爾朱敞

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爾朱 敞(じしゅ しょう、519年 - 590年)は、西魏からにかけての政治家軍人は乾羅。本貫秀容郡

経歴[編集]

爾朱彦伯の子として生まれた。532年高歓韓陵の戦いで爾朱氏を破ったとき、爾朱敞は幼少だったため、母とともに宮中に入って養育されていた。爾朱敞は脱走して街に入り、着ていた綺羅金翠の服を脱ぎ、遊んでいた子どもと衣服を交換して遁走した。追ってきた者は爾朱敞の顔を知らなかったので、綺羅金翠の服を着ていた子どもを連れ帰った。事が判明したときにはすでに日も暮れて、捕まえることができなかった。爾朱敞はある村に入って、長孫氏の庇護を受けて隠れ住んだ。3年後、道士といつわって、姓名を変え、嵩山に隠れて、経書史書を学んだ。

数年後、志を立てて西魏に帰順し、宇文泰に面会した。大都督・行台郎中に任じられ、霊寿県伯に封じられた。通直散騎常侍となり、車騎大将軍・儀同三司に転じて、爵位は侯となった。保定年間、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司に転じた。天和年間、信州臨州熊州潼州の四州の刺史を歴任し、爵位は公に進んだ。武帝北斉を攻撃したとき、従軍を志願して、許された。当たるところみな撃破して、位は上開府に進んだ。南光州刺史に任じられ、護軍大将軍となった。1年あまりして、膠州刺史に転じた。長孫氏とその弟を迎えて家に置き、恩義に対して厚遇をもってむくいた。

581年、隋が建国されると、辺城郡公に改封された。黔安で少数民族が反抗すると、命を受けてこれを平定した。凱旋すると、金州総管に任じられ、まもなく徐州総管に転じた。在職すること数年、明粛と号され、民衆と官吏に恐れられた。後に老年のため隠退を願い出て、河内に帰り、家で死去した。享年は72。

子の爾朱最が後を嗣いだ。

伝記資料[編集]

  • 隋書』巻55 列伝第20
  • 北史』巻48 列伝第36
  • 隋徐州総管爾朱敞墓誌