甄氏
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甄 氏(しん し、? - 221年)(甄姫とも)は中国魏朝の初代皇帝曹丕の妻。諡は昭。上蔡県(河南省南部)の県令、甄逸の娘で、中山郡無極県(河北省張家口付近)の生まれ。甄氏は代々、二千石の高官の家柄であった。三男五女の末女にあたり、兄は豫、厳、堯、姉を姜、脱、道、栄というが、皇后自身の名は記されていない。 幼い頃から聡明で、乱世にあって家族に慎ましやかな生活を説くなど、謹厳な性格の持ち主であった。
初めは、袁紹の次男・袁煕の妻だったが曹操が冀州を攻め落とした時に、曹操の嫡男曹丕(後の文帝)は、真っ先に袁紹の屋敷に乗り込んだ。その際に、甄氏を見初めて妻にしたという。 曹丕に寵愛され、息子の曹叡(後の明帝)と娘の東郷公主(早世した)を産んだ。しかし、曹丕からの寵愛は次第に薄れていき、郭貴人(後の郭皇后)や李貴人、陰貴人に移っていった。更に、山陽公(後漢の献帝)の二人の娘たちが入内したこともあり、悲嘆した甄氏は曹丕に対して恨み言を述べた。これが曹丕の勘気に触れ、黄初2年6月に死を賜った。
魏書周宣伝によると、曹丕は青い気が地からたちのぼって天までつながるという夢を見たので、それを周宣に尋ねた。それに対して周宣は「天下のどこかで高貴な身分の女性が冤罪のために死ぬことになるでしょう」と答えた。この時に甄氏に死を賜う璽書を使者に届けさせており、これを聞いた曹丕は後悔して、その使者を追わせたが、結局間に合わなかった。
『三国志』魏書文帝紀によれば、甄氏が死を賜った翌日、日食が起こった。諸官は大尉を罷免するよう上奏したが、文帝は「天変地異は国を治める者への譴責である。どうして自分より下位の者へ責任を押しつけられよう」と言い、弾劾をやめさせた。
文帝と甄氏の息子・明帝は、即位後に母の名誉を回復して皇后とし、「その英知によって世を啓蒙した」との意味をこめて「昭」という謚を贈った。また、母后の一族に厚遇を与え、甄家の男子を列侯に取り立てた。彼らの家系は代々続き、後の八王の乱に際しても危難を回避し、血脈を保っている。
後代になると、甄氏の死は郭氏の陰謀であるとする史書も出てくる。稗史の類では「文帝が体調を崩すと、郭氏は「体調が優れておられないのは、甄氏が呪いをかけているからだ」と讒言した。文帝は激怒し、寵愛が薄れた甄氏に対して死を賜った」と伝えるものもある。『漢晋春秋』によれば、死を賜った甄氏の遺体に対して、郭氏は彼女の整えた髪を掻き乱し、その口には糠を詰め込み、棺桶にも入れられずに葬られた、としている。
[編集] 洛神賦の伝説
甄氏に関する有名な伝説は、文帝の弟である曹植との恋愛譚である。『文選』李善注は、曹植の代表作「洛神賦」のモデルが甄氏であるとする『感甄記』なる物語を引用している。それによれば、曹植は甄氏を思慕していたが、曹操により無理に曹丕の妻とさせられてしまった。甄氏が死ぬと、曹植の想いを知る曹丕は甄氏の枕を与えて曹植を慰めた。洛水のほとりに宿営した曹植が枕を使って寝ていると、夢に甄氏が現れ曹植に対する思慕の念を伝えた。悲喜の念に堪えずついに「感甄賦」を作った。後に曹叡が「洛神賦」と改名したという。
この物語は後世広まり、現在でも粤劇などの題材となっている。ちなみにこれらの劇では、洛神賦にちなんで、甄氏の名を「甄洛」「甄宓」などとしている(”宓”は伏羲氏の女である宓妃のこと。洛水で溺死し、その女神になったといわれる)。

