琉球征伐
| 琉球征伐 | |
|---|---|
| 戦争:琉球征伐 | |
| 年月日:慶長14年(1609年)3月7日 — 同年4月5日 | |
| 場所:琉球王国(現・沖縄県、鹿児島県奄美群島) | |
| 結果:薩摩藩の勝利、琉球の降伏 | |
| 交戦勢力 | |
| 薩摩藩 |
琉球王国 |
| 指揮官 | |
| 樺山久高 平田増宗 など |
尚寧王 謝名利山 名護良豊 豊見城盛続 今帰仁朝容 † など |
| 戦力 | |
| 3,000人 | 4,000人 |
| 損害 | |
| 100~200人[1] | 不明 |
琉球征伐(りゅうきゅうせいばつ)は、薩摩藩が1609年に行った、琉球王国(中山)に対する軍事行動を指す。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、戦闘はほとんど起こらなかった。[2][3][4]
琉球征伐については三つの一次史料、高山衆市来孫兵衛の「琉球渡海日々記」、肝付越前守兼篤「肝付兼篤書状」、中山王府の茶人、喜安の「喜安日記」を始めとして歴史史料は豊富である。また上里隆史の「琉日戦争」が代表しているように、最新の学術研究も、既知の歴史史料には全く書かれていない、多数の新事実を明らかにするという目覚ましい成果を挙げている。しかしこれらは先述の歴史史料とは矛盾だらけで、統合して記述する事は不可能であるので、個別に触れていく。
ところで上里隆史は近年、琉球王国史研究に「海域アジア史」の観点を導入する必要性を強調している。海域アジア史なる概念についてはまず意味が不明、次に意義も不明であるが、さしあたって「喜安日記の校訂」に見るが如く、海域アジア史学者・上里隆史は、当時の帆船を、運天~牧港間80㎞につき4時間、つまり11ノットで移動させている。ちなみにこれは通常の帆船の2~3倍の超高速である。海域アジア史学者が海域の何を学んでいるのかは完全に不明である。とりあえず以下においては、海域アジア史よりもむしろ、物理法則を尊重して記述する。
目次 |
名称について [編集]
「琉球征伐」「琉球入り」というのが歴史的呼称である。一次史料「肝付兼篤書状」には「琉球国御征伐」と明記されている。また「琉球入ノ記」という二次史料が存在するほか、一次史料「渡海日々記」には「琉球入番衆主取」なる役名が見られる。
ところで高良倉吉は、『薩摩軍は友好使節として「琉球入り」などしたものではない[5]』として、「琉球入り」なる呼称を不適切としている。なお、「琉球入ノ記」「仲宗根豊見親八重山入の時のあやご」については、いずれも軍隊とその戦闘行為の描写に終始しており、友好使節は全く登場しない。また「唐入り」が友好使節であるなどという主張も知られていない。○○入りが友好使節を意味するという見解は、高良以外に発見する事は不可能であるが、ここでは高良倉吉に敬意を払う立場から、「琉球入り」を避け「琉球征伐」を用いる。
また高良倉吉は「琉球王国は附庸国じゃない」「琉球征伐は、琉球側にとってまぎれもなく侵入・侵寇・侵略の事件だった[6]」と述べている。これに対し、尚寧王本人がまぎれもなく認めているところによれば、琉球は昔から薩州島津氏の附庸国である[7]。正史「中山世鑑」もこれを支持している。ちなみにこの高良倉吉、アカハチの乱については「まぎれもなく侵入云々」どころか、「地方統治の強化[8]」などと述べて済ませている。ただし「球陽(161号)」には、中山が我が境を「侵さん」としている、とのアカハチ本人の見解が明記されている。高良が琉球王国の研究をするにあたって、国家の正史をちゃんと読んだかどうかは不明である。
征伐の原因その1 大要 [編集]
直接的原因は、徳川家康にお礼を言わなかったからである。「今年も来年も家康公に聘問しなければ、危うからざるを欲しても叶わぬ事である(呈琉球国王書)」「琉球人が渡海して来なければ出兵するとのことですが、然るべき事です(家久宛山口直友書状)」[9][10][11][12]1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山は最後までこれに応じなかった。1608年9月には、家康と秀忠が舟師を起こそうとしていると聞いた家久が、改めて大慈寺龍雲らを遣わして、尚寧及び三司官に対し、徳川家康に必ず朝聘するよう諭したが、謝名は聴従せず、かえって侮罵に至り、大いに使僧を辱めた[13]。こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となった。
根本的原因については、「喜安日記」が「根本的には謝名一人のせい」と断言しており、「球陽」もこれを支持している[14]。また「喜安日記」は謝名親方の「明への政治的偏向、大事に及ばぬこと甚だしい無能、佞臣」という人格的要因も指摘している[15]
征伐の原因その2 借金取り立て [編集]
「琉球入ノ記」は、中山王府が借金を踏み倒そうとしたので征伐した、と述べている。それによると、国主方に銀子の支障があるとの事で、謝名・池城親方の依頼を受け、七島衆が仲介して、大和の殿様から利銀5割で250貫目借りた。返済は毎年米で行う事になった。ところが待てど暮らせど利米が来ない。七島衆が督促に行ったところ、謝名は「そのうち返す」の一点張りである。池城は「諸船頭の言う事が正論だが、謝名がああ言っている以上我らは如何ともし難い」と頼りにならない。再度謝名に督促したところ、かえって拷問を受け膝を潰された。大和の殿様は使僧を送ったが無駄に終わり、ここに至って中山王府の非道を誅すべく征伐したとする。
1573年に尚永册封の副使として来島した謝杰は、中山王府が日本から度々借金していると証言している。このため、册封使が来るたび、日本人が返済督促にやって来るという[16]。
中山の武器 [編集]
1606年に、尚寧の冊封正使として来航した夏子陽は、この点について次のように述べている。「民間で用いられる兵器は、ただ兜、鎧、刀だけが堅利である。余の矛・戟などは皆脆弱で、ただ体裁だけである。弓は家の軒先程も長く、射るにはこれを地にたて、両手をもってこれを引き絞る。発する矢は余り遠くない。[17]」
これに対し、上里隆史は「琉球往来」に基づき、次のような兵器を「当時の王府高官の一人が保有していた[18]」と主張している。すなわち「弓類500張、銃大小200丁、兜・甲冑300領(以下略)」
そもそも「琉球往来」とは、「飯岡西方寺開山記」[19]にあるとおり、本土の「庭訓往来」に倣って、児童の国語教育の為の例文集として、袋中が著したものである。問題の往来文は概略次のような趣旨である。「来年、大明の勅使が来降するとのことで、武具のお尋ねがありました・・・以上、私は家が貧しく、身不肖といえど、国王の為、人民の為、いささか用意いたしました。那呉より。国公官屋へ[20]」この那呉については、上里隆史は「名護親方か」と述べている。ちなみに名護間切の石高は、明治6年の「琉球藩雑記」によれば、871石1斗5升7合9勺1才[21]である。
さて、1581年制定の「明智光秀家中軍法[22]」によれば、1000石の旗本が用意しなければならないのは、甲冑たったの5領、鉄砲もたったの5丁である。また、1608年の「琉球渡海軍衆法度条々[23]」によれば、鉄砲は「300石につき一丁」、弓は「200石につき一張」とされている。この基準によれば、名護親方が用意すべき鉄砲はたったの2丁、弓はたったの3張である。さらに、文禄3年(1594)7月27日、秀吉が朝鮮沿岸築城と軍備を命じた際の定数[24]によれば、「加徳島城(小早川隆景)/士卒 5000人/鉄砲 200丁/弓 300張/具足 17両」「巨済島城(島津義弘)/士卒 2000人/鉄砲 100丁/具足 17両/弓 100張」
