皆川賢太郎

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皆川 賢太郎(みながわ けんたろう、1977年5月17日 - )は、日本アルペンスキー選手。主に回転で活躍している。新潟県関根学園高校から北海道北照高校二年次編入後卒業、日本体育大学体育学部体育学科卒業(特別卒業認定)。日体大2年次に長野オリンピックに初出場、ソルトレイクシティオリンピックトリノオリンピック2010年バンクーバーオリンピック4大会連続日本代表。ソチオリンピック回転競技NHK解説者。マネジメント契約先はスポーツビズ

人物[編集]

新潟県南魚沼郡湯沢町出身。大学の後輩にトリノオリンピック代表吉岡大輔佐々木明などがいる。

2008/09シーズンまでチームアルビレックス新潟所属。2009/10シーズンは竹村総合設備スキークラブ所属となった。

父の皆川賢治は、日本競輪学校第27期生の元競輪選手[1]。父の従弟に同じく元競輪選手の皆川正[2]。北海道小樽市にある北照高等学校卒業、日本体育大学出身。現在、スキー及びブーツはノルディカを使用している。

2009年6月11日モーグル選手の上村愛子と結婚した[3]

俳優の田村幸士とは学生時代にアルペンスキーを通じて親友となった。田村が社会人時代、スポーツマネジメント会社に就職し皆川のパートナーとしてマネジメントをおこなっていた。

スキーの革命児[編集]

身長173cmと、アルペンスキーの選手の中では小柄な選手である。身体の大きさがタイムに直結する現在のスラローム競技において、時代の流れを読み取る能力、そして彼独自の分析とアイデアで編み出した独創的なテクニックを武器にして世界に挑んでいる。

2000年、アルペンスキーの回転競技は、使用する用具(スキー板)の過渡期を迎えていた。前年まで、競技中に使用されるスキーの長さは、195cmから200cmだったのが、このシーズンから、各スキーメーカーが新兵器として180~185cmの短く太いスキー(のちに『ショートカービングスキー』と呼ばれる)を開発・投入してきた為である。こうした新しい形状のスキーの狙いは、次の3点に集約される。

  1. 長さを短くすることで操作性を向上させる
  2. 幅広くすることで滑走時の安定性を向上させる
  3. サイドカーブの回転半径を小さくして回転性能を向上させる

その一方で、デメリットも大いにあったのが実際だった。それを列挙すると

  1. 長さが短くなることで、前後のバランスを取りにくく、バランスが悪くなる
  2. 雪面に接する面積が少なくなり、雪面への食い付きが弱くなる
  3. 雪面からの振動をもろに受けて、脚部や腰部に負担がかかる

というものだった。各選手はシーズン前に、どの程度の長さのスキーを選択するかについてテストを繰り返し、メリット、デメリットのバランスを考えて、ほとんどが185cm前後のスキーを選択してきた。もちろん、前年と同じ195cmのスキーを選んできた選手も多数存在した。

そのなかで168cmという短いスキーを選択し、その戦闘力を最初に証明した選手の一人として、スラロームの歴史を変えた「スキーの革命児」として、さまざまなメディアで取り上げられることとなった。

戦歴[編集]

1998年~2004年[編集]

1998年長野オリンピック代表、2002年ソルトレイクシティオリンピック代表。

2000年2月ワールドカップ・スラローム、オーストリアキッツビュール大会で、ゼッケン60番から6位に入賞し、世界のトップスラローマーの仲間入りを果たした。同年3月韓国平昌郡龍平面大会でも6位に入賞している。

2000年、セストリエール大会で6位、2001年キッツビュール大会で8位、シュラドミング大会で10位、そしてサンクト・アントンでの世界選手権で10位と立て続けに好成績を残し、第1シード入りを果たす。日本人としては4人目の第1シード選手となった。

同年11月に足首を捻挫。その怪我を押して出場した、シュラドミング大会の2本目にベストタイムを獲得。日本人としては3人目のベストタイム獲得者となったものの、同シーズンの2002年3月長野県野沢温泉での大会中に左膝前十字靭帯断裂の大怪我を負う。

以降、2年間はワールドカップに復帰しても2本目に残れないレースが続き低迷していた。

2004年~[編集]

2005年2006年シーズンのアルペンワールドカップシリーズのスロベニアクラニスカゴラ大会で7位に入り、再び上昇の兆しを見せていた。 2006年の第5戦スイスウェンゲン大会で自己最高の4位をマーク。シュラドミング大会でも6位に入り、輝きを取り戻した。

2006年のトリノオリンピック・男子回転では1本目トップと0.07秒差の3位につけた。メダルを狙ってスタートした2本目、スタート直後にバックルが外れるというアクシデントがあったが、最後まで攻め続け、3位と0.03秒差の4位と僅かの差で日本人二人目のアルペン競技表彰台を逃したものの、7位の湯浅直樹とともに1956年コルティナダンペッツォオリンピック猪谷千春以来、50年ぶりの日本人選手の入賞となった。このことはフィギュア女子・荒川静香の金メダル獲得などで日本のメディアではあまり報道されなかったが、アルペンの本場のヨーロッパ圏では大きく報道され、トリノ五輪で日本チーム一番の快挙であるとの声も少なくなかった[4]。この4位入賞により第1シードに復帰した。

オリンピック後、初のワールドカップ・志賀高原大会で6位に入賞。

2006年、11月12日、ワールドカップ開幕戦のフィンランドレヴィ大会で13位入賞。11月29日、アメリカで行なわれたワールドカップの1ランク下の大会、コンチネンタルカップ・北米カップで優勝した。 しかし、12月8日、オーストリアで練習中に右膝前十字靭帯を損傷し、2006-07シーズンの残りは治療に専念することになった。

2010年、バンクーバーオリンピックでは、スタート直後に棄権となり、2回目の滑走には進めなかった。

脚註[編集]

  1. ^ 1984年10月17日選手登録削除
  2. ^ 日本競輪学校第40期生、1998年12月18日選手登録削除
  3. ^ 上村愛子と皆川賢太郎が婚姻届を提出 ニッカンスポーツ 2009年6月11日閲覧
  4. ^ Sports Graphic Number 2010年2月号

外部リンク[編集]