硫黄島の戦い

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硫黄島攻防戦 から転送)
硫黄島の戦い

1945年2月23日、摺鉢山に翻った星条旗とU.S.M1カービンを構える兵士
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1945年2月16日から3月26日
場所硫黄島日本
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指揮官
栗林忠道中将
千田貞季少将
リッチモンド・ターナー中将
ホーランド・スミス中将
ハリー・シュミット少将
戦力
22,786 110,000
損害
戦死 20,129(軍属82を含む)
捕虜 1,023
戦死 6,821
戦傷 21,865
日本本土の戦い
- 硫黄島 - 沖縄戦 - 菊水作戦 - 大和特攻 - 呉軍港空襲 - 本土空襲 - ソ連の侵攻 - 本土決戦 -
硫黄島と日本本土の位置関係
硫黄島の衛星写真(2000年)、左下が摺鉢山
硫黄島遠景(2007年)
摺鉢山遠景(2007年)

硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい/いおうじまのたたかい[1], Battle of Iwo Jima, 1945年2月16日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争大東亜戦争)末期に小笠原諸島硫黄島において日本軍アメリカ軍との間に生じた戦闘である。

目次

[編集] 概要

1945年2月19日にアメリカ海兵隊の上陸が開始された。3月17日、米軍が島を制圧し、日本軍の部隊が多数玉砕した。3月21日になって、大本営は17日に玉砕したと発表。3月26日、栗林忠道大将以下300名余りが最後の攻撃を仕掛けるが玉砕。これにより組織的戦闘は終結した。

後援・救護部隊を持たなかった日本軍は、2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死した。損傷率は96%にのぼる壮絶な激戦であった。

一方、アメリカ軍は戦死6821名・戦傷2万1865名の計2万8686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の島嶼での戦闘において、アメリカ軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等[2]の合計)実数が、日本軍を上回った稀有な戦いであった。

[編集] 背景

硫黄島は、東京の南約1,080キロ、グアムの北1,130キロに位置し、小笠原諸島に属する火山島である。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの名称がつけられた。長径は北東から南西方向に8キロ未満、幅は北部ではおよそ4キロ、南部ではわずか800メートルである。面積は21平方キロ程度、最高点は島の南部にある標高169メートルの摺鉢山である。土壌は火山灰のため保水性はなく、水は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していた。

日本軍は1941年の開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていた。開戦後、南方戦線と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として硫黄島の重要性が認識され、海軍が摺鉢山の約2キロ北東に千鳥飛行場を建設し、航空兵1,500名および航空機20機を配備した。

1944年2月、アメリカ軍はマーシャル諸島を占領し、トラック島へ大規模空襲を行った。大本営カロリン諸島からマリアナ諸島小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定する。防衛線の守備兵力として小畑英良中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官に栗林忠道中将が就任した。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達した。

1944年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し、11月以降B-29による日本本土への長距離爆撃を開始した。しかし、小笠原諸島は日本本土へ向かうB-29を見張り、無線で報告する早期警戒システムの索敵拠点として機能していた。特に硫黄島からの報告は最も重要な情報源であった。これにより、日本軍は戦闘機をB-29の迎撃に向かわせることができ、日本の都市を焼かれつつも多数のB-29を返り討ちにする戦果を収めていた。またマリアナ諸島からの出撃では、距離の関係上護衛戦闘機が随伴できず、さらに日本上空で損傷を受けたり故障したB-29がマリアナ諸島までたどり着けず海上に不時着することも多かった。そして、しばしば日本軍の爆撃機飛龍銀河一式陸攻が硫黄島を経由してマリアナ諸島にあるB-29の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えていた。とりわけ、12月には硫黄島を飛び立った零戦隊「第一御楯特別攻撃隊」の機銃掃射によって、サイパンのイスレイフィールド・アスリート両飛行場で11機のB-29が破壊され、8機が大きな損害を受けた。

アメリカ統合作戦本部は、

  • 日本軍航空機の攻撃基地の撃滅
  • 日本軍の早期警報システムの破壊
  • 硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消
  • 損傷爆撃機の中間着陸場の確保
  • 長距離護衛戦闘機の基地の確保

等を目的として、硫黄島の占領を決定した[3]。フィリピンにおけるレイテ島の戦いが終わりに近づくと、沖縄侵攻までの2か月間に行う作戦計画として硫黄島攻略が決定された。進攻作戦は「デタッチメント作戦」と名付けられた。

[編集] 日本軍の防御計画

[編集] 地下陣地の構築

栗林中将は1944年5月に父島へ赴任した。当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は硫黄島へ進攻すると判断し、無防備に等しかった硫黄島へ直ちに司令部および第109師団を移動させた。制空権制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白であった。しかし栗林中将は上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていた。防御計画の第一歩として軍人、軍属を除く民間人の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設されることになった。