このように「琉球往来」に依る限り、たかだか「当時の王府高官の一人」が保有している兵器量は、本土の水準と比較して、ほとんど100倍に達している事が分かる。事実上、一主君に求められる量さえ超越している。この子供向けの国語の例文を、歴史的事実として主張している上里隆史は、以上の点をも同時に主張しているわけである。
薩摩軍の準備その1 近世的兵站体制 [編集]
この時代の兵站体制については、現・ヘブライ大学歴史学部教授で、軍事史の世界的権威であるクレフェルトが「補給戦」の中で詳細な検討を加えており、「現地徴発が戦略の基本[25]」と結論付けている。「ヴァレンシュタインからシュリーフェンまでの戦史は、多かれ少なかれ組織的略奪の歴史としてみれば全体が良く分かる[26]」
これに対し、上里隆史は「だが兵糧は蔵入地からの供給ではなく、家臣団による自弁である。いまだ近世的な兵站体制を島津氏は確立できていなかった[27]」と述べ、兵糧を蔵入地から供給しなければ近世大名とは言えないとの見解を示している。誰の畑でとれようが同じ米と思われるが、このように兵糧米の産地を選り好みをする余裕が本当にあったのかどうかは不明である。なお、クレフェルトは、当時の補給戦略を「食べるものがあれば全部食べる[28]」と簡潔に説明している。また、島津家久公は「覚」の中で、「兵糧を納めさせるべき事。ただし琉球人より軽く納めさせる事[29]」として、琉球諸島にあるものを食え、と樺山に命じているが、日本史学において、現地調達は何時代的兵站体制と見なされているのかは不明である。とりあえず九州大学史学科教授の中野等は「稚拙」で「逆行」していると一刀両断している。『国内統一戦においては糧秣の組織的補給を展開した豊臣軍は、ここにきて兵粮を「敵地」に求めるという逆行した政策を採用している。兵粮を現地調達するという「稚拙」な補給計画の背景には、正面の「敵」である朝鮮を、開戦までグレーゾーンの存在と考えた秀吉ら政権中枢における対外認識の甘さがあった[30]』数十年の実戦経験を持つ秀吉公の補給戦略を、「稚拙」と切って捨てる自信が、中野等のどこから湧いてきたのかは不明である。とりあえず中野等の脳内では、組織的略奪は組織的補給の内には入っていない事が分かる。また普通、敵地であればますます遠慮なく現地調達する事が可能であるが、現地調達しているとグレーゾーンと考えている事になる理屈が完全に意味不明である。なおクラウゼヴィッツは、糧食貯蔵所に頼るよりも、現地調達の方が優れている事は言うまでもないと述べ[31]、むしろ糧食貯蔵所法から現地調達法に進化した、と中野とは全く逆の主張を行っている。ただし、このような進化論的歴史観は、クレフェルトによる批判に晒されており、18世紀以前の軍隊も現地調達に依存しており、糧食貯蔵庫は軍隊が停止した時にのみ利用された事、逆にナポレオンも、現地調達に大々的に依存するのは当然として、これを補完する糧食貯蔵所も大々的に発展させていた事が論証されている[32]。ともあれ、中野等の兵站に関する議論は、クレフェルト「補給戦」やジョン・リン「Feeding Mars」のような兵站学の基本的論文を全く参照しておらず、「戦争論」という軍事学上の基本的論文すら参照しておらず、おまけに通常の方法を「稚拙」と勘違いしている点で、根本的に稚拙である。中野等は、秀吉公の組織的略奪による補給法を「稚拙」と呼ぶことで、人類史上最大の軍事理論家クラウゼヴィッツだけでなく、グスタフ・アドルフ、フリードリヒ大王、ジョン・チャーチル、ナポレオン、大モルトケ[33]についても「稚拙」と断じた事になるのだが、その点をこの九州大学の歴史学教授が自覚しているかは不明である。
薩摩軍の準備その2 工具 [編集]
薩摩軍は鍬や鉈や斧なども持参している。戦争に工事道具が必要なのは古来当たり前の事で、議論するまでもないように思われるが、ここでも上里隆史が摩訶不思議な見解を示している。「これは敵地における刈田、すなわち食糧の現地調達が目的だった[34]」鍬や斧でどうやって刈田するのかは完全に不明である。刈田したければまず鎌を用意すべきだが、そんな物はない。それに稲穂くらいなら日本刀で十分と思われる。いずれにせよ、自分で刈田するよりまずは「現地人に納めさせろ」と指示されているのは既述のとおりである。このような指示は、上里のアイデアに比べて、薩摩兵の手間を省けるという点で明らかに優れており、またかのモーリス・ド・サックスも「最善の方法」と認めている。「(遠い異境の地から食料やカネの補給を引き出すのに)最善の方法は、これらの地に回状を送り付け、断ったら軍隊によって処刑を受けるぞと言って住民を脅迫し、彼らを要求に屈服させることである[35]」
奄美大島へ [編集]
薩摩軍は総勢3000人、80余艘。大将は樺山久高、副将平田増宗。1609年2月26日[36]に山川港に集結し、家久の閲兵を受けた後、順風を待って4日寅刻に出港した。3月4日亥刻、口永良部島に着。6日辰刻出船、7日申刻に大島に到着した[37]。市来孫兵衛と肝付兼篤によれば、大島では戦闘は一切無かった。また大島の諸家譜によれば、大島の現地首脳は中山を見限り、全面的に薩摩に協力していた。笠利首里大屋子為転は『薩州の御手に属し奉り、大島中の手引きをして』島人を降参させた。また、屋喜内首里大屋子茂手樽は『用物薪草野等捧げ奉り』すなわち物資を補給した。[38][39]
「渡海日々記」によれば、7日申刻に大島深江ヶ浦着。8日に周辺を打廻る。笠利の蔵元に人衆が集まっていると聞いて行ったが、そんな人衆はおらず何事も無く終わった。兼篤によれば、彼等は悉く山林に逃げ隠れたため、ようようにして年寄どもを呼び出し、皆々安堵すべき旨を申し聞かせてから帰った。しばらく深江ヶ浦に滞在。12日に出船し、大和浜着。16日に出船し西古見着。順風を待ち、20日卯刻に出船し、徳之島に向かった。
「喜安日記」によれば、中山は3月10日、薩摩軍大島到着の報告を受け、降伏を申し入れるべく天龍寺以文長老を派遣したが、不明な理由で接触すらしなかった。兼篤は、以文はどこかに隠れていて出合わず、後で勘気を蒙ったと述べている。
ところで、市来孫兵衛、肝付兼篤、「前里家家譜」は、屋喜内で軍隊や戦闘の類を一切報告していない点で一致している。(ちなみに薩摩軍が数日滞在したという記述でも一致している[40])これに対し、上里隆史と「琉球入ノ記」は「大和浜で焼内間切の大親が3000の兵士を率いて柵を作って戦った[41]」などと主張している。上里は「琉球入ノ記」を支持する理由を「琉球入ノ記には、大親の子供から聞いたと書いてあるから」としている。「後代の編纂物で誇張や事実誤認があるとはいえ、琉球入ノ記にはある程度の事実も含まれていることが分かる[42]」ちなみに上里の主張において、次の三つの事実は不問に付されている。第一に、誇張や事実誤認を行っているのも、「大親の子供から聞いた」と主張しているのも、同じ琉球入ノ記である。第二に、琉球入ノ記の主張する「大親の子供」の証言は、大親の確かな子孫が編纂した「前里家家譜」には一切反映されていない。第三に、「琉球入ノ記」には、この「大親の子供」が母に連れられて拝山に隠れていたことも明記されているので、大和浜の3000人云々は直接目撃されたものではない。大和浜の様子を直接見た市来孫兵衛と兼篤が、如何に述べているかは既述のとおりである。
徳之島 [編集]
「渡海日々記」によれば、16日に13艘が徳之島へ先行した[43]。これに対し徳之島では一部島民が果敢に抵抗したが、速やかに制圧された[44]とはいえ大島や本島では碌な戦闘が無かったため、結果的には最大の激戦となった。
かなぐまには2艘が漂着したが、何事もなかった。
