神戸姫路電気鉄道1形電車

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神戸姫路電気鉄道1形電車
明石駅で撮影された神戸姫路電気鉄道1形電車。不鮮明だが前照灯非装備であること、集電装置としてトロリーポールを搭載し、妻面中央窓下にトロリー・リトリーバーを設置していること、それに連結器が自動連結器であることがわかる。
基本情報
運用者 神戸姫路電気鉄道
製造所 川崎造船所兵庫分工場
製造年 1923年
製造数 15両
廃車 1927年
主要諸元
軌間 1,435 mm
電気方式 直流 1,500 V
最高運転速度 80 km/h
車両定員 92 名(座席44 名)
最大寸法
(長・幅・高)
14,717 mm × 2,740 mm × 3,810 mm
台車 BW-1
主電動機 70 馬力[1]
搭載数 4 個/両
歯車比 2.74
制御装置 RPC-101
制動装置 非常弁付直通ブレーキ
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神戸姫路電気鉄道1形電車(こうべひめじでんきてつどう1がたでんしゃ)は、神戸姫路電気鉄道(神姫電鉄。現・山陽電気鉄道本線山陽明石駅以西を建設した前身企業)が1923年8月の全線開業に当たって製造した通勤形電車である。

概要[編集]

神戸姫路電気鉄道の初代技師長となった高木茂一[2]アメリカ視察の成果を受けて、大阪鉄道デイ1形に続く日本で2番目の直流1,500V電化区間用電動客車として設計され、1 - 15の合計15両が1923年に川崎造船所兵庫分工場(現・川崎重工業兵庫工場)で製造された。

その主要機器はことごとくアメリカからの輸入品であったことが知られている。

車体[編集]

当時としては一般的な、シングルルーフの木造14m級3扉ロングシート車である。車体幅は地方鉄道建設規程が許容する最大値である2.74mで、ゆったりとした印象を与えていた。

窓配置は1D (1) 121 (1) D221 (1) D1(D:客用扉、(1) :戸袋窓)で、外観上扉間の側窓は2枚単位でまとめられており、前面は非貫通3枚窓であるが中央の1枚のみが狭幅とされ、側窓[3]を含む全ての窓が1枚下降式となっている。

台枠は鋼製で、床下には補強・補正用のトラス棒が取り付けられていた。

なお、前照灯は通常装着しておらず、必要に応じ灯具を前面中央窓下に取り付ける方式[4]であった。

主要機器[編集]

電装品は先行する大阪鉄道がウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社製を採用したのに対し、こちらは同じくアメリカ製だが兵庫電気軌道で実績があったゼネラル・エレクトリック(GE)社製で統一されている。直流1,500V対応のために当時の最新鋭機器が全面的に採用されていたのが特徴である。

GE社製の電装品は、日本でもこれ以前から阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)をはじめとする各社に導入されていた。だが、それらの各社では直流600Vあるいは直流1,200Vでの電化となっており、このため特に直流1,500V電化に対応する[5]端子電圧750V仕様のGE社製主電動機の採用事例は本形式向けが日本初となる。

もっとも、1920年代中盤以降はGE社の日本での技術提携先である芝浦製作所で正規のライセンス契約に基づいて主制御器[6]主電動機[7]が製造・供給されるようになったため、1927年以降に宇治川電気で同種機器の新規購入が必要となった際には、それらの芝浦製機器が採用されている。このため、日本で端子電圧750V仕様のGE社製電動機を最初から1500V電化区間対応電車用主電動機として使用する目的で輸入したケースは、この神姫電鉄向け以外では確認されていない。

主電動機[編集]

GE社製GE-263[8]が主電動機として採用された。この電動機は当時既に阪神急行電鉄が神戸線向け新造車に直流600V仕様のものを採用していた[9]。歯数比は2.74で、全界磁での高速運転も可能な設定となっていた。

制御器[編集]

制御器もGE社製の電空カム軸式制御器(PCコントロール)で、当時最新の自動加速制御器の1つである。

ただし、高速運転に必要な弱め界磁は搭載されておらず、全界磁での直並列制御のみに対応したものが採用されている[10]

台車[編集]