ペリリューの戦いでは、日本軍は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功したが、硫黄島の守備隊はこの戦術をさらに発展させた。全島の施設を地下で結ぶ全長28キロの坑道が計画され、設計のために本土から鉱山技師が派遣された。栗林中将は兵員に対して、時間の7割を訓練、3割を工事にあてるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため手工具で掘ることができた。また工事の遅れを無くすため作業中は一切の敬礼をやめるように命令するなど、指示は徹底していた。しかし地下工事は困難の連続だった。激しい肉体労働に加えて、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、摂氏30度から50度の地熱に曝され、連続した作業は5分間しか続けられなかった。

坑道は深いところでは地下12メートルから15メートル、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数キロに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えていた。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。

栗林中将は島北部の北集落から約500メートル北東の地点に司令部を設置した。司令部は地下20メートルにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番めに高い屏風山には無線所と気象観測所が設置された。そこからすぐ南東の高台上に、硫黄島の全火砲を指揮する街道長作大佐の本部が置かれた。その他の各拠点にも地下陣地が構築された。地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所であった。長さ50メートル、幅20メートルの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造は栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり、地下20メートルの坑道がここに繋がっていた。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2メートルもあった。

硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。至るところにトーチカが設置され、さらに西竹一中佐の戦車隊がこの地区を強化していた。第二防衛線は、硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百メートルから元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。第二線の防御施設は第一線より少なかったが、日本軍は自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。摺鉢山は海岸砲およびトーチカからなる半ば独立した防衛区へと組織された。戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削された。摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていた。

1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰セメントと混ぜることでより高品質のコンクリートができることがわかり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって建設資材が思うように届かないなどの理由で、結局坑道は全長28キロの計画のうち18キロ程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残り僅かなところで未完成のままアメリカ軍を迎え撃つことになった。だが戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。

[編集] 兵力の増強

日本軍の増援部隊も徐々に硫黄島へ到着した。栗林中将はまず大須賀應少将指揮下の混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動させた。旅団長は12月に千田貞季少将に交代する。サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する歩兵第145連隊2,700名も硫黄島へ転進した。海軍ではまず第204建設大隊1,233名が到着し、速やかに地下陣地の建設工事に着手した。8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて航空隊および地上整備員2,216名が到着した。

次に硫黄島に増強されたのは砲兵だった。1944年末までに75ミリ以上の火砲361門が稼動状態となった。内訳は320ミリ臼砲12門、150ミリ中迫撃砲と81ミリ軽迫撃砲65門、80ミリ以上の沿岸砲33門、および75ミリ以上の高射砲94門などであった。さらに200門を超える20ミリおよび25ミリ対空機関砲と、69門の37ミリおよび47ミリ速射砲が揃った。そして日本軍の新兵器、噴進砲(ロケット砲)70門も到着した。これは重さ90キロで射程2~3キロという20センチ弾と、7キロ以上の射程を持つ40センチ弾の両種で、発射後すぐに地下陣地へ退避することができるという利点を持っていた。これらの火力は通常の日本軍1個師団が保有する火力の4倍に達した。

さらに、北満駐屯ののち釜山へ移動していた戦車第26連隊が配備された。連隊長は男爵西竹一中佐で、兵員600名と戦車28両からなっていた。連隊は輸送船「日秀丸」に乗り7月中旬に本土を出航したが、7月18日、父島まで250キロの海上でアメリカの潜水艦「コービア」によって撃沈された。このときの戦死者は2名だけだったが戦車はすべて海没した。補充は12月に行われ最終的に22両が揚陸された。西中佐は当初、戦車を機動兵力として運用することを計画したが、熟慮の結果、戦車は固定砲台として使われることになり、車体を埋めたり、砲塔を分解したりするなどして、上空や地上からわからないよう巧みに隠蔽された。

アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な妨害によって多くの輸送船が沈められたが、1945年2月まで兵力の増強は続いた。最終的に、栗林中将は陸海軍合わせて兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになった。栗林中将は海軍の陸戦要員に対して手厳しい評価を下しており、「海軍の兵員は陸軍の過半数もいるが、その戦闘能力は全く信頼に足らない。陸戦隊の如きは、解体して陸軍に振り向けるべきである」と評し、さらに「陸海軍の縄張り主義を一掃し、両者を一元的ならしむる必要がある」と陸海軍の統合にまで踏み込んだ内容の報告をしている。

[編集] 防御戦術

日本軍の将兵が総力を挙げて要塞化を進める一方で、栗林中将は防御戦術を練っていた。第31軍司令官小畑中将は、上陸には水際防衛で対抗すべしという当時の原則から海岸近くでの戦闘を命じていた。しかし栗林中将は、水際での抵抗はアメリカ軍の艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えていた。(実際にサイパンの戦いで水際作戦を取った際には、上陸3日で3万人の守備隊が壊滅する事態に陥っていた。[4])栗林中将の戦術はサイパン、ペリリューの戦いなどの戦訓を汲み、日本軍が用いてきた水際防御戦術を取りやめ内陸での防御としたものであった。