湾屋には17日、8艘[45]の薩摩船が漂着した。するとおよそ1000人がこれを包囲した。18日、船から降りて鉄砲を撃ちかけて撃破。50人を殺害した。
秋徳では、薩摩船3艘が到着したところを攻撃されたが、20~30人を殺害して制圧した。「琉球入ノ記」によれば、掟兄弟は棍棒、手下の百姓は竹やりや煮えたぎった粥でもって、果敢に接近戦を挑み、さしもの薩摩隼人も一時海中に追いこまれる勢いであったが、庄内衆の丹後守が見事な精密狙撃で掟兄を射殺した事から形勢が逆転したという。しかし薩摩側も庄内衆が6、7人打臥せられ(生死不明)、七島衆からは6人の死者が出た[46]。現地家系図によれば、掟兄弟の本名は兄は佐武良兼掟、弟は思呉良兼と言った[47]。また「雑書由緒記写」によれば、篠川之勘津なる70余歳の鍛冶屋も、兄弟に同心して働き、敵3人を討ち取って戦死したという[48]。
徳之島には与那原親雲上なる王府役人も派遣されていたが、島民を見捨てて山中に隠れており、22日におめおめと生け捕りになっている。本人の家譜は、敵前逃亡の理由を「小勢の故に一戦の力も無かったため」と説明している[49][50]が、徳之島の百姓が小勢にも関わらず一戦交えた事についてどう考えていたのかは、彼らを完全に無視しているため不明である。
「渡海日々記」によれば、16日、13艘の先発隊が徳之島に向かった。本隊は20日申刻に秋徳港に到着した。21日、樺山を含む10艘のみが沖永良部島に先発した。残りは22日に山狩りを行った後、順風を待って24日巳刻に出発、同日日没頃沖永良部着、樺山と合流し、夜を徹して本島に向かった。
ところで、煮えたぎった粥を用いた目的について専門家の意見が真っ向から対立している。「琉球入ノ記」が「大和人の膝を焼けどさせるため」と明言しているのに対し、上里隆史は「物理的ダメージを与えるものではなく呪術であった」と主張し、「煮えたぎった粥を水差しにてさしつけるのは、人間に物理的ダメージを与えるものではない」との見解を示している。煮えたぎった粥を人体にさしつけた場合、物理的ダメージと呪術的ダメージのどちらが与えられるかは、自分で頭から被ってみると直ちに判明するが、上里隆史がそうしたかは不明である。
また、上里隆史は「徳之島に琉球軍司令官がいた」との主張も行っている。曰く、『22日に山狩りが行われ、「琉球人番衆主取」で三司官謝名親方の婿である人物が捕縛されました。[51]』『山狩りによって琉球軍の「番衆主取」、徳之島における琉球軍の長が捕縛された[52]』上里の記述から逆算して、「渡海日々記」の該当箇所を改竄すると次のようになる。「琉球“人”番衆主取“で”余儀無き人“が”からめとられ候」ただし実際には「殊に琉球入番衆主取無余儀人をからめとられ候」と書かれている。これを日本語文法規則に依って解釈すると次のようになる。対象の格助詞「を」が使われていることから、「余儀無き人」は主語ではなく、他動詞「からめとる」の目的語であり、助動詞の意味は受身ではない。つまり尊敬の助動詞である。そして尊敬の助動詞が使われている以上、動作の主体は市来孫兵衛ではないので、特別な主語が提示されているはずだが、それには「琉球入番衆主取」が適切である。つまり「琉球入番衆主取が他にないような人をお捕まえになりました」という意味である。「琉球入」とあることから「琉球入番衆主取」は薩摩軍の要員である事が強く示唆されるが、このように文法上からも裏付けられる。さしあたって上里隆史の記述は、本邦の大学の史学科の教育カリキュラムは、国語の文法規則や「史料を改竄してはいけない」という基本的道徳心が身に付かないという点で、小学校のそれにすら劣っている可能性を強く示唆している。
また、上里隆史は「徳之島勢は刀や槍・長刀で武装していた」とも述べている。とりあえず「琉球入ノ記」には「掟兄弟は大和の人々を見て、刀や槍・長刀の分は、この棒で1000や2000は打ち殺してやる云々と言った[53]」と書かれており、むしろ刀や槍・長刀を持っていない事が示唆されているが、上里が何をどう読んだのかは一切不明である。
さらに上里隆史は、「秋徳だけで数百人死んだ[54]」とも主張している。既述のとおり、秋徳に着いたのは3艘だけであるので、単純計算では100人超の薩摩兵が乗っている事になる。この人数で数百人も殺せるかどうかは不明であるが、さしあたってこのような事を述べている史料は上里以外に一切ないので、先の経過では無視しておいた。徳之島で数百人斬獲した、という話ならば「南聘紀考」に載る。肝付兼篤書状の記述の大半を受容している上里が、何故、秋徳村民の死人の数に限って、受容を拒絶するのかは不明である。
本島 [編集]
25日酉刻過ぎ、薩摩軍は今帰仁の運天港に到着した。兼篤は「今帰仁に城があると聞いてたが、こっちが向かう前に逃げ落ちた」と述べ、「渡海日々記」は「27日に今帰仁城に行ったが、空き屋だったので、とりあえず方々に放火しておいた」と述べる[55]。
「喜安日記」によれば、薩摩軍が今帰仁に到着すると[56]、菊隠禅師が和睦の使者に選ばれた。彼は琉球人だが、若くして出家して日本に10数年遊学し、帰国後は円覚寺住職を勤めたが、この頃は老齢のために退職していた(西来禅院記)。人選の理由として「喜安日記」では「島津三殿と知り合いだから[57]」とあり、「西来禅院記」では日本語に達者なのが菊隠しかいないからとある。[58]「西来禅院記」によれば菊隠は最初は断った。「我老衰。身を全うするを願うのみ」しかし国王に重ねて召されたため、国恩に報いるべく、已むを得ず詔に応じた。
「喜安日記」によれば『行向て無為和睦を申調られよ』との詔が下り、これを奉じて、菊隠使節団は26日辰刻に陸路で出発した。随行の人員には名護親方や喜安などがいた。26日午刻、久良波着。ここで今帰仁までの道は敵で満ちており通れないと聞いたので、久良波から漁師の舟を出させて恩納に行った。27日払暁、恩納より船で出発、親泊で一時停泊して、「使者を出して趣意を述べさせる」案を議論していたところ、薩摩船一艘がやって来た。この船に乗り移り、こうして今帰仁着[59]。兼篤は、菊隠[60]の趣意を「ただ合戦を止められるべし、進退は宣く乞に随うべし(進退はおっしゃる通りにいたします)」とし、さらに菊隠到着直後に、またまた使僧が到着したことも報告している。心もとなかったので追加で遣わされた由。とりあえず運天で決定したのは、那覇で和睦の談合を行うという事であった。名護親方が人質になった。[61]ちなみに上里隆史は、王府の以上のような和の乞い方について、「これは島津軍への停戦要求であって決して全面降伏を意味しない[62]」との見解を示している。史学科の学術レベルでは「何もせずに和解して仲良くしてください。進退は言うとおりにします」という申し入れは全面降伏ではない、との事である。これは先述の「琉球国由来記」の一節、「此の時国人、皆和言に通ぜず」を改めて想起させる。史学科の学術レベルが、小学校卒業レベルを満たしているかどうかは甚だ疑わしい限りである。
29日早朝[63]、菊隠は薩摩船団とともに運天を出港。同日酉刻大湾着。菊隠使節団のみすぐ再出港して亥刻に牧港着。そこから徒歩で夜更けに首里城着。報告を済ませて夜明け頃那覇に下って待機。
運天での和睦申し入れを受けて、樺山は悉く那覇港に行くつもりであったが、ここで那覇港の入り口に鉄鎖が張ってあると聞いた。そこで4月1日、樺山は数人の物主を船で那覇港に向かわせる一方、残りは総て陸に挙げ[64]、1日卯刻、首里への行軍を開始した[65]。大軍勢については、気軽にUターンさせるわけには行かないので、確実に首都に到達できる手段を選んだわけである。兼篤によれば、この頃、和睦の旨を万が一にも違えじということで、具志頭王子が大湾の沖まで出向いたが、薩摩軍は既に陸地から発向した後だったので虚しく帰った。
