王羲之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王 羲之(おう ぎし、生没年不詳 303年 - 379年、307年 - 365年、321年 - 379年など諸説有り)は中国東晋の政治家、書道家。字は逸少。右軍将軍であったことから王右軍とも呼ばれる。琅邪王氏の王導や王敦らの一族に連なる名門の出身である。家族には、曾祖父の王覧(王祥の弟)、祖父の王正、父の王曠(淮南の太守で東晋の名家)がおり、 子としては王玄之(長男)、王凝之(次男)、王徽之(三男)、王操之(四男)、王献之(七男)ら7男1女を儲けた。 孫には王楨之(徽之の子)、王静之(献之の同母兄の子)らがいる。
目次 |
[編集] 業績
王羲之は書聖と称され、書道史上、最も優れた書家とされる。末子の王献之と併せて二王(羲之が大王、献之が小王)とも称された。 秦・漢代の字体などを研究し、それぞれの字体を行書、草書などと組み合わせ、奔放で力強く優雅な書体が特徴的である。書道の革命家と言われ、近代書道の体系を作り上げ、後世の書道家達に大きな影響を与えた。その書の中では『蘭亭序』と『楽毅論』『快雪時晴帖』『十七帖』が特に有名である。他に『黄庭経』『喪乱帖』『孔侍中帖』『初月帖』『集字聖教序』『興福寺断碑』などが見られる。
[編集] 経歴
原籍は琅邪郡の臨沂(現在の山東省)、後に山陰(現在の浙江省紹興市付近の古地名)に遷居した。右軍将軍、会稽内史、揚州刺史などを歴任したが、351年に官を辞して隠遁生活を送る。
衛恒(衛瓘の子)の族弟である衛展の娘で、汝陰の太守李矩の妻となった衛夫人から、後漢の蔡邕、魏の鍾繇の書法を伝授され、その法を枕中の秘とした。7歳のときから衛夫人のもとで書を学び、12歳のときに父の枕中の秘書をぬすみ見、その技量が進んだ。
[編集] 真筆
唐の太宗(李世民)は王羲之の書を愛し、これを2297紙、収集し、崩じたときに『蘭亭序』を含むすべてを一緒に陵墓に埋めてしまったと言われている。そのためか現存する王羲之の真筆は存在しないと言われており、現在、王羲之の書とされているものも、唐代に太宗の命令で複写したもの及び、太宗が作らせた拓本のみであると言われている。後世になると、唐代の複写本ですら貴重となり、質の悪い王羲之のコピーが手本として多数出回っていたという。現在では唐代の複写本も貴重であるため国宝として指定され、中国の上海博物館が巨額を投じて宋代の拓本を入手しているぐらいである。
真筆に限りなく近いとされる王羲之の書では、『快雪時晴帖』が残存しており、台北の故宮博物院で展示されている。現代の複数の書家の鑑定によれば、王羲之の存命中からそう遠くない晋代に作成されたものと思われる双鉤塡墨ないし真筆で、余りにも伝来が古すぎるために真筆か双鉤塡墨かの判断がつかないもの[要出典]であるという。古くは唯一の真筆と考えられており、清の乾隆帝はこの書を愛し、自ら筆を持ち「神」と記したと言われている。
[編集] 王羲之の主な法帖
[編集] 楷書
- 楽毅論(がっきろん) - 永和4年(348年)
- 黄庭経(こうていきょう) - 永和12年(356年)
- 東方朔画賛(とうほうさくがさん) - 永和12年(356年)
- 孝女曹娥碑(こうじょそうがひ) - 升平2年(358年)
- 後漢の漢安2年(143年)、水死した父の屍を求めて投身した孝女曹娥の事跡を表彰したもので、羲之の書であるというが確証はない。南宋になってはじめて出土した。
[編集] 行書
- 蘭亭序(らんていじょ) - 永和9年(353年)
- 集字聖教序(しゅうじしょうぎょうじょ)
- 『集王聖教序』ともいう。唐の太宗が玄奘三蔵の業績を称えて撰述したもので、これに高宗の序記、玄奘の訳した般若心経を加え、弘福寺の沙門(しゃもん、僧)懐仁が、高宗の咸亨3年(672年)12月勅命を奉じ、宮中に多く秘蔵していた王羲之の遺墨の中から必要な文字を集めて碑に刻したものである。字数は約1800字で、原碑は現存する。
羲之が歿してのち、300年後の仕事であるので困難も多く、偏と旁を合わせたり、点画を解体して組み立てた文字もあり、完成するのに25年を要したといわれる。
- 興福寺断碑(こうふくじだんぴ)
- 唐の興福寺の僧大雅が、羲之の行書を集字して、開元9年(721年)に建てたものであるが、碑は上半分を失って700余字を残しているため、半截碑ともいう。また、文中、「矣」の字を「呉」と誤っているので、呉文断碑ともいう。明の万暦年間に長安城内の草中より発見された。
- 喪乱帖(そうらんじょう)
- 王羲之の手紙の断片を集めたもので、書簡のはじめに「喪乱」の句があるのでこのように呼ばれる。縦に簾目(すだれめ)のある白麻(はくま)紙に、双鉤塡墨で模したものであるが、肉筆と見違えるほど立派である。現在、日本で御物になっているが、右端の紙縫に「延暦勅定」の印三顆(いんさんか、印は顆で数える)が押捺されているところから、桓武天皇の御府に既に存在していたことが分かる。
- 孔侍中帖(こうじちゅうじょう)
- 『哀禍帖(あいかじょう)』『九月十七日帖』『憂懸帖(ゆうけんじょう)』の三帖から成る。一括して『九月十七日帖』また『孔侍中帖』という。『喪乱帖』と同じ紙で、双鉤塡墨。また『哀禍帖』と『九月十七日帖』との間の紙縫に、同じく「延暦勅定」の印三顆が押捺されている。現在は前田育徳会蔵。国宝。
- 快雪時晴帖(かいせつじせいじょう)
- 姨母帖(いぼじょう)
- 奉橘帖(ほうきつじょう)
[編集] 草書
- 十七帖(じゅうしちじょう)
- 王羲之の手紙29通を集めて一巻としたもので、蜀郡の太守の周撫に与えた手紙が多い。初行に「十七日」の句があるのでこのように呼ばれる。草書として最高の作品といわれている。
- 游目帖(ゆうもくじょう)
- 初月帖(しょげつじょう)
- 寒切帖(かんせつじょう)
- 遠宦帖(えんかんじょう)
- 妹至帖(まいしじょう)
[編集] 後世への影響
書聖とよばれただけあり、後世の書への影響は絶大であった。 後の時代の書家はほぼ全員が王羲之を手本として、なんらかの影響を受けたと言われている。 そのため、書道を習う者はまず王羲之を学んでから他を学べとさえ言われた。 科挙においても王羲之の技法で書かなければ答えが合っていても合格にならなかったと言われている。 文字通り王羲之の文字でなければ文字にあらずとさえ言われたのである。
[編集] 特記事項
[編集] 関連項目
- 顧愷之(書聖・王羲之に対し、顧愷之は画聖と称された。)
[編集] 参考文献
- 『王羲之・六朝貴族の世界』吉川忠夫著(清水新書 1984年) ISBN 4389440179
- 『日本と中国の書史』 - (社)日本書作家協会発行 木村卜堂著 - 1971年