  1. アメリカ軍に位置が露見することを防ぐために、日本軍の火砲は上陸準備砲爆撃の間は発砲を行わない。アメリカの艦艇に対する砲撃は行わない。
  2. 上陸された際、水際では抵抗を行わない。
  3. 上陸部隊が一旦約500メートル内陸に進んだならば、元山飛行場付近に配置した火器による集中攻撃を加え、さらに、海岸の北へは元山から、南へは摺鉢山から砲撃を加える。
  4. 上陸部隊に可能な限りの損害を与えた後に、火砲は千鳥飛行場近くの高台から北方へ移動する。

栗林中将の採用した戦術は、持久抵抗によって上陸部隊をすり減らすことを狙ったものであった。火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。1945年1月に発令された最終作戦は、強力かつ相互に支援し死守するべき陣地の構築を要求したもので、兵力の急激な減少に繋がる大規模逆襲、撤退、および万歳突撃はいずれも厳禁とされた。

防御準備の最後の数ヶ月間、栗林中将は、兵員の建設作業と訓練との時間配分に腐心した。訓練により多くの時間を割くため、北飛行場での作業を停止した。12月前半の作戦命令により、1945年2月11日が防御準備の完成目標日とされた。12月8日、アメリカ軍航空部隊は硫黄島に800トンを超える爆弾を投下したが、日本軍陣地には損害をほとんど与えられなかった。以降、アメリカ軍のB-24爆撃機がほぼ毎晩硫黄島上空に現れ、航空母艦巡洋艦も小笠原諸島へ頻繁に出撃した。頻繁な空襲で作業は妨害され、守備隊も眠れぬ夜が続いたが、実質的に作業進行が遅れることはなかった。1月2日、十数機のB-24爆撃機が千鳥飛行場を空襲し損害を与えたが、栗林中将は応急修理に600名を超える人員と、11台のトラックおよび2台のブルドーザーを投入し、飛行場をわずか12時間後に再び使用可能とした。この飛ばす飛行機も無いのに行われた飛行場修復を後に栗林中将は決別電報で批判しており、結局日本軍の必死の努力によって修復された飛行場を使用したのはアメリカ軍であった。

1945年1月5日、市丸少将は指令所に海軍の上級将校を集め、レイテ沖海戦連合艦隊が壊滅したこと、そして硫黄島がまもなくアメリカ軍の侵攻を受けるだろうという予測を伝えた。2月13日、海軍の偵察機がサイパンから北西へ移動する170隻のアメリカ軍の大船団を発見する。小笠原諸島の日本軍全部隊に警報が出され、硫黄島も迎撃準備を整えた。

[編集] アメリカ軍の上陸計画

ホーランド・M・スミス海兵隊中将
デタッチメント作戦第一計画

1944年10月9日、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ海軍大将はデタッチメント作戦の準備を発令した。参加兵力は第5艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス海軍大将指揮下の5個任務部隊であった。硫黄島派遣軍総司令官に第51任務部隊司令官リッチモンド・ターナー海軍中将が任命され、第53任務部隊、戦艦を含む水上打撃部隊である第54任務部隊、高速戦艦2隻と空母12隻からなる第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将指揮)、上陸部隊である第56任務部隊(司令官:ホーランド・スミス海兵隊中将)がその指揮下に入った。また硫黄島の戦場にはジェームズ・フォレスタル海軍長官自らの同行視察が予定された。

上陸部隊はシュミット少将指揮下の第5水陸両用軍団(海兵隊第3、第4、第5海兵師団基幹)だった。第3海兵師団はブーゲンビル島の戦いグアムの戦いで既にその名を知られていたが、1944年秋の時点ではまだグアムにあり、残存日本軍の掃討作戦に従事していた。上陸第1波は第4、第5海兵師団(第26連隊を除く)で、硫黄島東海岸に対して第4海兵師団が右側、第5海兵師団が左側に並んで上陸し、第3海兵師団はDデイ+3日まで沖合いで予備兵力として残るとされた。作戦計画は、橋頭堡の迅速な確保と、第5海兵師団には南の摺鉢山、第4海兵師団には右側面の元山周辺の速やかな占領を要求していた。もし両地点の占領に手間取れば、両方向から砲撃を受けて上陸部隊に多数の死傷者が出ると予想された。

東海岸には不利な寄せ波の可能性があったため、西海岸へ上陸する代替計画も立てられたが、北北西の季節風によるうねりの危険性もあり、実行される可能性は低かった。東海岸は摺鉢山から北東へ伸びる約3キロの海岸だった。アメリカ軍はこれを500ヤード(457.2メートル)ごとに7つの区画に分割し、左から右(南西から北東)に向かってグリーン区、レッド1区、レッド2区、イエロー1区、イエロー2区、ブルー1区、ブルー2区と名づけた。

