皮剥ぎの刑

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最後の審判」に描かれたバルトロマイ。剥がされた自身の皮を持っている。皮に描かれた顔は、ミケランジェロの自画像である。(伝承ではバルトロマイの皮は短冊状に細く切り分けられており、絵のような一枚皮ではない)
皮を剥がされるマルシュアース

皮剥ぎの刑(かわはぎのけい)とは、罪人の全身の皮膚を刃物などを使って剥ぎ取る処刑法。古代よりオリエント地中海世界中国など世界各地で行われていた。全身の皮膚を失った罪人は、長時間苦しんだ後に死に至る。執行から死に至る長時間の苦痛はもとより、皮をはがされた人体は正視に堪えるものではない。そのため、見せしめとしての意味合いも大きい。 拷問として、体の一部分ののみを剥ぐ場合もあった。

世界各地の執行例[編集]

オリエント・ヨーロッパ世界[編集]

中国[編集]

中国では皮剥ぎの刑を「剥皮」(はくひ)と呼ぶ。

  • 前漢景帝の御世、皇族の広川王劉去が「生の人を割剥した」との記録が「漢書」にある。
  • 三国時代の暴君・孫晧は人々の顔の皮を剥いでは喜んだ。やがて呉が滅んだ後、司馬炎と碁を打っていた王済が、その場にいた孫晧に戯れに尋ねた。「そなたは呉を治めていたころ、人の顔の皮をはがして脚を断ち切ったということだが、まことですかな?」孫晧が答える。「人臣として君主に礼を失った場合、その者に直ちに刑罰を下したものです」。当然のごとく答える孫晧に王済は恐れをなし、延ばしていた脚を慌てて引っ込めた。
  • 五胡十六国時代前秦の王・苻生は顔の皮を剥がした死刑囚を歌い踊らせて楽しんだ。
  • タタル部と共に、対立していたモンゴル部を討って族長のアンバガイ・カンを捕らえ、木馬に生きながら手足を釘で打ち付け、全身の皮を剥がして処刑している。
  • フビライに、ムスリムの官僚・アフマド・ファナーカティーが仕えていた。彼は後に謀殺され、財産を没収されたが、役人がアフマドの愛妾・インチュの部屋を捜索していたところ、完全な形をした二体分の人皮を発見した。使用目的を尋ねたところ、インチュは「この皮は呪いに使います。祭壇に飾って呪文を唱えると、この皮が反応するのです」と答える。フビライはインチュと共犯者4名を捕らえ、衆人環視のもと皮剥ぎに処した。
  • の太祖・朱元璋は役人の不正に対しては厳罰をもって対処した。汚職が白銀60両以上ならば斬首の上、全身の皮を剥いだ。さらに、その皮の内部に草を詰め込み、ぬいぐるみのような姿にして見世物にした。この処刑は土地神の祠で執行されたため、民衆は祠を「皮場廟」と呼んだ。朱元璋は宦官に対しても厳しく、妻を娶っただけで皮剥ぎに処している。
  • 1511年、明王朝の第11代皇帝・正徳帝は、謀反を企てた37人を処刑するに当たり、そのうち6人を特に皮剥ぎに処すよう命じた。それに対して司法官は、皮剥ぎの刑はすでに禁止されていると上奏する。しかし帝は聞き入れず、6人の皮でを作らせ、それを乗せた馬を乗り回していた。
  • 嘉靖年間、倭寇討伐で名をはせた湯克寛は倭寇の首領を皮剥ぎに処し、その皮で太鼓を作った。しかし人間の皮は牛革より薄くてキメが粗いため、音の響きはよくなかったという。
  • 明後期の天啓帝の時代、権勢を振るっていた宦官魏忠賢は都に錦衣衛という秘密警察を張り巡らしていた。自身の悪口を言っていた町人を捕らえては、煮えたぎった松脂を浴びせかけ、全身の皮を剥がし取った。
  • 明の末期、農民反乱の指導者・張献忠は支配下に置いた四川省で大虐殺を行った。斬首、四肢の切断、刺殺、火あぶりなどあらゆる殺害方法が用いられたが、皮剥ぎもその一つだった。生きた人間の後頭部から背骨に沿って肛門までまっすぐに切り下ろし、左右に皮を剥いでゆく。受刑者はコウモリが翼を広げたような姿で1日近く苦しんだ末に死に至る。皮を剥いだ直後に受刑者が死んだ場合、あるいは剥がした皮に少しでも肉片が残っていた場合は、不手際の咎で執行人が皮剥ぎに処されたという。
  • 張献忠の部下で皮剥ぎの名人だった孫可望は、後に南明に投降、永暦帝から秦王に奉ぜられたが、それ以降も皮剥ぎを繰り返していた。御史の李如月が帝に弾劾文を上奏したが、帝は孫可望の罪を問わないばかりか、李如月を杖打ち40回に処した。一方、事の次第を知って激怒した孫可望は、李如月を捕えて皮を剥ぐように命じた。取り押さえられた李如月は少しも臆することなく、皮を剥がれながらも孫可望を罵り続け、壮絶な最期を遂げたという。はがされた李如月の皮は中に草を詰め込まれ、ぬいぐるみのような姿で見世物にされた。後に小説家・魯迅はこの逸話と明の太祖・朱元璋の皮剥ぎを取り上げ、「明は皮剥ぎに始まり、皮剥ぎに終わる。つまり終始不変だったといえる。今日に至っても紹興の田舎芝居の台詞や、里人のふとした言の葉に『皮を剥いで草を詰める』話が上るということは、隅々まで行き渡った皇帝の恩沢の物凄さを思い知らされる」と称している。

アメリカ大陸[編集]

シペ・トテック神の姿。肘の部分からは、身にまとう生贄の皮の手首が垂れ下がっている。
  • かつてメキシコの地に栄えたアステカ帝国では、神々に人身御供を捧げていた。穀物の神・シペ・トテックを祀る儀式の際は、石器のナイフを用いて生贄の全身の皮を剥がし取り、剥がされた皮を神官が身に纏って踊った。後にスペイン人エルナン・コルテスがアステカの都テノチティトランに攻め込んだ際、捕虜にされたスペイン人も生贄として皮を剥がされたという。また現在でも、マフィアによる私刑によって頭部や全身の皮を剥ぎ取られる場合があり、死体または人体の一部の画像がインターネット上にて閲覧可能である。
  • 北米大陸インディアンのうち、西部大平原に居住する部族には、倒した敵の頭の皮を剥ぎ取り、戦利品として持ち帰る風習があった。しかしこれはインディアン独自の風習ではなく、白人との抗争の中で新たに生まれたものらしい。頭皮剥ぎの際に相手を殺す必要は無いため、頭に傷を残したまま生きながらえる者も多かったが、頭に残った傷は大変な恥辱だった。

参考文献[編集]

  • 『死刑全書』 マルタン・モネスティエ著 吉田春美、大塚宏子訳 原書房 1996年
  • 『酷刑―血と戦慄の中国刑罰史』 王永寛著 尾鷲卓彦訳 徳間書店 1997年