狩野秀頼

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高雄観風図

狩野 秀頼(かのう ひでより、生没年不詳)は、日本の室町時代から安土桃山時代狩野派絵師狩野元信の次男、あるいはその子供。現在は「ひでより」と呼ばれるが、当時は「すえより」または「すへより」と呼んだようだ。近世初期風俗画の最も早い時期の名品「高雄観楓図屏風」の作者として知られる。

略伝[編集]

「秀頼」印を捺す作品が幾つか残っているが、その人物像については謎が多い。狩野元信の次男「乗信秀頼」のことで、元信に先立って死去したという説(『本朝画史』附冊の「本朝画印」)と、元信の孫で乗真の子「真笑秀政」と同一人物とする説(『弁玉集』『丹青若木集』『画工便覧』『画工譜略』)がある。どちらが正しいか決めがたいが、「神馬図額」には、永禄12年(1569年)の年紀があり、元信没後も活躍したことがわかる。この図額には「狩野治部少輔」と署名しているが、これと同年狩野松栄厳島神社に奉納した絵まで名乗った民部丞官位相当表で比べると、前者が従五位下、後者が従六位下または正六位下で、松栄より高位なことがわかる。

言継卿記』天正4年8月17日条に「狩野治部入道」が座敷の絵を描いたとあり、この頃には剃髪していたようだ。「本朝画印」には絵が多く、画風は元信に似ていたという。『画工譜略』の「狩野画家之系図」では、信正秀頼の行年を61歳としている。

現存作[編集]

秀頼の画系[編集]

乗信秀頼 - 真笑秀政 - 了承秀之(1536-1617年) - 元俊秀信(1588-1672年) - 春雪信之(1614-91年)と続く。元俊秀信は慶長年間に徳川家康に御目見えし、御用絵師表絵師山下家(所在地不明)を立てる。信之の嫡男・梅栄知信(1642-1700年)は、病身のため弟・春笑亮信(1646-1715年)に家督を譲り、自身は明和3年(1657年)に御目見得し深川水場家(現在の江東区平野1丁目から三好1丁目付近)を別家し、両家は幕末まで続いた。

信之の門人・春湖元珍(?-1726年)も稲荷橋家を起こすが、春湖の子春賀理信(?-1791年)は寛延3年(1750年日光東照宮修理の際、宮川長春一門と刃傷事件を起こして断絶した。

関連項目[編集]

参考資料[編集]

論文
  • 佐藤康宏 「高雄観楓図論」東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美術史研究室 『美術史論叢』 16号所収、1999年