第5海兵師団は、第28海兵連隊が一番西側にあたるグリーン区に上陸し摺鉢山へ進撃する。その東側には第27海兵連隊が上陸し西海岸まで到達、次に北東へ向きを変えて作戦区域「O-1ライン」まで前進する。第26海兵連隊は予備兵力とされた。第4海兵師団は、第23海兵隊がイエロー1区とイエロー2区に上陸し、千鳥飛行場を占領して北東へ進撃、元山飛行場の一部と作戦区域「O-1ライン」内を制圧する。第25海兵隊はブルー1区に上陸後、千鳥飛行場とブルー2区を占領しつつ、北東方向へ進撃して作戦区域「O-1ライン」への到達する。第24海兵隊はDデイ初日は予備とされた。

1945年2月16日、作戦開始を控えた記者会見でスミス中将は説明した。「攻略予定は5日間、死傷は1万5千を覚悟している。」

[編集] 参加兵力

[編集] 日本軍

  • 陸軍 (総兵力 13,586名)
    小笠原兵団直轄部隊
    独立歩兵第17連隊
    歩兵第145連隊 (連隊長: 池田益雄大佐)
    戦車第26連隊 (連隊長: 西竹一中佐
    混成第2旅団 (旅団長: 千田貞季少将、旅団司令部附: 厚地兼彦大佐、旅団司令部附: 堀静一大佐)
    独立歩兵第309大隊
    機関銃中隊 (中隊長: 阿部武雄中尉) - 阿部中隊長は捕虜となるが、戦後、硫黄島協会常任理事となり、戦没者の慰霊に奔走する。
    旅団砲兵 (隊長: 街道長作大佐)
    旅団野戦病院 (病院長: 野口巌軍医大尉) - 4月16日に患者を伴い米軍に投降する。
  • 海軍 (総兵力 7,347名)
    小笠原兵団直轄部隊
    第27航空戦隊 (司令官: 市丸利之助少将)
    硫黄島警備隊 (司令: 井上左馬二大佐)
    南方諸島海軍航空隊
    第204設営隊大隊

[編集] アメリカ軍

  • 硫黄島派遣軍 (総司令官: リッチモンド・ターナー海軍中将、次席指揮官: ハリー・ヒル海軍少将)
    • 第51任務部隊 (司令官: リッチモンド・ターナー海軍中将)
    • 第53任務部隊 (司令官: ハリー・ヒル海軍少将)
    • 第54任務部隊 (司令官: バトラム・ロジャース海軍少将)
    • 第58任務部隊 (司令官: マーク・ミッチャー海軍中将)
    • 第56任務部隊 (司令官: ホーランド・スミス海兵隊中将)
      第5水陸両用軍団 (指揮官: ハリー・シュミット海兵隊少将、参謀長: ウイリアム・ロジャー海兵隊准将、総兵力 61,000名)
      第3海兵師団 (師団長: グレーブス・アースキン海兵隊少将、第9、21連隊、第12砲兵連隊、第3戦車大隊)
      第4海兵師団 (師団長: クリフトン・ケーツ海兵隊少将、第23、24、25連隊、第14砲兵連隊、第4戦車大隊)
      第5海兵師団 (師団長: ケラー・ロッキー海兵隊少将、第26、27、28連隊、第13砲兵連隊、第5戦車大隊)

[編集] 戦闘の経過

[編集] アメリカ軍の強襲準備

マリアナから第7空軍B-24が上陸準備として74日間の連続爆撃を行なったが、水平爆撃ではピンポイント攻撃は不能であり、資材運搬の日本軍の二等輸送艦を数隻(実は参加した全て)撃沈できたのみで日本軍陣地へのダメージは少ないと判断された。そこで、海兵隊は10日以上の準備艦砲射撃を要請したが、艦隊側は沖縄上陸作戦などの事後の作戦の都合から、準備砲爆撃の期間を3日間に短縮した。

理由は、硫黄島と本土との後方遮断の作戦のため空母部隊での日本本土空襲を行う予定であったが、参加予定の米新鋭空母艦隊は2月中旬までは補給が出来ず、しかも、沖縄上陸戦開始への日程がせまっており、B29の戦略爆撃の支援のための硫黄島攻略に、主作戦の日本本土上陸への足がかりの沖縄戦への戦力を削ってまで、硫黄島への兵力を投入はできないというものであった。これは上陸後の海兵隊の苦戦の一因とされている。

そして、2月16日、米高速空母機動部隊は硫黄島上陸の前哨戦とも言える日本本土の攻撃を艦載機によって2日間に渡って行い、航空施設を攻撃し、40機程度の日本機を撃墜した。この攻撃で日本側の注意を、硫黄島上陸作戦からそらし得たと判断した米軍は、硫黄島上陸作戦を開始した。