「喜安日記」によると、薩摩軍は浦添城と龍福寺を焼き払いつつ首里に接近した。情報に基づいて、太平橋に宗徒の侍(むねと。中核となる侍)百余人を配置したところ、会敵には成功したが、雨のように鉄砲を打ちかけられ、城間鎖子親雲上盛増(城間盛久の長男)は被弾してそのまま首を取られ、その他全員は戦意喪失して首里城に逃げ込んで終わった。「球陽」は、中山王府の御典薬を勤めていた山崎二休なる越前人が、首里城のアザナに立てこもって法元弐右衛門の部隊を撃退した[66]と主張している。このような戦闘行動について、「渡海日々記」は「小湾浜[67]にいて、那覇首里の様子を聞き合せようとの御議定だったが、足軽衆が首里へ差し掛かり、鉄砲を取合、特に方々に放火したので、計らず軍衆は首里近く差し掛かった[68]」と述べ、足軽衆が発砲して放火したことを認めつつ、その他の軍衆については、あくまで仕方なく首里に接近しただけであるとしている。兼篤は、大湾~首里間で「和平を成するに狼藉然るべからず[69]」との下知があった、そのうちいよいよ和議が成ったので諸軍勢は那覇に入ったとし、首里侵入については言及していない。
4月1日未刻、薩摩船が那覇港に入り、和睦の調があった。列席者は薩摩側:大慈寺、市来織部、村尾笑栖。琉球側:具志上王子尚宏、西来院(菊隠)、名護、池城安頼、豊美城續、江栖栄真、喜安、津見などであった。するとにわかに「首里で火事だ」と騒がしくなった。「昼なのだから、手あやまりによる火事ではない。敵が攻めてきて火をかけたのだろう」と思われた。止めてくるといって、市来織部と村尾笑栖が首里まで駆け上がり、程なくして静まった。
結局、首里侵入事件は、「渡海日々記」によれば、摂政・具志上王子と三司官が人質になる事で決着した。ただし「喜安日記」によれば、実際に彼らが引き渡されたのは2日である。ともあれ、これをもって4月1日、申之刻(午後4時)、那覇に薩摩全軍撤退完了(渡海日々記)。大規模軍事行動はひとまず終結した。
戦後処理 [編集]
3日、国王下城の前準備として、荷物の持ち出しが行われていた。このとき、浦添親方の子息、真大和、百千代、真かるの三兄弟(喜安日記)とその同志、総計20名(渡海日々記)が、縄をもって首里城を脱走した。直ちに追撃を受け、識名原で討ち取られたが、同時に加治木衆の武将・梅北照存坊を討ち取るという手柄を挙げた。 4日、国王下城。名護親方の屋敷に移った。 5日より「城内之荷物御改」すなわち宝物の目録作成が開始された。12~13日かかった。 16日、崇元寺において、樺山、平田と尚寧王が対面した。 5月15日、尚寧王は鹿児島へ出発した。
歴代宝案にみる琉球征伐(那覇港の戦い) [編集]
「歴代宝案」とは、中山王府の外交文書集である。明に対して、琉球征伐を如何に報告していたかが分かる。まず、万暦三十八年正月二十日付の礼部宛咨文は、簡潔に次のように述べる。「己酉の歳季春、倭人兵を率いて来□す。小は大に敵すべからず、いかんともするなし。僧菊居隠法印等を遣わし、幣帛□解す。倭人舷を扣いて□還す。[70]」既に述べた経過と全く同じである。
問題は万暦三十八年正月三十日付の福建布政使司宛咨文である。既出の諸史料と全く異なる中山の勇戦敢闘が描かれている。以下に要約する。
「暫く摂政を勤める馬良弼がお手紙する。1609年3月、まず薩摩は伊平屋、喜界島に拠点を置き、狼煙を挙げて、嘘の惨状を伝報してきた。首里城がガラ空きになるのは嫌なので、殺されるのを傍観しようとした。しかし民の苦しみを我慢することはできなかった。そこで3月20日、卑職は馬良弼を差遣し、1000人を率いて陸に向い、彼に至ったが手遅れであった。馬良弼が帰ってきて称するには、倭の勢いは凄かった。髪の毛が逆立った。3月26日、馬良弼が密かに行って様子を窺うと、船は多く、倭は少なかった。しかしこれは罠であった。馬良弼が兵を進めると、たちまち包囲されて、馬良弼は捕虜になった。4月1日、倭寇は中山の那覇港に突入した。卑職は、鄭迵、毛継祖等に命令して、3000人を統督させ、那覇江口に雄拠して力敵した。倭の船は互いにぶつかり合い、岩礁に衝突し、溺死するものは数えきれなかった。しかし倭奴は兵をたくさん蔵していて継ぎ至り、陸に沿って東北から入ってきた。この処は防備が無かった。継祖らは首里城に退いた。倭はただちに那覇を突いた。」[71]
主語がおかしいので注釈を加えておく。「卑職」は馬良弼(名護親方)のはずだが、同じ馬良弼を派遣したり、馬良弼が捕虜になった後も「卑職」は活動している。実はこれに先立ち、万暦37年5月付で咨文案が作成されていた。そこでは尚寧王が報告者であり、従って卑職とは尚寧王の事であった(琉球國中山王尚寧爲急報倭乱・・・[72])。これを、半年後に文面だけ流用したのでおかしくなったのである。「那覇市史」所収の「歴代宝案」は抄録なので咨文案は載ってないが、完本には載っている。
上里隆史は、那覇港の戦いのみを受容し、「喜安日記」と合わせて「1日未刻に那覇港に突入した薩摩船を追い返した」と述べている。この場合、菊隠は那覇で何と交渉したのかが問題になるが、上里は単純に、薩摩船団をもう一度入港させる事で解決している。ただし根拠は不明。「4月1日午後4時頃には首里から那覇へ軍勢が侵入し、海からも島津軍が上陸した[73]」またこの場合、那覇での和睦の調開始が午後4時以降にずれ込むが、「喜安日記」によれば、和睦調印中に首里で薩摩軍が放火している。上里は「実際には命令違反で薩摩兵が残っていた[74]」と考えて解決しているが、根拠は不明である。最大の問題は二つある。第一に、樺山は菊隠に「那覇にて談合する」と伝達したのに、これを無視して砲火を浴びせた場合、そもそも琉球側から和睦を申込んだ関係上、薩摩軍のご機嫌を危険なまでに損ねるという事である。また、菊隠はウソをついたことになり、彼の首も非常に危うくなる。尚寧その他の首についてはどうなろうと自業自得であるが、菊隠個人については、嫌がる御隠居を無理やり拝み倒して使者にたってもらった事情を考えると、大きな倫理的問題を生む。上里は特に気にしていないが、「歴代宝案」は今帰仁での和睦申し入れを無かった事にして、この問題を解決している。第二に、琉球軍3000の処分法である。上里は「那覇防衛軍は那覇を撤退し、首里城に移動した」と述べているが、首里には薩摩軍3000がいる。彼らが占める物理的容積だけで大問題であるが、さらに悪い事に、この薩摩軍3000は逆に那覇に向かっている。どうやって3000と3000が破滅的な大渋滞を回避してスムーズにすれ違ったのかは一切不明である。なお、この難問について、「歴代宝案」は、薩摩軍の首里侵入を無しにして、直接那覇に行った事にして解決しているが、現代の上里隆史は全く無関心である。どうも問題と認識していないようである。
このように「那覇港の戦い」については、他史料と矛盾が大きいだけでなく、非常な難問をはらんでおり、これを支持する上里隆史と「歴代宝案」の間でも意見が分かれているため、本稿における経過では、とりあえず「歴代宝案」と上里隆史をまとめて無視した。
北部の戦いについて [編集]
今帰仁城については、既述のとおり「渡海日々記」に「すでに立ち退いていた」とだけ記されているが、上里隆史は今帰仁城駐在の山北監守今帰仁按司朝容が「戦死した可能性[75]」を指摘している。なお、今帰仁按司自身の家譜には「万暦37年3月28日に卒す[76]」とだけ書かれており、どこで死んだのかも、また死因についても、一切触れられていない。参考までに、薩摩直轄統治下で編纂された掟兄弟の系図には、既述のとおり「顕誉戦死仕候」つまり「名誉の戦死を遂げた」と明記されている。
このように「戦死した可能性」については、現段階では根拠が一切ない上、上里隆史以外の諸史料はむしろ「北部で戦闘は無かった」という点で一致しているので、本稿の経過では一切無視して記述した。
