甲斐姫
甲斐姫(かいひめ、元亀3年(1572年)? - 没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。豊臣秀吉の側室。
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[編集] 来歴
忍城(現在の埼玉県行田市)城主・成田氏長と、最初の正妻で上野国金山城城主・由良成繁の娘との間にできた長女。外祖母となる妙印尼(由良成繁の妻)は、天正12年(1584年)金山城が北条氏に襲来された際、71歳で篭城戦を指揮した女傑とされる。
[編集] 忍城攻防戦
天正18年(1590年)6月、300余の兵と城下の民たち合わせて3,000人程度が籠もるだけの忍城に石田三成率いる2万余の豊臣秀吉軍が来攻した。しかし、忍城は湿地を活かして築城されている上に、城代・成田泰季が率いる籠城軍の士気は高く、城攻めは難航した[1]。そこで三成は備中高松城同様に水攻めにしようと“石田堤”と呼ばれる長大な堤防を築くが、水が貯まったところで城兵が堤防を決壊させたため、濁流が三成軍を押し流し、多数の死者を出した[2]。また援軍に差し向けられた真田昌幸・真田信繁父子、浅野長政の猛攻に城門の一つが突破されそうになると、甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて出陣し、多くの敵将を討ち取り、敵軍の侵入を阻止したとされる。
三成はその後も幾度となく忍城に攻撃を仕掛けたがことごとく撃退され、城内に入ることすら出来なかった。だが、7月5日(8月4日)、本城・小田原城が秀吉軍に降伏し、開城する。本城開城を知らない忍城はその後も籠城し続けていたが、7月15日(8月14日)頃に父・氏長から小田原開城の報と忍城開城の指示を受けたため、甲斐姫たちは矛を収め、堂々と城を出たと伝えられている。この際、往時には珍しく籠城兵たちの罪は問われず、財産も保証されたとされる。
[編集] 「謀反者討伐」とその後
その後、甲斐姫は氏長と共に蒲生氏郷に預けられ、岩代福井城に移る。ところが、氏長の留守中に家臣の浜田将監と弟・十左衛門が謀反を起こし、本丸を占拠、義母も殺される。甲斐姫はこれを知って、謀反を起こした浜田兄弟を討伐。後にこの武勇伝を聞いた秀吉は、姫を大変気に入り側室にした。氏長は姫の口添えもあって天正19年(1591年)に下野国烏山城主として2万石の大名になれたとされる(後の烏山藩)。
甲斐姫は大坂夏の陣による豊臣家滅亡の際、千姫のとりなしで死を免れ、近親者で豊臣秀頼の側室となっていた小石の方(成田吾兵衛助直の娘)とその娘・天秀尼(秀頼の長女)と共に大阪城から脱出し、鎌倉の東慶寺に入って尼となったとされる。
[編集] 人物
- 忍城攻防戦や、謀反者を自ら成敗した活躍譚など、華々しい伝承に彩られた甲斐姫は、後に多くの小説等の題材にされたが、彼女の活躍が記載された『成田記』は後の江戸時代に書かれたものであり、歴史資料として一級ではなく創作が多いとの評もある。しかし『成田記』の記録自体は他の歴史資料と比較しても矛盾が無く、甲斐姫に関する記述のみを、女性の地位の低かった往時にわざわざ創作するのは不自然であるとの説もある。
- 忍城本丸の跡地にある行田市郷土博物館では、甲斐姫を伝承人物として扱っており、展示物の中にこれを説明するものはない。
- 平成6年(1994年)12月に、小冊子『忍城甲斐姫物語』が行田青年会議所から発行された。これには忍城築城から、石田三成との攻防戦での活躍や謀反討伐譚、そしてその後秀吉の側室として生きる姿と、後の天秀尼とともに鎌倉・東慶寺へ入寺して亡くなるまでが記されている。
[編集] 脚注
[編集] 登場する作品
[編集] 小説
- 『紅蓮の狼』(宮本昌孝) 主人公。
- 『風来忍法帖』(山田風太郎) 物語のヒロイン「麻也姫」のモデルと思われる。太田資正の孫であり、氏長の娘ではなく若い妻という設定。
- 『水の城 いまだ落城せず』(風野真知雄)
- 『のぼうの城』(和田竜)
- 『忍城の姫武者(上・下)』(近衛龍春) 主人公。