「第二次世界大戦 あんな話こんな話」(文春文庫)によると、硫黄島には民間人がほとんどいないためと言う理由でアメリカ軍では化学兵器の使用が検討されたが、結局は却下された。このことには、自国兵士の命よりも体面を重視したとの非難もあったと言う。

[編集] アメリカ軍の上陸

米軍の上陸前の攻撃が行われている硫黄島(1945年2月17日)
砲撃を行う戦艦ニューヨーク(1945年2月16日)
硫黄島に向かう米第4海兵師団(1945年2月19日)
摺鉢山付近の海岸に向かう米軍
1945年2月19日
上陸後の戦闘の様子
戦闘の様子
迫撃砲および重砲の攻撃により擱座したLVT

1945年2月16日(日本時間)、アメリカ軍硫黄島派遣軍は硫黄島近海に集結し攻撃を開始した。旧式戦艦6、巡洋艦5よりなる砲撃部隊は、偵察機によって調べられた既知の陣地に砲撃を加え、撃破すれば海図に記載し、次の箇所を撃滅するという、ノルマンディー以来の方法で、各受け持ち地区を砲撃した。そして、これに付随した商船改造の米護衛空母は着弾観測と個別陣地の撃破を行なった。通常弾はほとんど効果がないことから、ロケット弾が多用されるにいたった。効果ありと判断した米軍は、これにより、12隻の歩兵上陸用舟艇が東岸に移動した。すると、日本軍の摺鉢山の重砲が海上を砲撃し9隻を行動不能にし、3隻が大破した。この攻撃により重砲陣地の場所を知った米軍は摺鉢山の重砲陣地に対して「ネバダ」より艦砲射撃を行った[5]。摺鉢山の主要な火砲はほぼ戦力を消失した。あるアメリカ兵は戦友に尋ねた。「俺達用の日本兵は残っているのか?」[6]。しかし、偵察機では窺い知れないその答えを、海兵隊員は上陸後、身をもって知ることになる。

19日、午前6時40分に戦艦の艦砲射撃が始まり、8時5分にB-29爆撃機120機による爆撃に交代(効果は上がらなかったと報告されている)、8時25分から9時まで再度艦砲射撃が続いた。9時、第4、第5海兵師団の第1波が上陸を開始した。水際での日本軍の抵抗はなく、海兵隊は円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進した。だが日本軍は地下坑道の中で艦砲射撃に耐え、機をうかがっていた。午前10時過ぎ、日本軍は一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。やわらかい砂地に足を取られ、動きがままならない状態の所に攻撃を受けた為たちまち第24、第25連隊は25パーセントの死傷者を出し、戦車は第1波で上陸した56両のうち28両が破壊された。これほどの濃密な火力の集中を受けた戦場は太平洋ではそれまで例がなかった。硫黄島の土壌は崩れやすい火山灰のため、しっかりした足場も無く、海兵隊は塹壕を掘ることもできなかった。19日だけで海兵隊は戦死501名、戦傷死47名、負傷1,755名という損害を受けた。

夕方までに海兵隊30,000名が上陸し、それまでの島嶼作戦で日本軍の常道だった夜襲と万歳突撃とを待ち構えた。日本軍は来なかった。日本軍が実施したのは少人数による手榴弾を使った襲撃と夜間砲撃というハラスメント(嫌がらせ)攻撃だった。アメリカ軍が浜辺に集積していた物資の多数が攻撃により炎上し、海兵隊は損害を受けた、しかしそれも海兵隊が警戒し始めると効果は薄くなり始め、帰ってこない日本軍の兵士が徐々に増え始めた、とはいえ海兵隊の休息は奪われた。

[編集] 摺鉢山の戦い

20日、準備砲爆撃の後、海兵隊1個連隊が摺鉢山へ、3個連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進した。海兵隊は夕方までに千鳥飛行場を制圧し、摺鉢山と栗林中将の司令部との連絡線が遮断された。摺鉢山の斜面は1メートルごとが戦闘の連続だった。砲撃は日本軍の地下陣地に対してはあまり効果がなく、海兵隊は火炎放射器と手榴弾でトーチカを処理しながら前進した。日本軍では摺鉢山の守備隊長の厚地兼彦大佐が戦死、市丸少将は大本営へ報告を送った。「本戦闘ノ特色ハ敵ハ地上ニ在リテ友軍ハ地下ニアリ。」

21日、予備兵力の第3海兵師団が上陸する。同日、千葉県香取基地から出撃した「彗星」急降下爆撃機12機、「天山」艦上攻撃機8機、直掩の零戦12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃が行われた。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給したのちに硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入し、護衛空母ビスマーク・シー」撃沈、正規空母サラトガ」大破炎上などの戦果を挙げた。混乱したアメリカ艦隊は「われ、カミカゼの攻撃を受けつつあり。救援頼む。」と発信。その電波は、日本軍の守備隊にも傍受された。その後も、日本軍は陸攻部隊や陸軍の「飛龍」による上陸部隊および艦船への夜間爆撃を数回実施した。この光景は、日本軍硫黄島守備隊にも目撃されている。

