石像寺
| 石像寺 | |
|---|---|
本堂 |
|
| 所在地 | 京都市上京区千本上立売上ル花車町503 |
| 位置 | 北緯35度1分59.68秒 東経135度44分32秒 |
| 山号 | 家隆山 |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 本尊 | 地蔵菩薩 |
| 創建年 | 伝・819年(弘仁10年) |
| 開基 | 伝・空海 |
| 正式名 | 家隆山 光明遍照院 石像寺 |
| 別称 | 釘抜地蔵 |
| 文化財 | 石造阿弥陀如来及び両脇侍像・弥勒仏立像(国の重要文化財) 藤原定家・藤原家隆・寂蓮供養塔 |
石像寺(しゃくぞうじ)は京都市上京区にある浄土宗の寺院。山号は家隆山(かりゅうざん)。詳名は家隆山光明遍照院石像寺(かりゅうざん こうみょうへんじょういん しゃくぞうじ)である。本尊は地蔵菩薩。地元では通称の釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)で知られている。
目次 |
歴史 [編集]
寺伝では空海(弘法大師)により819年(弘仁10年)に創建されたという[1]。当初真言宗寺院であったが、鎌倉時代に俊乗坊重源による再興を機に浄土宗に改宗され、慶長19年(1614年)西蓮社厳誉上人が再興したという[2]。
地蔵堂の本尊は空海が唐から持ち帰った石を刻んだとされている地蔵菩薩である。 この地蔵は苦しみを抜き取るということから苦抜(くぬき)地蔵と呼ばれ、それがなまって釘抜地蔵と呼ばれるようになった[3]。
釘抜地蔵の伝説 [編集]
「釘抜地蔵」のいわれについては、次のような伝説がある。室町時代の終わり頃、紀ノ国屋道林という商人がいた。彼は両手に激しい痛みを感じていたが、どんな治療を施しても効き目がなかった。そこで霊験あらたかな石像寺の地蔵菩薩に7日間の願かけをしたところ、満願の日の夢に地蔵菩薩が現れた。地蔵菩薩は「お前の苦しみの原因は、前世において人をうらみ、呪いの人形(ひとがた)を作ってその手に八寸釘を打ち込んだことにある」と告げ、呪いの人形から抜き取った八寸釘を道林に示して見せた。道林が夢から覚めると、両手の痛みはすっかり消えていた。そして、石像寺に参詣すると、本尊地蔵菩薩の前には血に染まった2本の八寸釘が置かれていたという[4]。
境内 [編集]
寺は西陣地区の東方に位置し、千本通りに面した境内西側に門を開く。参道、境内には大きな釘抜きのモニュメントがあるほか、本堂の外壁には苦しみから解放された人々が奉納した、実物の八寸釘と釘抜きを貼り付けた絵馬が多数貼られている。これらは前述の釘抜地蔵の伝説に関係するものである。 なおここでの釘抜きとはバールのことではなく、はさんで抜くやっとこに近い道具のことである。
文化財 [編集]
- 重要文化財
- 石造阿弥陀如来及び両脇侍像・石造弥勒仏立像 - 本堂背後の小堂に安置。定印(じょういん、膝上で両手を組む)を結ぶ阿弥陀如来坐像の左右に脇侍の観音・勢至菩薩像が立つ。花崗岩製で、阿弥陀像の像高91.5cm、両脇侍像の像高は約103cm。各像の光背にはそれぞれの像に対応する種子(各尊を梵字1字で象徴的に表したもの)を刻む。中尊光背裏の銘により、伊勢権守佐伯朝臣為家なる人物が願主となって元仁2年(1225年)に完成したことがわかる。制作年の明らかな鎌倉時代の石造彫刻の基準作として貴重である[5]。堂内向かって右に立つ弥勒仏像は2010年に追加指定された[6]。
所在地 [編集]
脚注 [編集]
参考文献 [編集]
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 5 洛中』、駸々堂、1984
- 毎日新聞社編『仏像めぐりの旅 4 京都(洛中・東山)』、毎日新聞社、1993