盧奕

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盧 奕(ろ えき、生年不詳 - 天宝14載(755年))は、玄宗朝の官僚。五姓の一の范陽盧氏の出身。宰相となった盧懐慎の子。安史の乱に際し、洛陽を守ったが、捕らえられ処刑された。子の盧杞は宰相となり徳宗に専任されたが、「その奸を覚えず」の奸臣として知られる。その一方で嫡孫は賢人として知られ、四代は『唐書』本伝に仔細が見える。

経歴[編集]

兄の盧奐とともに、名声を等しくし、眉目はすきとおりほがらかで、慎み深く、寡欲で意志が強かったと伝えられる。開元年間に、京兆司録参軍に任官し、天宝年間初めに鄠県県令となり、兵部郎中となった。歴任中、名声があり、その治績をたたえられた。

天宝8載(749年)、給事中に就任した。天宝11載(752年)、御史中丞となった。父の盧懐慎・兄の盧奐も御史中丞に就任したことがあり、その清廉さと節度は変わることがなかったため、時人にたたえられた。その後、洛陽に赴任し、武部選事を兼ねることとなった。

天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し、洛陽に攻め込んできた。洛陽は落とされ、盧奕は妻子に印を持たせ、間道から長安に逃げさせた。その後、朝服を着て、役所に一人座り、そのまま捕らえられた。処刑の際に、安禄山の罪状を数え上げ、執行の直前に西に向かって再拝したため、安禄山陣営のものたちは顔色が変わったと伝えられる。河南尹の達奚珣は降伏したが、李憕蔣清もともに捕らえられ、処刑された。

後に、礼部尚書を贈られ、「貞烈」と贈り名された。首級が平原郡に回されたとき、平原郡太守の顔真卿が顔面についた血をなめたと、後年おのれを陥れようとした盧杞に述懐している。

伝記資料[編集]

  • 旧唐書』巻百八十七下 列伝第百三十七下 忠義下「盧奕伝」
  • 新唐書』巻百九十一 列伝第百十六 忠義上「盧奕伝」
  • 資治通鑑