白毫寺

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白毫寺
Byakugou-ji.jpg
参道
所在地 奈良県奈良市白毫寺町392
位置 北緯34度40分15.65秒
東経135度51分4.35秒
座標: 北緯34度40分15.65秒 東経135度51分4.35秒
山号 高円山
宗派 真言律宗
本尊 阿弥陀如来(重要文化財)
創建年 伝・霊亀元年(715年
開基 伝・勤操
別称 一切経
札所等 関西花の寺二十五霊場18番
文化財 木造阿弥陀如来坐像、木造菩薩坐像(伝文殊菩薩)ほか(重要文化財)
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萩の花が両側を覆う参道
本堂

白毫寺(びゃくごうじ)は、奈良県奈良市白毫寺町にある真言律宗寺院本尊阿弥陀如来。開基(創立者)は勤操と伝える。奈良市街地の東南部、春日山の南に連なる高円山の山麓にあり、境内から奈良盆地が一望できる景勝地に建つ寺である。関西花の寺二十五霊場第18番()。

なお、寺号の「白毫」は、仏の眉間にある白い巻毛のことである。

歴史[編集]

霊亀元年(715年)、天智天皇の第7皇子である志貴皇子の没後、天皇の勅願によって皇子の山荘跡を寺としたのに始まると伝えられる。また、かつてこの高円山付近に存在した石淵寺(いわぶちでら)の一院であったともいう。石淵寺は空海剃髪の師であった勤操が建てたとされる寺院である。鎌倉時代になって西大寺叡尊によって再興され、叡尊の弟子である道照が将来し経蔵に収めた宋版一切経の摺本によって、一切経寺とも呼ばれ繁栄した。室町時代に兵火で建物が焼失し衰退するが、江戸時代寛永頃に興福寺空慶により復興される。

伽藍[編集]

  • 本堂(奈良市指定文化財)

境内には他に御影堂、宝蔵、石庭、椿園、万葉歌碑などがある。重要文化財指定の仏像は本堂から宝蔵に移されている。

白毫寺にはかつて室町時代建立の多宝塔があったが、1917年(大正6年)に人手に渡り、移築された。移築先は長らく不明とされていたが、兵庫県宝塚市切畑長尾山の個人所有の山荘に移築されていたことが後に判明した。この多宝塔は2002年3月19日、移築先の山火事で全焼した。

文化財[編集]

重要文化財[編集]

  • 木造阿弥陀如来坐像 
白毫寺の本尊。檜材の寄木造で、平安時代末期から鎌倉時代頃の作といわれる。
  • 木造菩薩坐像(伝文殊菩薩) 
もと多宝塔の本尊とされる白毫寺最古の仏像で、高く結った髻の形、両脚部の量感のある表現や荒々しい衣文表現などには平安初期彫刻の特徴をよく伝えており、9世紀にさかのぼる作とみられる。なお、多宝塔(現存せず)は室町時代の建物で、それ以前の伝来は不明であり、本来の像名も不明である(寺伝では文殊菩薩)。右手は第2・3指を立て、左手は持物をとる形をするが、両手首から先は後補で、本来の印相は不明である。
  • 木造地蔵菩薩立像 
鎌倉時代後期に造られた地蔵菩薩像の秀作で、施された彩色も鮮やかに残っている。
  • 木造興正菩薩坐像 
白毫寺を中興した興正菩薩・叡尊の肖像彫刻で、西大寺愛染堂の叡尊像と似ており、叡尊晩年の姿を見事にとらえている。
  • 木造閻魔王坐像 
もと閻魔堂の本尊。鎌倉時代の仏像で、迫真性に富む険しい表情の像である。
  • 木造太山王坐像 
閻魔王とともに冥界の十王の一人。鎌倉時代の像で、体内に残された墨書により運慶の孫・康円が正元元年(1259年)の作と判明する。明応6年(1497年)に修理を受けていることが像内修理銘からわかり、冠、両袖、両脚部などに後補がある。[1]
  • 木造司命半跏像・司録半跏像 
ともに閻魔王の眷属で、康円一派の作である。閻魔王像、太山王像とともに、旧閻魔堂に安置されていた。

その他[編集]

  • 五色椿(奈良県指定天然記念物) 東大寺開山堂の糊こぼし・伝香寺の散り椿とともに「奈良三名椿」の一つとして名高い。寛永年間に興福寺の塔頭、喜多院から移植したものとされる。

行事[編集]

所在地[編集]

〒630-8302 奈良県奈良市白毫寺町392 

アクセス・周辺[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 菩薩坐像、太山王像の説明は『奈良西大寺展』図録(奈良国立博物館、東京国立博物館、1991)の出品作品解説を参照した。