牧野貞成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
牧野貞成
時代 戦国時代
生誕 文亀2年(1502年
死没 永禄5年8月28日1562年9月26日
別名 民部丞右馬允、新二郎(通称[1]
戒名 月江常心大禅門
墓所 愛知県新城市庭野の龍岳院
主君 今川氏親松平清康今川氏輝松平元康
氏族 三河牧野氏
父母 牧野成種牧野成勝
成行?、成定
テンプレートを表示

牧野 貞成(まきの さだなり)は、戦国時代武将東三河地方の国人領主。牛久保城主第2代、通称民部丞右馬允・新二郎。牧野成勝の子(実は牧野成種出羽守)の子[2]、成勝の養子となる)。

概要[編集]

牧野貞成は東三河の国人のひとつとして、また第二代の牛久保城(愛知県豊川市牛久保町)城主として、三河国宝飯郡を中心に支配領域を持ったが、一方では永正3年(1506年)の侵入以来、東三河地方に進出を始めた今川氏の勢威に父成勝の代には既に服していた。

しかしその後は、他の東三河の国人衆と共に松平氏今川氏織田氏→今川氏→徳川氏と従属・離反を繰り返した。そのため中途の弘治2年(1556年)2月には今川義元により牛久保城主の地位を追われ、一族で親今川派の牧野成定に代わられた。

生涯[編集]

牧野貞成は牧野氏の家譜・系図[3]によると、三河牧野氏の牧野成種の次男(異説に三男、また四男とも)として生まれ[4]、三河国宝飯郡牛窪にあった牛久保城城主の牧野成勝の養子とされる。天文年間初期に成勝より牛久保城主を受け継いだと考えられるが、交代の正確な年は不明[5]

初めは父と共に駿河国の今川氏に属したが、今川氏は当主今川氏輝が幼弱であったため、その間隙を衝いて貞成は今橋牧野家の牧野信成と共に自立を計るが、享禄2年(1529年)・天文元年(1532年)と西三河岡崎城主の松平清康が東三河に侵攻するとこれに服した。しかし、松平清康が天文4年(1535年)に森山崩れに陣没すると松平氏を離れ、翌5年(1536年)には今川氏輝が急死し、今川氏に死去後の家督継承の争乱も起きたが、結局は今川氏に再属した。

天文15年(1546年)には、氏輝の後継今川義元が貞成の兄で牛窪城(長山一色城)主の牧野保成の要求に応じて東三河に出兵[6]。今川軍は渥美郡にある、かつて牧野氏の属城であった吉田城を陥落させ、戸田氏の手から吉田城を奪還した。しかし、事前に約束されていた牧野氏に対する城の返付は履行されず、吉田城には今川家臣の伊東元実(左近将監)が城代として入城(伊東元実は天文23年頃まで在任して小原鎮実に交替。牧野保成はその間、吉田城へ出仕)。このため、貞成は今川氏に遺恨を含んだとされる(「御家譜」などの記述では、この遺恨により牛久保城を退去し遠江国宇津山城の朝比奈紀伊守のもとに蟄居したともいう)。

弘治2年(1556年)初めには尾張国織田信長と結んだ吉良義昭の招きにより、義昭の幡豆郡吉良庄の居城西尾城に籠城した。しかし、今川義元はすぐに吉良領に今川方の松平軍を派兵し[7]、荒川山城(八面城)を拠点に西尾城を攻めたため、貞成は牛久保方面へ敗走した。義元により追放され牛久保城主の地位を失っていたと考えられる貞成は蟄居した[8]

永禄3年(1560年)今川義元が桶狭間の戦いで戦死後、岡崎城に復帰した松平元康(後の徳川家康)が伊奈本多氏一族の本多信俊や宝飯郡大塚(蒲郡市大塚町上中島)の大塚城主・岩瀬吉右衛門を通じて貞成を調略。貞成は永禄4年(1561年)松平元康に服属した。しかし永禄5年(1562年)8月28日、牛久保城主に復帰することなく死去。法名は月江常心大禅門、葬地は愛知県新城市庭野の曹洞宗龍岳院[9]

系譜[編集]

異説[編集]