また上里隆史は「3月26日、島津軍と名護親方率いる琉球正規軍が北部で激突しました[77]」などとも主張している。この説は既述の「歴代宝案」に基づく話であるが、事実かどうか以前に、そもそも「歴代宝案」には北部とは一言も書かれていない、という問題がある。「歴代宝案」には名護親方は「彼」に至ったと書かれている。従って、「彼」が何を指示する代名詞なのかが問題だが、第一に、北部などという名詞は一切見当たらない。第二に、事実上、伊平屋島・喜界島くらいしか適当な名詞が見当たらない。つまり「薩摩軍は伊平屋島・喜界島で狼煙をあげ、虚惨を報じて中山軍を誘き出そうとした。名護親方はそれにひっかかった」というストーリーである。このように「名護親方戦闘説」は、他史料と矛盾するという話以前に、史料読解の段階で根本的な誤りが認められるので、本稿の経過ではとりあえず無視した。
那覇港の大石火矢について [編集]
これについては「琉球入ノ記」で述べられている。上里隆史は概略次のように述べている。「4月1日午後2時頃、海路の島津軍が那覇港に突入した。琉球入ノ記によると、屋良座杜城・三重城から大石火矢による砲撃によって、突入した七島衆の船はことごとく撃破された[78]」
ただし「琉球入ノ記」に実際に書かれているところによれば、この事件は運天到着の『前』の話である。「沖永良部から那覇港に行く。樺山は沖に待機して七島衆だけが突入する。撃破されたが、沖まで泳いで樺山の船に助け上げられる。その後運天に行き、そこで上陸して那覇まで歩く。3月のことなれば、草取りしている百姓がいた」という話なのである。その日付についても、運天~那覇間の行軍の描写に「3月のことなれば」と明記されているため、それ以前の大石火矢事件も、設定上3月中に起こった事件である事が確実である。なお、上里は、「大石火矢事件」を4月1日に移動させるにあたり、時系列のみならず、樺山が沖に待機していた記述についても隠蔽している。これらの史料改竄行為の理由は、一切説明されていない。
兼篤と市来孫兵衛によれば、沖永良部から那覇まで行った話どころか、その時間的余裕さえない。その上、「大石火矢事件」を支持する上里の記述は、そもそもの根拠である「琉球入ノ記」とさえ余りにも大きな矛盾があるため、とりあえず本稿の経過ではまとめて無視した。
中山の軍事制度について [編集]
これについて高良倉吉は「琉球王国の構造」の中で、「庫理・ヒキ制度」なるものに、中山の官僚制度と軍事制度を一元化している。上里隆史はこれに加えて、ヒキとは「1000人の常備軍」[79]であったとしている。両者のいう事をまとめると次のようなものになる。高良は、羽地朝秀の改革によって庫理・ヒキ制度が縮小したと、根拠も無く述べている。中世期の庫理・ヒキ制度は「まず三司官がいる。その下に北の庫理、南の庫理、X庫理(高良はこの通り主張している)という役所があり、法司官一名が一つの庫理を管理している。庫理の下には四つの引がある。引は、勢頭親雲上一名を隊長、筑殿親雲上一名を副隊長とし、これに家来赤頭(城の平役人)を従わせて一隊=一引となしたものである。その総数は1000人である。かくして中山王府官制はきれいなピラミッド型になる」というものである。これが羽地改革を経た近世期には、12ヒキが9ヒキに減らされ、人員も一ヒキあたり約10名になったとする。なお、羽地改革については球陽に列挙されているが、ヒキについては一切言及されていない。
ヒキという組織に関しては「琉球国由来記」中の「勢頭役」が根拠である。彼らが描く近世期のヒキの姿は、この史料に基づいている。しかしその中では、3引ごとに、その内の1引が「引頭」となる事が書かれており[80]「庫理」の存在は特に示唆されない。
中世のヒキについては、そもそも史料がほとんど無く、辞令書以外には、球陽で「往昔の世、勢頭に十二引有り、或いは十四引有り[81]」として一回言及されるだけで、人数は不明である。高良がいう程重要な組織だったのかも、史料上ほとんど言及されないため不明である。上里隆史の主張によれば中世期のヒキは1000人の常備軍だったとの事である。なお、常備軍とは戦時・平時を問わず常に編制されている軍の事であるが、家来赤頭は平時は首里城の下級事務員をしているので、日本語の定義上、ヒキは常備軍ではない。高良と上里は日本語に独自の定義を与える傾向がみられる。また、平時の軍隊は何の稼ぎもないので給料は全て王府の持ち出しになるが、上里が「琉球に常備軍がある」と言ったとき、この点を考えてくれたかどうかは不明である。ともあれ、1000人のヒキとは、近世期の10倍の規模である。当然人件費も10倍になるが、予算がどこから湧いてきたのかは完全に不明である。中世期の首里城が近世期の10倍の容積があったという話もないが、どこに1000人が常備されていたのかも完全に不明である。また、高良・上里の主張する12引というのは、9引からたった3引増えただけであるが、これで10倍の人数を本当に管理できるのかも不明である。
とりあえず琉球征伐における史実を見てみると、既述のとおり、王府は太平橋に「宗徒の侍100人」を派遣している。この数は、上里の主張する常備軍1000人と比較すると僅か10分の1だが、他方、近世期の家来赤頭の数:88人[82]とは大差ない。
ヒキについてはさておき、庫理がどこから来たのかと言えば、高良が掲げているのは辞令書[83]である。『しよりの御ミ事/まわしまきりの/きまのさとぬしところハ/はゑのこおりの/一人きまかなくすくの大やくもいに/たまわり申候/しよりかなくすくの大やくもいか方へまいる/嘉靖三十年四月十三日』などの辞令書・15通が全ての根拠である。彼はこれを元に、以下のように主張している。
- 辞令書には書いてないが、「こおり」の漢字表記は「庫理[84]」である。
- 辞令書には特に何とも述べられてないが、「庫理」は官庁である。しかも引の上級官庁である。
- 辞令書からは確認できないが、「X庫理」というのも存在した。
他方、史実上の琉球軍と「庫理・ヒキ制度」を比較すると、1609年の琉球征伐における、越来親方を大将とし、隊員には鎖子親雲上などを含む構成と一致しない。また1500年頃のアカハチの乱における、9人の大将が任命される構成とも一致しない[85]。「庫理」の存在が窺えない上に、「ヒキ」と仮定しても、高良の主張によれば14ヒキあるはずなので数が合わない。そもそも大里や銭原は臨時に任命されたようである。
なお、「庫理・ヒキ制度」は三人の法司官を必要とするが、「球陽」によれば、正徳年間(1506~1521)には法司官は一人しか確認できない[86]。「庫理・ヒキ制度」が機能した時期は果たして一瞬でもあったのか、そもそもこの制度は実際に機能し得るのか、これらの謎は、歴史の闇というよりむしろ、高良倉吉と上里隆史の脳内に未だ秘められたままである。
