無鄰菴

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無鄰菴入口

無鄰菴(むりんあん)は、山縣有朋の別邸で、七代目小川治兵衛の作庭による日本庭園

「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里である長州下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がないことによる。また、『論語』「徳不孤必有鄰」("徳は孤ならず、必ず隣あり")から取られたという説もある。

第二の無鄰菴は、京都府京都市木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺参道前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。本項では主にこの第三の無鄰菴について説明する。

第二無鄰菴[編集]

第二無鄰菴跡(2017年7月)

第二の無鄰菴は、京都市木屋町二条、高瀬川の源流にあった。1891年明治24年)に購入。

第三無鄰菴[編集]

  • 所在地:京都市左京区南禅寺草川町31

山縣有朋の別邸、第三の無鄰菴は京都市左京区、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。南禅寺界隈別荘の一つ。敷地は三角形の形状で、広さ約3,100m2。現在は1941年に寄贈されて京都市が管理している。その庭園は1951年昭和26年)6月9日、国の名勝に指定された[1]

木造平屋建(一部二階建)の数寄屋造り母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館、および広い庭園からなる。山縣は1892年(明治25年)ごろから準備を始め[2]1894年(明治27年)に造営に着手、1896年(明治29年)完成[3]。洋館の設計は新家孝正1898年(明治30年)に竣工。

琵琶湖疏水と東山の別荘地[編集]

山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には、東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動きがあった。

この一帯にあって広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺は明治初期の廃仏毀釈で、他の寺院と同じく寺領の上知を命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされた。このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられた。琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水が計画され、第一期工事が1890年(明治23年)に竣工。京都市や京都府は、この東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を取っていた。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在となった。無鄰菴に続くようにできた付近の別荘の作庭も、七代目植治がその多くを引き受けることとなった[4]

近代的日本庭園[編集]

広い庭園は山縣が七代目植治(小川治兵衛)に作らせたもので、山縣三名園に数えられる[5]。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、近代的日本庭園の嚆矢とも言えるものであった。その広さは約3,135m2[6]。明治時代の庭園の写真帳『京華林泉帖』には「野趣にとんだ新庭園の代表」と、同時代の見聞録である黒田天外の『続江湖快心録』には、「以後の庭園はことごとく無鄰菴に倣っている」と記された[7]

無鄰菴に琵琶湖疏水を引き込むにあたっては「防火用水」の名目が使われた。疏水の建設には多額の税金がかかっており、京都市としては「庭園のため」では許可できなかったためである[8]

無鄰庵会議[編集]

会議の行われた洋館2階の部屋

この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われた。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文総理大臣桂太郎外務大臣小村寿太郎である。

当時、ロシア帝国は強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大を進めていた。桂は、ロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と山縣から取り付けようとした。

徳富蘇峰は『公爵山縣有朋傳』で桂の意図を以下のように著述している。

桂は、一方には此の報告[注 1]あり、他方には露国の北朝鮮経営の警報に接したので、此際対露政策を決定するの、最も急なるを痛感せざるを得なかった。而して桂が小村と謀り、公の黙契を得て決定したる方針は、露国の満州に於ける条約上の権利は之を認むるも、朝鮮に於いては、彼をして我が帝国に十分の権利あることを認めしむるにあった。然かも我にして、此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からずと云ふにあった[9]

この時桂は、「満韓交換論」とも言うべき対露方針についてを伊藤と山縣から同意をとりつけた。以下はその時の「対露方針四個條」である。

  1. 露国にして、満州還付条約を履行せず、満州より撤兵せざるときは、我より進んで露国に抗議すること。
  2. 満州問題を機として、露国と其の交渉を開始し、朝鮮問題を解決すること。
  3. 朝鮮問題に対しては、露国をして我が優越権を認めしめ、一歩も露国に譲歩せざること。
  4. 満州問題に対しては、我に於て露国の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること。
[10]

この後、この「満韓交換論」に基づく対露直接交渉の方針は、山縣、伊藤、大山巌松方正義井上馨、桂、下村、山本権兵衛寺内正毅が出席した同年6月23日御前会議に提出され、上記の方針に基づいて対露交渉に臨むことが確認された。国内には当時すでに「露国討つべし」の世論が高まりつつあったが、元老と政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争という破局を避けようと模索していた[11][12]

参考文献[編集]

  • 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』(復刻版)原書房、1969年。 (原本:1933年。OD版:2006年、ISBN 978-4562100439
  • 藤村道生『山縣有朋』(初版)吉川弘文館人物叢書〉、1961年。 (新装版:1986年、ISBN 978-4642050593
  • 岡義武『山県有朋-明治日本の象徴』岩波書店岩波新書〉、1958年5月。ISBN 978-4004131205 
  • 進士五十八『日本の庭園-造景の技とこころ』中央公論新社中公新書〉、2005年8月。ISBN 978-4121018106 
  • 片木篤、角野幸博、藤谷陽悦『近代日本の郊外住宅地』鹿島出版会、2000年3月。ISBN 978-4306072268 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ロシアが撤兵を中止したという、内田公使からの電文。

出典[編集]

  1. ^ 財団法人京都文化財団『京都府 文化財総合目録』407ページ、2006年。
  2. ^ 片木ほか 2000, p. 266.
  3. ^ 京都市/無鄰菴/無鄰菴とは、京都市文化市民局文化芸術企画課
  4. ^ 片木ほか 2000, p. 262-276矢崎善太郎「南禅寺下河原/京都-近代の京都に花開いた庭園文化と数寄の空間-」
  5. ^ 山縣有朋(やまがたありとも)”. 京都通(京都観光・京都検定)百科事典. 2015年3月8日閲覧。
  6. ^ 無鄰菴パンフレット、京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化芸術企画課発行。
  7. ^ 無鄰菴 | 庭園紹介”. 植彌加藤造園 -京都で、日本庭園をはぐくむ-. 2021年6月11日閲覧。
  8. ^ 鈴木博之『はじまりとしての山縣有朋』UP (UNIVERSITY PRESS) 第40巻第2号(2011年2月5日発行)東京大学出版会、46ページ。
  9. ^ 徳富蘇峰編述 1969, p. 539-540(原本の漢字表記は旧字)
  10. ^ 徳富蘇峰編述 1969, p. 541(原本の漢字表記は旧字)
  11. ^ 徳富蘇峰編述 1969, p. 538-544「無鄰菴の対露会議」
  12. ^ 岡義武 1958, p. 86-92.

関連項目[編集]

  • 東行庵 - 下関の無鄰菴
  • 真盛豆 - 第三無鄰菴庭園の茶席で販売されている京銘菓

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度0分41.7秒 東経135度47分13.8秒 / 北緯35.011583度 東経135.787167度 / 35.011583; 135.787167