22日、元山方面を攻撃していた第4海兵師団は損害の大きさに第3海兵師団と交代する。摺鉢山の山麓では死闘が続いていた。アメリカ軍は火炎放射器で坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火するなどして攻撃した。日本軍ではこうした方法を「馬乗り攻撃」と呼んだ。

23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し星条旗を掲揚した。午後12時15分に改めて5フィート×8フィートと先の旗の2倍となる星条旗を掲げることになり、AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールがその瞬間を捉えた写真とあわせ写真3枚を撮影した。この写真は同年ピューリッツァー賞写真部門)を受賞している(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")。アメリカ海兵隊は創立以来常にその存在意義が問われ続けていたのだが、硫黄島の戦いは水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示したのだった。フォレスタル海軍長官は海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたスミス中将へ語った。「これで海兵隊も500年は安泰だな。」[7]

その後、日本軍が反撃し星条旗を引きずり下ろして日章旗を掲げたが、米軍が奪回して再び星条旗を掲げ直すという争奪戦が2度に渡って繰り広げられた。最後に翻った日章旗は血染めだったという。

[編集] 元山周辺の戦い

フォレスタル海軍長官は本国へ戻っていったが、硫黄島の戦いはいよいよ激しさを増していった。24日、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊司令官の長男、アレクサンダー・ヴァンデグリフトJr.中佐も重傷を負う。24日から26日にかけ、海兵隊は馬乗り攻撃を繰り返しながら元山飛行場へ向けて少しずつ着実に前進した。前進速度は時速10メートル。市丸少将はアメリカ軍の戦術をこう報告している。「さながら害虫駆除のごとし。」[8]26日夕刻、元山飛行場は陥落した。この時点で日本軍の兵力は2分の1に減少、弾薬は3分の1に減少した。

2月26日にはアメリカ海軍建設大隊により、確保された日本軍旧千島飛行場で観測機の使用が可能となり、3月初めには飛行場の機能が殆ど完成した。そして3月4日、東京空襲で損傷したアメリカ軍のB-29爆撃機ダイナ・マイト号が、両軍砲火の中緊急着陸に成功し、補修と燃料の補給を受けた。これが、硫黄島に不時着した最初のB-29である。

元山正面の日本軍陣地は千田少将の率いる混成第2旅団が守備していた。混成第2旅団はもともと練度の低い寄せ集め部隊であったのだが、歩兵戦闘の専門家である千田少将の訓練のもとで強兵に生まれ変わっていた。元山正面の守りは堅く、アメリカ軍は「ミート・グラインダー」(肉挽き器)と呼んで恐れた。だが混成第2旅団の戦闘力も限界に近づいていた。5日、栗林中将は戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移す。7日、第3海兵師団がアメリカ軍としては異例の払暁奇襲を断行、中央突破に成功し日本軍を島の北部と東部に分断した。

[編集] 組織的戦闘の終結

塹壕を制圧する火炎放射戦車M4A3 シャーマン

水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、兵士は渇きに苦しんだ。暗夜に雨水を求めて地下陣地を出た兵士の多くは戻ってこなかった。14日、栗林中将を支えてきた歩兵第145連隊長池田大佐が軍旗を奉焼する。16日、栗林中将は東京の大本営へ訣別電報を送った。「物量的優勢ヲモッテスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ、克ク健闘ヲ続ケタルハ小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ…然レドモ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼ニ堪エザル所ニシテ、幾重ニモオ詫ビ申シ上グ…。」

17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達する。この日、同日付けで陸軍大将に昇進した栗林から、指揮下の各部隊へ最後の指令が送られた。「一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ。二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス。三…。四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ。」17日は出撃の機会を見つけられなかったため、約60メートル離れた来代工兵隊壕への転進が行われた。戦車隊を率いていた西中佐は火炎放射器によって負傷してもなお戦い続け、正確な最期は分かっていないが19日頃戦死したとされる。

26日、日本軍の最後の反攻が行われ、栗林大将、市丸少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。日本軍の最後の攻撃は所謂バンザイ突撃ではなく夜襲であり、攻撃を受けたアメリカ陸軍航空隊の野営地には、整備員など戦闘の訓練を受けていない者が多く当地は混乱に陥った。アメリカ軍では53名が戦死、119名が重傷を負ったとされる。

市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して懐中に抱いて出撃した。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。「卿等ノ善戦ニヨリ、克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」[9]