現段階では中山が如何にして軍隊を編成していたのかは不明であるが、確かな事は、太平橋の中山秘蔵の宗徒の侍100人は、お話にならないくらい弱いという事である。ただ逃げるだけならまだしも、仲間を見捨てて逃げ出し、むざむざ首をとらせている。給料をもらうどころかむしろ払ってる側の徳之島の百姓や70余歳の鍛冶屋は、数十人の損害を出して戦闘力を喪失するまで戦っているだけでなく、薩摩兵数名の殺害すら報じているので、コストと効果がどうも合っていないわけである。この点については王府の実戦経験の不足に原因を求める見解もあるが、実戦経験が全くない徳之島の百姓や菊隠が、完全武装の薩摩兵にどのように振る舞ったかを見れば分かるとおり、逃げるのは単にモラルの問題である。戦って惨敗するなら実戦経験も問題になるだろう。しかし戦う前に逃げるのは単にモラルの問題である。仲間を見捨てて逃げるのもモラルの問題である。事実上、この宗徒の侍100人は、70余歳の鍛冶屋一人より存在意義がない。とりあえず宗徒の侍100人の行動には、仲間より自分を優先する利己主義と、職業的責任より自分の命の方が大事という麗しい「命どぅ宝」精神の発露が見られる。また「みんなで逃げる」という手法は、一人で逃げる場合には障害となる廉恥心を克服する手段として、極めて効果的な新提案と言える。王府軍に必要なのは、X庫理よりも給料泥棒を撃ち殺す督戦隊と思われる。さしあたって琉球士族が能無しの臆病者揃いという事実は、何とか親方とか何とか親雲上が腐るほどいたにも関わらず、王府の命運が最も危うい瞬間に、よりにもよって棺桶に片足突っ込んだ引退済みの坊主に泣きつく羽目になった理由については非常によく説明している。「勇者と臆病者は、恐怖心にどう対処するかで違ってくるのだ。英雄だって、皆と同じように怯えている。だが、臆病者は逃げてしまうが英雄は逃げたりしない。最後までやり遂げようとする自制心を持っている。つまり、最後までやり遂げるかやり遂げないかで、人は英雄にも臆病者にもなるのだ(カス・ダマト)」
「喜安日記」の校訂 [編集]
「喜安日記」には東恩納寛惇系統と、伊波普猷系統の二種類の写本がある。菊隠の行程に大きな違いがあるため、本稿ではとりあえず伊波系によって記述した。
- 東恩納本に見る菊隠の行程。「25日(原文ママ)早天に運天発。酉刻(午後6時)に大湾着。すぐ出港。寅刻(午前4時)に牧港着。上陸して歩く。夜更けに首里城着。」
- 伊波本「29日早天に運天発。酉刻(午後6時)に大湾着。すぐ出港。亥刻(午後10時)に牧港着。上陸して歩く。夜更けに首里城着。」
なお、上里隆史は東恩納系の記述のうち、「酉刻」は無視し、「渡海日々記」の「29日夜半」と合体させて「喜安ら菊隠使節団はたった4時間で運天から牧港まで到達した(29日夜半から4月1日午前4時)。首里城には夜更けに着いた」と主張している。ちなみに、運天~牧港間は約80㎞あり、伊波系に基づけば運天~牧港間の航行は約16時間かかっている。また「夜更け」がいつの夜更けなのか、上里は明記していない。この記述に基づけば1日夜更けである。この場合、軽装・少人数の菊隠使節団は、数㎞しかない牧港~首里間を、この危急時にほぼ1日かけて歩いた事になる。無論、4月1日の那覇における和睦調印には参加できない。他方、菊隠が1日の和睦交渉に参加したことも上里は認めており、そちらに基づけば29日夜更けである。つまり29日の夜更け、菊隠使節団は運天と首里に同時に存在していた事になる。
ところで上里隆史は次の記述においても、時間経過についての特異な感覚を示している。「29日夜半、島津軍は運天港を出航し、大湾で停泊、樺山らはここから上陸を開始した。4月1日午前6時には、浦添間切に達した[87]」午前6時とはおそらく「渡海日々記」から取られた数値だが、そこでは浦添間切など全く触れられていない。しかし最も興味深いのは次の点である。つまり、大湾から浦添までは20㎞あるので、ここを歩くだけで5時間はかかるという事である。また、運天から大湾まで船で移動するのには10時間はかかるし、大湾で3000人の完全武装の兵士と各種予備物資を荷揚げする作業にも同じくらいかかるだろう。
このような上里隆史の記述は、本邦の大学の史学科卒業生は、時間の概念が分からず、地図から実際の距離を算出できず、或いはそもそも地図が読めず、現実的な移動速度が分からず、時速の計算もできない、つまり事実上小学生レベルの教養もない、という可能性を強く示唆している。
神々の戦争 [編集]
上里隆史は自著の中で、このように題して「だが霊力により沖縄の天下を守護してきた聞得大君の力も、戦国時代をくぐり抜けた島津の軍事力の前にはひとたまりもなかった[88]」などと主張し、薩摩77万石から250貫目を借り逃げしようとして、尚寧王のクビが飛ばずに済んだのは、守護したうちには入らない、かつこのような不幸は全て聞得大君の霊力不足のせいである、との見解を表明している。家康公に対し欠礼したのも、借りた金を返さなかったのも、借金を仲介してくれた七島衆のメンツと膝を潰して怒らせたのも、全て王府自身がやった事であるが、その結果がなぜ、聞得大君の責任になるのかは一切不明である。史料上は、王府は聞得大君のせいにするどころかむしろ完全無視しているが、ともあれ上里隆史の脳内琉球王国では、王府がやった事で悪い結果が出ると全て聞得大君のせい、という奇妙な政治理論が成立していたとのことである。聞得大君は単なる巫女だが、神々の戦争と題した意図は不明である。また基本的に聞得大君にあるのは、神様にお願いする力のはずだが、これに対し上里隆史は第一に、沖縄の天下を守護するのは神様ではなく聞得大君の力である、第二に、この聞得大君の霊力は、あくまで軍事力に負けたと主張している。一方薩摩側は、まず肝付兼篤が、大自然の難所である黒潮を、順風に恵まれて安々と渡れた事を明白な根拠として、「薩摩軍が諸天三宝の加護を受けているのは疑い無し」と論証している。また「琉球入ノ記」も、沖縄本島の弁財天が樺山の船に顕現し、「この節の軍は必ず御利運にて候ぞ」などと仰せになったと主張している。つまり、本島の神様も悪行重なる中山王府を見放し、薩摩軍の大義を認めたとする。このように上里隆史と薩摩側史料を総合すると、神威を軽んじ、単なる人間である聞得大君に加護を求めて天道に背き、借金の利子すら払わず人道にも背いた中山に対し、神仏を篤く崇敬する薩摩軍が、神々の加護を得て天誅を下した、という事実が浮かび上がる。
また上里隆史は「琉球の高官たちは、強力なフォースを持つ聞得大君をはじめとした神女たちが電撃ビームで島津軍の兵士たちを次々と倒していく光景を想像していたかのかもしれませんね」[89]とも述べているが、琉球征伐に関する史料で「フォース」「聞得大君」「電撃ビーム」に言及したものは上里隆史以外にこの世に存在しないため、真偽は不明である。なお、上里隆史に現実とファンタジーの区別がついているかも不明である。
脚注 [編集]
- ^ 『旧記雑録後』巻64「維新公御文拔書」(『鹿児島県史料 旧記雑録後編4』、1984:雑兵一、二百人ほとも戦死仕侯由。
- ^ 「琉球国由来記」史料番号69「西来禅院記」「若共戦、欲挙国鏖。最不可以小、敵大者乎。於此、至国王大臣群議、而為和睦計」
- ^ 「喜安日記」「西来院は数年薩州に住居ありて殊更御両三殿御存知の事なれは行向て無為和睦を申調られよと詔命を蒙り今帰仁へたち給ふ」
- ^ 「球陽附巻」12号「万暦己酉、薩州の軍兵、運天津に抵るや、菊隠命を奉じて、彼の軍に赴き和睦を請乞す。兵船那覇津に至るや、亦和睦を乞ふ。」
- ^ 高良pp.234
- ^ 高良pp.234
- ^ 「雑録後編4」862号「尚寧王誓詞」「琉球の儀往古自より薩州島津氏の附庸為り」
- ^ 高良pp.19
- ^ 「雑録後編3」1862号尚寧宛義久書状「別て貴国の流人、左相府の御哀憐を以て本国に之を送らるる。其の報礼の遅延然る可からず。急ぎ一使を遣わすに謝恩の意の厚きを以てすべし。其の期に莅めば馳走を遂ぐ可き者也」
- ^ 「雑録後編4」89号松浦鎮信宛本田正純書状「一、去年も奥州へ流寄候琉球の者共、此方より送り遣わされ候へ共、終に其れ以後お礼をも申し上げず候、その通をも琉球へ仰せ渡さる可き事」
- ^ 「雑録後編4」532号島津家久「呈琉球国王書」「今際聘せず、明亦懈たれば、危うからざるを欲して得べけんなり(明=明くる年)」
- ^ 「雑録後編4」491号家久宛山口直友書状「兎角琉球人渡海仕らず候者、御人数をも渡さる可く様仰遣され然る可く候哉」
- ^ 「南聘紀考」
- ^ 「球陽」文書番号249「本国、素、薩州と隣交を為し、紋船の往来は、今に至るまで、百有余年なり。奈んせん、権臣謝名の言を信じ、遂に聘問の礼を失す」