BW-78-25A[11]台車として装着した。これも日本製のデッドコピー品ではなく、アメリカのボールドウィン社による純正品のボールドウィンA形が輸入されている。この台車は後に日本製デッドコピー品[12]と区別なく混用された。これらは、最終的には社内形式BW-1として300形に転用されたが、そこでも検査時にたらい回しにされる関係から一切区別されず順不同で装着されたため、わずかながら存在する外観上の識別点[13]からそれと知れるのみであった。

ブレーキ[編集]

空気ブレーキはJ三動弁を用いる制御管式のGE社製AVR(Automatic Valve Release)自動空気ブレーキである。

このブレーキは兵庫電軌が採用していた原始的な直通ブレーキと比較して長大編成[14]・高速運転に適したシステムであった。

集電装置[編集]

直流1,500V電化で先行した大阪鉄道が当初よりパンタグラフを採用していたのに対し、こちらは直流1,500V電化鉄道では日本の鉄道史上唯一となった、トロリーポール集電が採用されている。

このトロリーポールもGE社製で、アメリカの高速電車で一般に用いられていたスライダーシューを使用するタイプではなく、先端にホイールがついた従来通りのタイプのものが選択されている。また、連結運転時には母線引き通しを行わなかったため、2両の電動車双方のトロリーポールを上げて集電を行っており、このため連結運転時に車掌は2人乗務する必要があった。

なお、併用軌道区間がなく単式架線方式を採用していたためポールの本数は前後各1本で、併用軌道区間に埋設された水道・ガス管の腐食防止を理由として複式架線方式の採用を強いられたために前後に2本ずつポールを搭載していた兵庫電軌とは状況が異なっていた。

連結器[編集]

標準軌間で省線との直通貨物も存在しなかったため、当時最新の自動連結器[15]が採用された。

運用[編集]

神姫電鉄開業後、唯一の旅客車として明石 - 姫路間の全線で運用された。神姫電鉄は制御車を製造しなかったため、本形式はその在籍期間を通じて常に同型車のみによる全電動車編成で1両、あるいは2両編成にて運行された。

だが、1927年に神姫電鉄と兵庫電気軌道が相次いで宇治川電気に買収されたことで、本形式を取り巻く状況は一変した。

架線電圧直流1,500V、車体幅2.74mの本形式では架線電圧直流600V、車体幅2.4mの旧兵庫電気軌道区間への入線が物理的に不可能であったため、両区間を直通する列車の運行開始に当たり窓配置は本形式と同様であるが車体幅を2.4mに縮小した半鋼製の新車体を製造した上で本形式の車体を廃棄、主要機器を複電圧対応へ改造の上で流用する51形が新造されることとなった。

それゆえ、1927年に本形式は車齢わずか4年にして全車が51形への機器供出のため廃車され、形式消滅となった。

廃車後[編集]

1927年の廃車後、まだ新しい1 - 9の車体は近江鉄道の電化時に譲渡され、新造の電装品や台車などと組合わせてデハ1形となった[要出典]

これに対し、近江への車体搬出後も明石工場構内に残されていた10 - 15の車体は、戦時中の車両不足の際に再起を果たすこととなった。明石工場で車体を心皿間の中心線で唐竹割りにし、その切断面で0.34m分幅を詰めてから再度結合し、車体幅を縮小するという前代未聞の大工事を施工の上[16]、工場手持ち機器を艤装の上で電動車の2代目76形76 - 81として現役復帰した。

本形式は一まとまりの車両としては極めて短命であったが、宇治川電気51形(→山陽100形)→250形270形・300形と流用を繰り返した主要機器も、上述の通り全数が再起した車体も、戦災で焼失した2代目76形の3両を除きいずれも長期間にわたって有効活用されており、その後の車両・建築限界の基準[17]となるなど、山陽・近江両社の以後の車両設計に大きな影響を与えた重要な車両である。

脚注[編集]