一方、栗林大将の最期の模様は正確には分かっていない。突撃中に重傷を負い拳銃で自決したか、出血多量で死んだと考えられている。海兵隊は栗林大将に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、階級章等を外していたため見つけることはできなかった。

これをもって、日本軍の組織的戦闘は終結した。

その後も生き残った日本兵が地下陣地に潜伏し、アメリカ軍は大規模な投降を促す作戦を決行し、生き残った日本兵の一部はこれに応じて投降した。だが、投降を拒否する日本兵が大多数であったため、しびれを切らしたアメリカ軍は掃討作戦を決行し投降しなかった日本兵が生息していると思われる壕の入り口を埋め、潰していった。この際、わずかに見つかった生き残りの日本兵が捕らえられ、日本に生還を果たしている。

[編集] 日本軍同士の殺し合い

組織的な戦闘が終わり島の西半分以上がアメリカ軍に制圧された後、わずかな水源や食糧を求めて生き残った負傷した日本兵が島の海軍航空隊の壕などに集結した。 が、あるものは先に占拠していた日本兵に追い出されて行き場を失い、そのままアメリカ軍に殺傷される、もしくはわずかな食糧を持っていたものは味方の日本軍に殺されたり、飲料水を巡って殺し合いが起ったと言われる。 またアメリカ軍に投降しようとした日本兵が上官に背後から射殺されるケースも見受けられたらしい。 これら友軍同士の間で起こった悲惨な出来事は、NHKのテレビ番組「硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言~」において生還者たちから異口同音に語られた。

[編集] アメリカ軍完全占領発表

3月6日、機能を回復した硫黄島の飛行場に最初のP-51戦闘機部隊が進出した。3月15日(日本時間)、アメリカ軍は硫黄島の完全占領を発表した。

[編集] 大本営発表

3月21日、大本営は硫黄島玉砕を発表した。「戦局ツヒニ最後ノ関頭ニ直面シ、17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」

[編集] 終戦後

終戦から4年後の1949年1月2日、潜伏していた最後の日本兵2名がアメリカ軍に投降した。

[編集] 日本本土爆撃への影響

硫黄島の奪取によってアメリカ軍は日本本土空襲の為の理想的なポジションを手に入れた。その中で硫黄島陥落後の変化は護衛戦闘機の直援を受けたB29爆撃機による昼間の中高度以下の爆撃が可能となったことと、不時着飛行場が確保できたことである。

  • 日本上空の天候回復により活動を活発化させたアメリカ軍爆撃兵団は、東京大空襲(1945年3月10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)を続けざまに実施したが、東京空襲の後の横浜空襲の時からは、硫黄島に建設した航空基地より長距離戦闘機P-51の護衛がついた。アメリカ陸軍戦略航空軍の中で実際に爆撃機を運用していた各爆撃兵団のB29の性能に自信をもっており、司令官達は単発戦闘機の長距離護衛を航法を補助するなど面倒なお荷物としてかなり低く評価していた。しかし、現実的には双発の邀撃機の活動を昼間は不可能にしたばかりか、日本軍戦闘機の邀撃を困難にした。
  • 終戦までの間に延べ2,251機のB-29が硫黄島に不時着し、米軍は自国の死者900名と負傷者2万2千名の代償として、延べ2万5千名の米軍機の搭乗員が硫黄島の恩恵をうけた。

[編集] 戦後

アメリカ海兵隊戦争記念碑

硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までにあわせて1,023名であった。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であり、また、上陸後わずか3日間にて当時のD-デイを含むアメリカ軍の各戦場での戦死傷者数を上回った。2月23日に星条旗を摺鉢山に掲げた6名の海兵隊員のうち、生きて故国の地を踏むことが出来たのは3名のみであった。第3、第4、第5海兵師団は硫黄島の戦いで受けた痛手のために沖縄戦には参加できなかった。第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章の4分の1以上が硫黄島侵攻部隊のために与えられた。アメリカ海軍はいくつかの艦船に「イオー・ジマ」と命名[10]している。また、第二次世界大戦後に創設されたアメリカ海兵隊記念日は擂鉢山に星条旗を立てた日であった。(現在ではアメリカ軍の記念日に統一されており、各軍の個別記念日は無い。) アーリントン国立墓地の近くに位置するアメリカ海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものである。 1985年2月19日、硫黄島において、日本とアメリカ双方の退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。かつて敵として戦った双方の参加者たちは互いに歩み寄り、抱き合って涙を流したという。この日建立された慰霊碑には日本語と英語で次の文章が綴られている。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」[11] なお、片方の当事者チェスター・W・ニミッツ海軍大将は「硫黄島上で戦った人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。」とこの戦いを著書の中で総括している。