- ^ 「若那、童形のときよ大明南京へ学問に渡り、年久しくして帰国せし故か、大和の風を知らざる故に、天下の大事に及びぬるこそうたてけれ」「つらつら事心を思ふに今度琉国の乱劇の根本を尋るに、若那一人の所為なり。その上佞臣なり」
- ^ 「夏子陽・使琉球録」「夷與倭爲鄰。而民貧國小、有所不足、輒假貸於倭。毎遇封使遠臨、在他國或至、或不至、倭無不至者。名稱往賀、實則索逋於其國也」
- ^ 「使琉球録」「民間所用兵器、惟盔甲與刀頗稱堅利。餘諸矛戟皆脆弱、徒具文耳。弓長如屋檐、射則樹之於地、以兩手彎之。發矢不甚遠。」
- ^ 上里pp.233
- ^ 「是以国土(原文ママ。国士か)黄冠(原注:彼国三位)馬幸明と云もの・・・日本庭訓往来文を乞ふ。是以児童の為に琉球往来一巻を著す」馬幸明は正体不明。現在確認されている馬氏の家譜中には発見できない名前である
- ^ 「琉球神道記:弁蓮社袋中集」pp.135-136
- ^ 「沖縄県史14」「琉球藩雑記」
- ^ http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/aketimituhide8.htm
- ^ 「雑録後編4」494号
- ^ 国会図書館デジタルライブラリ『日本戦史 朝鮮役』243-244/325
- ^ クレフェルトpp.66
- ^ クレフェルトpp.387
- ^ 上里pp.228
- ^ クレフェルトpp.53
- ^ 「雑録後編4」545号
- ^ 中野「豊臣政権の対外侵略と太閤検地」
- ^ クラウゼヴィッツpp.529
- ^ クレフェルトpp.125「ウルムに到着するやナポレオンは・・・前例がないほど大規模な輸送隊を組織した。彼はパヴァリアの町々に巨大な軍需品倉庫を設立させ、前進する軍隊に随伴させるために護送車両隊および護送ボート船団を用意した」ただしこれらの措置は、軍隊が数少ない道路上に余りにも密集していたためほとんど効果がなかった。
- ^ 既述のとおりクレフェルトは「補給戦」によって、WWIの初期まで現地調達に依存していたと論証しているが、ここに挙げた人物の兵站術は、第一章から第三章にかけて個々に論じられている。
- ^ 上里pp.230
- ^ クレフェルトpp.53
- ^ 「兼篤書状」による。「渡海日々記」によれば、高山衆は3月1日に山川港に到着したが、そこには既に類船80余艘がいたと明記されている。
- ^ 兼篤曰く「永良部と大島の間は天水が渡といって、古来難儀の渡と言い伝えているが、安々と渡海できたのは諸天三宝の加護疑い無し。頼もしいと思った」
- ^ 「奄美大島諸家系譜集」「笠利氏家譜」『慶長十三年、日本薩州縦り御攻め取りの刻、両御大将舟を召し、一艘は笠利湊江御着岸、先一艘は同間切の内、雨天湊江御着岸。先一番佐文為転江御勢を向けられ、畢、為転薩州の御手に属し奉り、大島中の手引きをして、 則ち島人を降参せしむ』
- ^ 「奄美大島諸家系譜集」「前里家家譜」『然処に、鹿府より樺山美濃守様、本琉球対地の為、当津大和浜江御差入之宛、則ち茂手樽降参いたし、用物薪草野等捧げ奉り、首尾好く此の地相納り、之より数日ご滞在に及び、順風を以て、本琉球え御渡海なられ・・・』
- ^ 「前里家家譜」「之より数日ご滞在に及び」/「渡海日々記」「一十三日四日五日やまとはゝに逗留候」
- ^ 上里pp.242
- ^ 上里pp.242
- ^ 「渡海日々記」「十六日・・・此日とくと申嶋江類船之内十三艘参候」
- ^ 「肝付兼篤書状」『公の船及ひ白坂式部少輔の船唯二艘、徳の島の内かなぐまに着す、此間18里、従者の舟は同嶋の内わいなに着す、共に着する船7艘なり、ここにて敵一千ばかりかけ来り、通夜舟の辺を囲居るの際、翌18日、各船より下りて鉄炮を放ちかくれば、暫も支へず崩れ行を追打に首50ばかり討取けり、内当手の士前田左近将監・伊達斛兵衛尉・白尾玄蕃允・有馬藤右衛門尉・坂本普兵衛尉各分捕して5人を得たりと云々、同20日、同嶋の内あき徳に至(原注:かなくまより五里)、味方の舟二三艘此所に着けるに、敵寄せ来たりしをここかしこに追詰、二三十人討取しと云々、同21日、あきとくを出、海路七八里程行けるに、俄に風悪くなりしかば、辛して漕戻し又元の泊の隣かめそうと云所へ着す、あきとくにて樺山氏を始兵船二十艘渡海、同湊に入、当手の小舟もここにて追付奉る、都合舟数70余と云々、』
- ^ 「従者の船」+7で8艘である。
- ^ 『琉球入ノ記』「掟兄弟三尋計之棒を堤進出、大和之人々を見て、刀や槍・長刀之分ニ而、此棒ニ而千や弐千や壱打ニ打殺へし、家毎ニ粥をたきららかし、大和人ニ膝を焼せんため坂や道に流し置、水さしニ而粟粥差附よ、相残百姓共棒をとからかし、或ハ竹の先、包丁や山刀をくひり付、打殺せと下知をなし打廻しに、庄内衆六七人打臥、其外の人々も海に追入手痛働候ニ付、防兼候処、庄内士丹後守進出、兄が胸本を鉄砲ニ而打通候処、高らかに目にもかからん棒の先から火が出て、打倒し候ぞ、皆逃よと家に走入終ニ死申候、兄は七尺弐寸にして強力ものにて、弟事は濱の手にて打捕候、大和之人々勢をなし切まくり候ニ付、百姓共悉く切払、頓而御手に付、七島頭立の内吉兵衛、彦九郎、早左衛門、助四郎、仙太夫、小松兄弟5人之内吉兵衛事戦死仕候」
- ^ 『八十八呉良謝佐栄久由緒記』「佐武良兼掟。慶長14年酉3月下旬、琉球御征伐之節、当島秋徳湊江御着船ニ而、御攻被成候時、必死ニ相極、致戦死候』『思呉良兼。慶長14年酉之春、薩州与里琉球御征伐之節、秋徳湊江御着船ニ而、御攻被成候ニ付、掟右兄弟共一心ニ相働、無比類致高名、顕誉戦死仕候」
- ^ 『雑書由緒記写』「大島生篠川之勘津、若年之時、徳之島罷越、徳之島旧大親役東之主就床、蒙厚恩居付、子共出生致候、徳之島御征伐之時、七拾余歳而、旧大親役子共同心必死相極、秋徳之上而、敵三人討取致戦死候、此人鍛冶細工而在之候」
- ^ 「向姓家譜(辺土名家)」『萬暦三十七年己酉從薩州當國兵艟御遣被成旨左右有之故兵艟為番手承宣旨航到于徳島無幾程兵艟來着以多勢襲來圍攻小島之時雖廻籌小勢之故無一戰之力萬死一生此時也然軍中一人入道浄休者予因旧識告于其名軍將故免死命軍將山權左衛門殿從乘船來着運天」
- ^ 「琉球渡海日々記」『殊に琉球入番衆主取無余儀人をからめとられ候。彼人は三司官之内謝納之むこニ而候、きばち巻の位成人を御取候事(特に琉球入番衆主取は、他にないような人をお捕まえになった。その人は三司官のうち謝名の婿であった。黄鉢巻の位になる人をお取りになった。ただし謝名の婿というのは孫兵衛の勘違い)』
- ^ http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/01/post-5f2e.html
- ^ 上里 pp.251
- ^ 「掟兄弟三尋計之棒を堤進出、大和之人々を見て、刀や槍・長刀之分ニ而、此棒ニ而千や弐千や壱打ニ打殺へし、家毎ニ粥をたきららかし、大和人ニ膝を焼せんため坂や道に流し置、水さしニ而粟粥差附よ、相残百姓共棒をとからかし、或ハ竹の先、包丁や山刀をくひり付、打殺せと下知をなし打廻しに・・・」
- ^ 上里pp.249
- ^ 「渡海日々記」「ときじんの城あけのき候、巳之刻程に俄に打ちまわり候て、方々放火共候」
- ^ 原文には「同十六日に兵船有りと聞こえしかば」とある。
- ^ 「喜安日記」「西来院は数年薩州に住居ありて殊更御両三殿御存知の事なれば・・・」
- ^ 「琉球国由来記」pp.197「此の時国人、皆和言に通ぜず・・・必ず師をして、宜しく和睦の事を通ぜしむべし」
- ^ 兼篤は、菊隠使節団の到着を26日の朝としているが、薩摩軍の到着日時から考えて早過ぎなので、とりあえずここでは「喜安日記」に依った。
