸み部分まで伸びている点と船尾で軽く傾斜した飛行甲板などが挙げられる。

戦歴[編集]

南洋部隊(第四艦隊)による交渉の結果、昭和16年12月1日に第四艦隊第六戦隊に編入され南洋部隊唯一の航空母艦として輸送任務、対潜哨戒・直衛任務に従事していた祥鳳がMO攻略部隊の上空直衛艦としてツラギ攻略支援の後にMO攻略部隊に合流し、昭和17年5月7日の珊瑚海海戦にて米空母ヨークタウン、レキシントンより出撃した97機に上る攻撃隊による空襲を受けて日本海軍初の喪失空母となったのとは対照的に開戦後の瑞鳳は鳳翔と共に第三航空戦隊として第一艦隊の上空直衛に従事し、ミッドウェーで空母4隻が失われてからは日本海軍機動部隊として最後の戦いとなったレイテ沖海戦まで、第一線で戦い続けることになった。

同型艦[編集]

  • 祥鳳 - 起工、1934年12月3日。1939年1月15日、軍艦剣埼(潜水母艦)として竣工。1941年12月22日、祥鳳(航空母艦)に改名

1942年5月7日、アメリカ軍機の攻撃により戦没。

  • 瑞鳳 - 起工、1935年6月20日。1940年12月27日、瑞鳳(航空母艦)として竣工。1944年(昭和19年)10月25日、アメリカ軍機の攻撃により戦没。

祥鳳型に酷似している龍鳳が同型艦に含められる場合もある[要出典]が、艦としては別型となる。ただし艦隊運用上は同型艦として扱われた[要出典]

参考文献[編集]

  • 長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年
  • 雑誌「丸」編集部、写真|日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ、光人社、1989年
  • 「南東方面海軍作戦<1>-ガ島奪還作戦まで-」著者:防衛庁防衛研究所修所戦史室 出版:朝雲新聞社 1971年
  • 「日本空母物語」 著者:福井静夫 出版:光人社 1996年 ISBN:4-7698-0655-8
  • 「日本の軍艦-わが造船技術の発達と艦艇の変遷-」 著者:福井静夫 出版:出版協同社 1960年 ISBN:4-87970-015-0
  • 「ハンディ版日本海軍艦艇写真集⑦」 著者:雑誌「丸」編集部 出版:光人社 1996年 ISBN:4-7698-0777-5
  • 雑誌「丸」編集部『丸 2014年 08月号』(光人社、2012年)
  • 「日本海軍全艦艇史 上巻」 著者:福井静夫 出版:ベストセラーズ 1995年 ISBN:4-584-17054-1
  • 「戦艦大和」 著者:平間洋一 出版:講談社 2003年 ISBN:4-06-258269-4

関連項目[編集]

  1. ^ 20kt以内、備砲6.1インチ砲以下、3インチ以上の砲4門以内etcの制限あり。
  2. ^ ピストンロッドの損傷、下部ピストン舵腹部分の破損が多かったとされ、故障を無くす為力量を低下して使用する必要があるとされていた。