[編集] 遺骨収集

  • 1945年1月まで海軍の硫黄島警備隊司令の任にあった和智恒蔵海軍大佐は、防御戦術に関して栗林中将と対立し、アメリカ軍の上陸の前に本土へ送り返されていた。戦後、和智は天台宗の僧となり、硫黄島協会を設立して、硫黄島の戦いにおける戦没者の供養と遺骨収集とに取り組んだ。
  • 日本側の戦死者約21,900人のうち遺骨が回収されたのは2008年3月時点で8,638人である。また、防衛省及び厚労省から滑走路引き剝がしを検討する調査費用が2009年度予算案に計上された。[12][13]

[編集] 脚注

  1. ^ 硫黄島の読み方は、戦前から「いおうとう」「いおうじま」の2種類が存在していた。旧陸海軍は「いおうとう」を使っていた。2007年6月18日以降は「いおうとう」が国土地理院の正式な地形図での表記となる。アメリカ軍によるIwo Jimaの呼称は、旧海軍作製の海図のローマ字表記に基づくと考えられる。合衆国は今後もIwo Jimaの表記を歴史的理由で維持するという。出典:小笠原諸島地名事典 Place Names
  2. ^ 他に捕虜・行方不明・疾病なども含む
  3. ^ CLOSING IN: Marines in the Seizure of Iwo Jima
  4. ^ 『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中央文庫)より
  5. ^ 時期尚早に思える日本軍の攻撃は、展開する海軍砲陣地が準備砲撃で全滅寸前となり、生き残った将兵が最後に一矢報いんと敵艦に向かい砲撃を開始したという説もある。
  6. ^ 『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』, p.132
  7. ^ CLOSING IN: Marines in the Seizure of Iwo Jima
  8. ^ 『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』
  9. ^ ルーズベルトは4月12日に死去したため、『ルーズベルトニ与フル書』は本人は目にしていないとみられる。
  10. ^ イオー・ジマ級強襲揚陸艦(イオー・ジマ (LPH-2))およびワスプ級強襲揚陸艦イオー・ジマ (LHD-7))。ほかに未成空母予定艦名にもあった。
  11. ^ 硫黄島協会
  12. ^ 「朝雲新聞社」
  13. ^ 「硫黄島滑走路、島内移設へ 地下に眠る遺骨捜索要望受け」(asahi.com)

[編集] 参考文献

  • 防衛研修所戦史室、『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』、1968年
  • Alexander, Col. Joseph H., USMC (Ret). Closing In: Marines in the Seizure of Iwo Jima, Marines in World War II Commemorative Series, History and Museums Division, United States Marine Corps, 1994.(米国公刊戦史)
  • Bartley, Lt.Col. Whitman S., USMC. Iwo Jima: Amphibious Epic, Marines in World War II Historical Monograph, Historical Section, Division of Public Information, United States Marine Corps, 1954.(米国公刊戦史)
  • 武市銀治郎、『硫黄島―極限の戦場に刻まれた日本人の魂』、大村書店、2001年、ISBN 4756330150

[編集] 関連事項

[編集] 硫黄島の戦いを題材とした作品

[編集] ノンフィクション

  • リチャード・F・ニューカム、田中至(訳)、『硫黄島』、光人社、1966年、2006年新装改訂版ISBN 4769821131
  • ビル・D・ロス、湊和夫監訳、『硫黄島 勝者なき死闘』、読売新聞社、1986年、ISBN 4-643-54810-X
  • 上坂冬子、『硫黄島いまだ玉砕せず』、文藝春秋、1993年、ISBN 4167298112
  • 栗林忠道、吉田津由子(編)、『「玉砕総指揮官」の絵手紙』、小学館、2002年、ISBN 4094026762
  • 堀江芳孝、『闘魂 硫黄島―小笠原兵団参謀の回想』(文庫)、光人社、2005年、ISBN 4769824491
  • 梯久美子、『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』、新潮社、2005年、ISBN 4104774014
  • 津本陽、『名をこそ惜しめ 硫黄島 魂の記録』、文藝春秋、2005年、ISBN 4163241507
  • 栗林忠道、半藤一利、『栗林忠道 硫黄島からの手紙』、文藝春秋、2006年、ISBN 4163683704
  • 留守晴夫、『常に諸子の先頭に在り―陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』、慧文社、2006年 ISBN 4905849489
  • ジェイムズ・ブラッドリー/ロン・パワーズ、島田三蔵(訳)、『硫黄島の星条旗』、文藝春秋、2002年、ISBN 4167651173
  • ジェームズ・ブラッドリー、大島英美(訳)、『父親たちの星条旗』、イースト・プレス、2006年、ISBN 4872577302
  • 秋草鶴次、『十七歳の硫黄島(いおうとう)』、文春新書、2006年、ISBN 4166605445
  • 久山忍、『英雄なき島 硫黄島戦生き残り 元海軍中尉の証言』、産経新聞出版、2008年、ISBN 4819110209

[編集] 歌集

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[編集] ドキュメンタリー

[編集] 映画

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[編集] アニメーション

[編集] 外部リンク

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