石川理紀之助
石川 理紀之助(いしかわ りきのすけ、1845年3月22日(弘化2年2月15日) - 1915年(大正4年)9月8日)は、秋田県生まれの老農(篤農家)・農業技術指導者。「聖農」と称えられ、「寝ていて人をおこす事なかれ」のことばを残したことで知られる。
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[編集] 来歴・業績
出羽国秋田郡金足村(現・秋田県秋田市)出身。旧姓は奈良、初名は力之助。奈良家の本家は金足村の豪農で、旧奈良家邸宅は現在秋田県立博物館の付属施設として現存している。奈良家には江戸時代菅江真澄などの文化人が訪れていて、石川理紀之助も菅江真澄が残した文章を収集していた。
1865年の21歳の時に、潟上市豊川山田の石川家の養子となる。
1873年から10年間、秋田県庁の勧業課に出仕する。その間、秋田県に現在まで残るイベントである種苗交換会を開設した。また、1880年歴観農話会を組織して、秋田県の農業の土台を作った。貧農を救済したいという思いから、秋田県庁を辞職。辞職してからは生涯を農家経営の指導や、農村経済の確立に尽くした。当時は高利で借りた借金から、自作農が減少し、夜逃げする農民が頻発するようになっていた。理紀之助は「農民全てが豊かになり、みんなが自作農にならないかぎり、この指導は成功しないのではないだろうか。」と思っていた。
理紀之助はまず山田村の借金を返す計画を建てた。堆肥を2倍にしたり、生活費をきりつめたり、藁製品や蚕、果物を販売しそれをもとに借金を7年で返済することを計画した。 山田村経済会を組織して、借金の有無にかかわらず村人が一致団結して事業に取り組むことを誓った。村人に朝仕事を励行させるため、石川は午前3時に板を打った。それから、一軒一軒まわって歩き、村人を励ました。石川は人間の弱い心を配慮して、まだ寝ている家も無闇に叱咤することは無かった。
山田村の借金は計画の7年よりも短い5年で全て返済した。石川はそれを農商務省で発表した。また乞われれば各県に出かけて行き、講演を行った。このとき石川は「寝ていて人をおこす事なかれ」という言葉を残している。この言葉を石川は生涯口にしたが、単なる率先垂範という意味ではなく、深い人間愛に裏付けられた言葉である。
収入が殆どない貧農の小作農の気持ちや実態に合った指導ではないという批判に対して石川は草木谷で実際に貧農の生活を経験し、自らの主張する方法が貧農救済に役立つということを身をもって示した。
1880年には県会議員に当選している。当時の選挙法は立候補を必要としていなかった。驚いた石川は直ぐに辞職をしている。
草木谷の成功の後、九州や四国、千葉県などで巡回講演を行っている。また、秋田県仙北郡の一貧村を救済・更生指導したほか、九州の谷頭村など2県8郡49町村の部落において産業・経済はもとより地理・歴史・人情・習慣についての全般的調査を行い、それに基づいて総合的な将来計画「適産調」を立案した(1896年 - 1902年)。
「井戸を掘るなら、水の湧く(沸く)まで掘れ」という彼の言葉は、2008年1月18日に福田康夫首相の施政方針演説の中で引用された。
[編集] 石川理紀之助の遺跡
秋田県潟上市には、晩年の住居であった尚庵を中心に備荒倉、梅廼舎、三井文庫、石川会館や、また東1.2kmの山合いに翁の山居跡「草木谷」が残されている。これらは、秋田県指定史跡として指定されている。また、資料館として昭和町郷土文化保存伝習館が建てられている。
[編集] 著書
- 『老農晩耕録』(1916年刊) - 前記仙北郡での実践記録。
- 『適産調要録』(1917年刊) - 「適産調」での実績を踏まえ未実施地域での調査を推奨したもの。
- 「耕作会」『日本農書全集 第63巻 農村振興』佐藤常雄編集(農山漁村文化協会、1995年)ISBN 4-540-94013-9 - 開催した農業研究会の記録。