- ^ ただし兼篤は菊隠使節団を次のように認識している。「使者は3人。一人は僧、一人は名護親方、一人はヲサセノソバ(御鎖之側)という官人」
- ^ 「喜安日記」「その様をも那覇にて談合すべし。菊隠は那覇へ出会わせたまえ。名護は留まりたまえ」
- ^ 上里pp.259
- ^ 「琉球渡海日々記」によれば、市来孫兵衛は29日夜半に出船している。僚船については特に述べられていないが、薩摩船団全部がその時刻に出発したとすると、6時間で運天~大湾間を航行&揚陸完了しなければならない。これは非現実的なスケジュールである。とりあえず、喜安日記には「諸軍の船と同じく」出発したと明記されているのに対し、渡海日々記はそうではないので、ここでは喜安日記によって書く。
- ^ 「樺山権左衛門久高譜中」『明くる日悉く那覇の津に到らんと欲するも、爰で津口に鉄鎖の設け有るを之聞き、鉄鎖有る、則ち豈に一船の津隈に入るを得んや、且つ亦、他江の軍船繋ぐ可き無し。是を以って四月朔日に、物主等の乗る船五、六艘をして、件の指南を以って那覇津に到らしめ、其の余は悉く陸地に上がらしめ、干戈を手に共にして進み向かうに・・・』
- ^ 「兼篤書状」「諸軍勢船より下て陸路より首里に向て相働」
- ^ 「球陽附巻」史料番号5
- ^ 原文では「こあんま」「那覇市史」所収の「渡海日々記」注釈で浦添市小湾浜に比定されている。
- ^ 「4月朔日卯の時に、諸軍衆は陸路を御座候、諸舟ハ乍勿論海上にて両手を御さし候而、こあんまにて御座候而、那覇首里の様子きこしめし合セ可有との御儀定にて候之処に、足軽衆首里江差掛り鉄砲取合仕、殊に方々放火共仕候之間、従其不計軍衆首里近く御差掛被成候処ニ、琉球王位様御舎弟を始、名護・うら添・謝内彼三司官質ニ差出被成、無事を偏ニと候之故、即彼質を御取にて無事ニ罷成、首里より那覇江申之刻計ニ諸勢御着候、」
- ^ 概略「行軍途中で、若武者少々が攻撃してきたので返り討ちにした。件の下知があったので首は捨てた」という話である。
- ^ 「那覇市史」所収「歴代宝案抄」史料番号192
- ^ 「那覇市史」所収「歴代宝案抄」史料番号193
- ^ 「歴代宝案第一集(台湾大学本)第18巻・史料番号3」
- ^ 上里 pp.279
- ^ 上里 pp.279
- ^ 上里 pp.263
- ^ http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241188/1/vol05/syuri/261.htm 「五世諱克祉今歸仁按司童名眞市金名乘朝容號宗清兄克順因無嗣子繼家跡行二萬暦十年壬午生同三十七年己酉三月二十八日卒享年二十八」
- ^ http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/01/post-eb94.html
- ^ 上里 pp.270
- ^ 上里pp.35
- ^ 「角川版・琉球国由来記」pp.57「勢頭役」「・・・而為九引。勢遣富(丑日番引頭)、世高富、浮豊見。謝国富(巳日番引頭)、島内富、押明富。勢治荒富(酉日番引頭)、相応富、世持富」
- ^ 「球陽」866号
- ^ 「球陽」史料番号1338号
- ^ 筑波大学付属図書館「沖縄の歴史情報第1巻」より辞令書一覧http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241188/1/vol05/3505.txt
- ^ 標準的な発音はもちろん「くり」。首里方言における転訛として、首里城正殿一階を「下庫理(しちゃぐい)」と発音する例があるが、「こおり」などという転訛は全く確認できない。そもそもどこから「お」の母音が紛れ込んだのか理解不能である。さらに高良の主張に従えば、「庫理」の発音は「くり→こおり→ぐい」と転訛した事になるが、こんな現象が有り得るかどうかは一切不明である。
- ^ 「球陽」160号「是れに由りて王、大里等九員を遣はして将と為し」
- ^ 「球陽」155号「正徳年間、毛文英、命を奉じて法司官職に任す。」
- ^ 上里pp.266~272
- ^ 上里pp.293
- ^ http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2007/11/post_08c5.html
参考文献 [編集]
- 琉球大学リポジトリ「喜安日記(伊波本)」http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/10214
- 鹿児島県歴史史料センター黎明館編「旧記雑録後編4」鹿児島県、1984年。史料番号557「琉球渡海日々記」、659号「琉球入ノ記」
- 鹿児島県歴史史料センター黎明館編「旧記雑録拾遺家わけ2」鹿児島県、1991年。640号「肝付兼篤書状」
- 球陽研究会編「球陽」角川書店、1974年。※記事中の「球陽」史料番号は本書に準ず。
- 亀井勝信編「奄美大島諸家系譜集」図書刊行会、1980年
- 徳之島郷土研究会『徳之島郷土研究会報』第2号「八十八呉良謝佐栄久由緒記」、1968年
- 奄美郷土研究会『奄美郷土研究会報』第20号、74-79「雑書由緒記写」、1980年
- 外間守善「琉球国由来記」角川書店、1997年。
- 那覇市企画部文化振興課編「那覇市史資料編第1巻第4分冊・歴代宝案第一集抄」那覇市、1986年。http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241186/1/vol03/naha/rekiho.txt
- 筑波大学付属図書館「沖縄の歴史情報」より
- 「歴代宝案第一集(台湾大学本)」http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241186/1/vol03/3-8.htm
- 「向姓家譜(辺土名家)」http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241188/1/vol05/htm/kafu-s21.htm
- 「那覇市史資料編第1巻第4分冊・歴代宝案第一集抄」http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241186/1/vol03/naha/rekiho.txt
- 「琉球辞令書」http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241188/1/vol05/3505.txt
- 「夏子陽・使琉球録」http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/natsuko.txt
- 高良倉吉「琉球王国の構造」吉川公文館、1987年
- 上里隆史「琉日戦争」ボーダーインク、2010年
- 陸軍参謀本部『日本戦史 朝鮮役』国会図書館デジタルライブラリ http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355
- 沖縄県教育委員会「沖縄県史14・雑纂1・資料編4」沖縄県、1965年。「琉球藩雑記」
- 横山重「琉球神道記:弁蓮社袋中集」角川書店、1970年。
- 伊知地季安「南聘紀考・下」琉球大学学術リポジトリ。http://jairo.nii.ac.jp/0048/00004217
- クラウゼヴィッツ「戦争論・上」中公文庫、2001年
- クレフェルト「補給戦」中公文庫、2006年(ただし1980年には原書房から刊行されている)
- 中野等「豊臣政権の対外侵略と太閤検地」校倉書房、1996年