  1. ^ 文献によって「70 PS」(=51.5 kw)と「52.2 kw」(=70 HP)が混在しており、仏馬力なのか英馬力なのかは不明
  2. ^ 後の山陽電気鉄道第三代社長。
  3. ^ 戸袋窓を除く。
  4. ^ 当時は昼間には前照灯を点灯することはなく灯具未装着での運行が大半であり、しかもその運用がわずか4年と短期間で終了したため、灯具装着状態を示す鮮明な記録写真は発見されていない。なお、メーカーである川崎造船所で撮影されたメーカー公式写真は、電装品および台車の艤装が神姫電鉄納入後に実施されたため、同社構内で車体のみが貨車に積載された出荷直前の状態で撮影されている。
  5. ^ 直流1,200V仕様の場合は1両あたり2基ないしは4基搭載される主電動機を2基ずつ直列接続して使用するため、主電動機は直流600Vの場合と同じ端子電圧600Vのものが使用される。
  6. ^ RPC-101。PCコントロールの同等品。
  7. ^ SE-107。電気的仕様はGE-263と同一。
  8. ^ 神姫→山陽での公称性能は端子電圧750V時1時間定格出力52kW(70馬力)、定格回転数780rpm
  9. ^ 阪急での公称性能は端子電圧600V時定格出力48kW/720rpm。
  10. ^ このため、後年の山陽電気鉄道では、特急運転を契機としてこのPCコントロールと、増備車に搭載された同等品の芝浦製作所RPC-101に対して弱め界磁制御に必要な界磁接触器を追加する工事を順次実施している。
  11. ^ 心皿荷重上限25,000ポンド(11.34t)、軸距78インチ(1,981mm)で平鋼リベット組立構造のイコライザー式台車。
  12. ^ 汽車製造会社日立製作所、それに自社工場で製造したものを使用した。
  13. ^ ボールドウィン製のオリジナル品はヨークの部分の形状が段落ちで、他の国産同等品各種とは異なっていた。
  14. ^ もっとも、実際には神姫電鉄開業から後身である山陽電気鉄道100形・1000形の淘汰まで、最大2両編成での運用に留まった。100形・1000形は250形および270形へ更新され、特に後者では3両編成が後年常態化したが、これらは元空気溜管式のAブレーキが新製搭載されている。
  15. ^ これも本形式設計当時は国産品が存在しなかったため、シャロン式自動連結器が輸入されている。
  16. ^ 戦後、京成電鉄が国鉄より戦災電車を購入しクハ2000形として投入した際も、同種の縮幅改造を行っているが、いずれにせよ極めて希少な事例である。車体載せ替えを伴わず、外部ステップの脱着等でなしに、車体そのものの幅員を根本的に大幅縮小改造する工事は、構体を一旦台枠・骨組レベルまで解体する必要があって基本的に容易でなく、通常行われることではない。山陽・京成の事例は、戦中・戦後の混乱期における極端な車両需給逼迫・資材不足に伴う例外的ケースである。
  17. ^ 山陽では一旦2.4m幅への縮小が実施されたが、明石 - 姫路間の地上設備はほぼそのまま使用され、さらに明石以東についても線形改良などの際にこれを基準とした改修が順次実施されており、これは戦後山陽がモハ63形700形)の導入強行を決断する重要な伏線となった。また、近江では後年になって700形と同クラスの西武鉄道401系を譲受しているが、これは本線多賀線については地上設備の大改修なしで運行が実施(これに対し八日市鉄道由来の八日市線ホームを削るなどの改修工事を要した)されており、電化時(つまり本形式の車体を流用したデハ1形の入線時)に整備された地上設備が今でも有効に機能していることが見て取れる。

参考文献[編集]

  • 亀井一男 「山陽電気鉄道50型の経歴表について」、『鉄道史資料保存会会報 鉄道史料 第30号』、鉄道史資料保存会、1983年4月
  • 山陽電鉄車両部・小川金治 『日本の私鉄 27 山陽電鉄』、保育社、1983年6月
  • 企画 飯島巌 解説 藤井信夫 写真 小川金治『私鉄の車両 7 山陽電気鉄道』、保育社、1985年8月
  • 『鉄道ピクトリアル』 No.327 1976年11月臨時増刊号 「山陽電気鉄道・神戸電気鉄道」特集、電気車研究会、1976年11月
  • 『鉄道ピクトリアル』 No.528 1990年5月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」、電気車研究会、1990年5月
  • 『鉄道ピクトリアル』 No.711 2001年12月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」、電気車研究会、2001年12月

関連項目[編集]