白雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白雲上人像 安田田騏筆 本覚寺蔵 秋田県指定文化財

白雲(はくうん、明和元年(1764年) - 文政8年(1825年[1])は、江戸時代の画僧(浄土宗)。松平定信に仕え『集古十種』の編纂事業に加わった。 法諱は逸誉、のちに良善教順と称した。白雲は画号、別号に閑松堂・松堂・墨癡・蝸牛叟・無心・竹堂など。

略歴[編集]

白雲は京都東山の位の高い人物の子とされる[2]。若いうちに浄土宗十念寺須賀川)で得度寛政元年(1789年)、26歳にして同寺第19代住職となる。その後、白河藩主松平定信に画才を認められ閑松堂の堂号[3]を賜る。以降、谷文晁亜欧堂田善巨野泉祐らとともに『集古十種』の編纂事業に加わる。寛政10年(1798年)には白河城内の東林寺に移る。定信の公の相談役になったことも多かったという。秋田藩主佐竹義和とも近しい関係[4]にあった。 享和2年(1802年)に常宣寺 (白河)第22世住持になり、その後文化3年(1806年)に常念寺(下野黒羽)に住した。定信の隠居後、文化10年(1813年)、50歳にて本覚寺(秋田六郷)の第28代住職となっている。

『集古十種』編纂のため、幾度も諸国を遊歴。寛政11年(1799年)および翌12年(1800年)には巨野泉祐とともに山城大和摂津山陽道に赴き美術品・文化財の調査を行っている[5]。『集古十種』古画肖像に掲載される藤原定家像は白雲の模写である。

谷文晁山水図から多くを学び、真景図に優れた作品を残した。文晁の『名山図譜』に挿図を提供している。皆川淇園岸駒村瀬栲亭維明周奎田中訥言吉村孝敬呉春円山応瑞原在中などと交友した。

死期を悟ると弟子の安田田騏を呼び寄せ肖像画を画かせている[6]。この肖像画は本覚寺と十念寺に伝わり墓もこの二つの寺にある。。世寿62。

作品[編集]

磐城紀行図巻(波立弁天巌)
会津津川冬景図巻(舟渡邑)

脚註[編集]

  1. ^ 内山、平成2年
  2. ^ 奈良(1964年)
  3. ^ 本覚寺にこの額字が伝わっている。以降に白雲と号した。
  4. ^ 菅江真澄「月出羽路」によると文化元年に佐竹義和と会っている。また義和の「あつまの記」白河の条でも文化3年に面談している。
  5. ^ 小林(2000年)
  6. ^ 奈良 (1964年)

参考文献[編集]

  • 川延安直「定信と文晁 松平定信と周辺の画人たち」福島県立博物館 1992年
  • 小林めぐみ「集古十種の編纂 - その目的と情報収集」図録『あるく・うつす・あつめる 松平定信の古文化財調査 集古十種』福島県立博物館 2000年
  • 江戸文化シリーズ20「歸空庵コレクション 日本洋風画史展図録」板橋区立美術館 2004年
  • 西村貞「画僧白雲とその写生図巻について」『日本書紀洋画の研究』
  • 田口松圃「画僧閑松堂白雲」『塔影』昭和7年9月号
  • 平福百穂「画僧白雲」『中央美術』第3巻7号 大正6年
  • 奈良環之助 「画僧白雲 」『秋田画人伝』昭和39年
  • 太田和夫「画僧白雲の作品について」『秋田県立博物館研究報告』
  • 内山淳一「白雲の研究ー未紹介の真景帖を中心にー」『仙台市博物館調査研究報告10号』平成2年