矢野遺跡

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矢野遺跡の位置(徳島県内)
矢野遺跡
矢野遺跡
位置図

矢野遺跡(やのいせき)は、徳島県徳島市国府町矢野西矢野にかけて所在する縄文時代から中世にかけての複合遺跡史跡指定(または登録)はされていないが、出土した「矢野銅鐸」と通称される弥生時代銅鐸と、縄文時代後期の出土遺物160点が国の重要文化財に指定されている[1]

概要[編集]

鮎喰川左岸の、気延山東側山麓に広がる扇状地沖積地域に立地する。縄文時代集落弥生時代集落、さらに北東に所在した古代律令期阿波国府に関連する官衙遺構・阿波国分寺跡をも内包する非常に大きな複合遺跡である[注釈 1]

なお、矢野遺跡の西側に隣接する気延山山麓には県指定史跡「矢野の古墳」などを含む古墳群(気延山古墳群)や中世矢野城などが分布し、阿波史跡公園として整備され徳島市立考古資料館が置かれている[3][注釈 2]

発掘調査[編集]

弥生時代の遺構[編集]

弥生時代集落は、1992年(平成4年)から始まった徳島南環状道路徳島外環状道路)建設に伴い発掘調査された。徳島県内最大級の弥生時代集落であり、弥生時代中期から末にかけての竪穴建物跡が100軒近く検出されている[1]

集落内からは、1992年(平成4年)12月18日に銅鐸埋納坑が検出された。この埋納坑は、柱穴や建物跡が伴っており、銅鐸は木箱に納められて埋納されたと見られる。このような検出状況は全国的にも類例が少ない[1]。出土した突線袈裟襷文銅鐸(とっせんけさだすきもんどうたく)は、「矢野銅鐸」と通称され、1995年(平成7年)6月15日に国の重要文化財に指定された[4][5]

縄文時代の遺構[編集]

縄文時代集落は、1994年(平成6年)~1998年(平成10年)の発掘調査で発見され、竪穴建物19軒などの遺構のほか、縄文土器石器等の多くの遺物が出土した。西日本の縄文時代集落の中では最大級のものとされる。出土遺物の中では、土製円板に穿孔して両目と口を表現した仮面が注目された[1]

これら縄文時代後期の出土遺物160点は、2019年(令和元年)7月23日に「徳島県矢野遺跡出土品」として国の重要文化財に指定された[注釈 3][4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 埋蔵文化財包蔵地番号(遺跡番号)は徳島市No.99。なお、阿波国分寺跡は矢野遺跡範囲内に位置するが、遺跡番号No.100として別遺跡扱いとなっている。また国府関連の官衙遺構は矢野遺跡に隣接する周囲の包蔵地(観音寺遺跡など)にも広がっている[2]
  2. ^ 阿波史跡公園には古代竪穴建物高床倉庫が復元されているが、矢野遺跡の遺跡範囲には含まれていない[2]
  3. ^ 弥生時代の矢野銅鐸および縄文時代遺物は、板野郡板野町にある徳島県立埋蔵文化財総合センター(レキシルとくしま)で保存。

出典[編集]

  1. ^ a b c d とくしま歴史文化総合学習館. “矢野遺跡”. レキシルとくしま(徳島県立埋蔵文化財総合センター). 2022年10月13日閲覧。
  2. ^ a b 社会教育課文化財係. “文化財の保護と活用”. 徳島市. 2022年10月13日閲覧。
  3. ^ 公園緑地課. “阿波史跡公園”. 徳島市. 2022年10月13日閲覧。
  4. ^ a b 未来創生文化部文化資源活用課. “徳島県の文化財”. 徳島県. 2022年10月13日閲覧。
  5. ^ 文化庁. “突線袈裟襷文銅鐸/徳島県徳島市国府町矢野遺跡出土”. 国指定文化財等データベース. 2022年10月13日閲覧。

関連文献[編集]

  • 氏家, 敏之『徳島の土製仮面と巨大銅鐸のムラ・矢野遺跡』新泉社〈シリーズ「遺跡を学ぶ」125〉、2018年2月10日。ISBN 9784787718358https://www.shinsensha.com/books/415/ 

関連項目[編集]

画像外部リンク
文化財の保護と活用( 徳島市埋蔵文化財包蔵地図)

座標: 北緯34度03分39.8秒 東経134度28分24.8秒 / 北緯34.061056度 東経134.473556度 / 34.061056; 134.473556