牧野成定・貞成・成守を同一人物とする仮説がある。すなわち、郷土史研究者の大島信雄は『東日新聞』の連載記事「越後長岡と東三河」において、木下武次「牧野氏の系譜について」の記述より、牧野氏の系譜は複雑で難解であるため、牧野成定の前半世は徳川氏に抵抗した貞成として成定とは系譜上書き分けたとする説を紹介している。また、「宮嶋伝記」では、西尾城を守っていたのが、牧野成守となっており、成定と貞成と成守は同一人物であるという。後に、徳川譜代の大名に列した牧野氏にとって、徳川氏に敵対した前半世の歴史のゆえに、幕府に提出する際の系譜上の作為ではないかとして疑問視している[10]

脚注[編集]

  1. ^ 『新訂 寛政重修諸家譜 第6』(巻第三百六十四・牧野)266頁。
  2. ^ 『藩翰譜』227頁所載、「牧野」系図。
  3. ^ 『牧野家譜 上』の「御家譜」(越後長岡藩主の歴代記、原書の写本にあたる古和本長岡市中央図書館に所蔵)および『牧野家系図』(越後長岡藩主の系図、伝来の古系図類を牧野家の依頼により鈴木眞年明治9年(1876年)に華族会館提出用にまとめ新訂したもの、長岡市中央図書館所蔵)
  4. ^ 「御家譜」によると永正3年(1506年)に5歳(満4歳)にして今橋城の落城・脱出を経験したという。
  5. ^ 『新編 豊川市史1』において、八幡八幡宮(豊川市)で新発見史料とされる、『永正十七年八幡宮造営奉加帳』に「牧野右馬允貞成」とその一家・都合7名の氏名記載を検出(418-419頁)、この史料には永正17年(1520年)に「五十匹(=銭500文)、牧野右馬允貞成(花押)」と記されているが、その居所は不記載であるとし、また同市史は貞成を天文末期の右馬允の親にあたると推定している(420頁)。
  6. ^ 今川氏のこの出兵の経緯は『大名領国を歩く』所収、所理喜夫「戦国大名今川氏の領国支配機構」に詳しい。また、今川方攻略軍の将であった天野景泰は吉田城攻略後も三州御陣番として同城にそのまま在駐し、翌16年の田原城戸田氏攻略の際にも在城していたと推定されている(『豊橋市史 第1巻』第2節、392頁「今川氏支配の吉田」)。
  7. ^ この時の岡崎勢(松平軍)について「御家譜」は松平好景松平康定とする。
  8. ^ 貞成追放に関しては、『新編岡崎市史 2』第3章 戦国戦乱期の岡崎 「弘治合戦」による。
  9. ^ 『八名郡誌』「管轄沿革其六・戦国の土豪」(pp330 - 333)によると「月江常心大禅門・牧野新次郎・右馬允貞成」の名で没日「永禄五年八月二十八日」の位牌の存在と、貞成がこの寺の開基であることが指摘されている。
  10. ^ 「越後長岡と東三河」 第98-99話「牧野氏と西尾」。

参考文献[編集]

  • 新井白石(原著) 『新編 藩翰譜 第二巻』 人物往来社、1967年。
  • 堀田正敦等編 『新訂 寛政重修諸家譜 第六 』 続群書類従完成会、1964年。
  • 今泉鐸次郎 『牧野家譜 上』 長岡史料刊行会 1921年、(国立国会図書館蔵、請求No.118 - 191)。
  • 鈴木眞年『牧野家系図』 牧野文庫、1876年(長岡市立中央図書館蔵)。
  • 市史編集委員会編 『新編 豊川市史 第1巻 通史編(原始・古代・中世)』 豊川市、2011年。
  • 永原慶二 編 『大名領国を歩く』 吉川弘文館、1993年。
  • 豊橋市史編集委員会編 『豊橋市史 第1巻 原始・古代・中世編』、1973年、豊橋市。
  • 新編岡崎市史編さん委員会編 『新編岡崎市史 2 中世』 岡崎市、1989年。
  • 鈴木重安編 『八名郡誌』(1926年刊の再刊本)、1972年、臨川書店。
  • 大島信雄著 「越後長岡と東三河」『東日新聞』1999年11月7日 - 9日〈第98 - 99話〉「牧野氏と西尾」。

関連項目[編集]